第65話 社員教育


 


 1803年(享和3年) 夏  近江国八幡町 山形屋




「ふぅむ… 少し金を渡し過ぎたか…」

 隠居した山形屋七代目の仁右衛門は、現当主の八代目利助と今後の経営方針を語り合っていた。


「はい。父上のお気持ちもわかりますが、肝心の奉公人達が贅沢に溺れるようでは話になりません。

 彼らが必死になって稼いだ金で我らは運上・冥加を支払い、ご公儀と親密な関係を築く事ができます。

 それは、いざという時は山形屋を保つ為の力になります。

 彼らにその自覚を持たせなければ、今後の山形屋の経営はとてもとても…」


 仁右衛門の長男である利助が、遠慮のない調子で攻め立てる。

 仁右衛門が創設した三ツ割銀の制度は、当初こそ奉公人の精勤意欲を高めたが、制度が始まって十年近く経つこの頃には奉公人の中に贅沢に溺れる気風をもたらしていた。


 弓の独占体制を敷いた事で、そこそこの業績であればさしたる苦労もなしに積み上げられる。

 そのため、奉公人の中には仕事を早々に切り上げて盛り場に繰り出し、酒を飲んで一時の享楽に溺れる者が出て来ていた。


「酒を飲むことが悪いとは言いません。ですが、それはキッチリと仕事をしてからにするのが筋でしょう。

 ここ十年の間で年間売上が一千貫を超えたのはたった一度だけ。それ以後は再び一千貫の手前でウロウロしている状態が続いています。

 はっきり言って、奉公人達の努力ではなく弓の独占と長きにわたる蚊帳と畳表の商売の蓄積の上で成しているだけです。

 山形屋がここから先に進む為には、今の奉公人達にも死力を尽くして働いてもらう必要があります」


 仁右衛門はため息を吐いた。

 利助の言う事は筋ではある。だが、一度贅沢を覚えた者からそれを取り上げると恨みを残すことになるかもしれない。

 金の恨みの恐ろしさは、自身も武士から貸金を踏み倒されているから良く分かる。


「そなたの言う事も一理あるが… しかし、店に恨みを残させては元も子もないだろう」

「ご安心ください。店への恨みではなく、私への恨みとなるように差配いたします。

 私個人への恨みであれば、私が隠居すれば収まるはずです」

「しかし、それではそなたはどうする?そなたの力は今後の山形屋に必ず必要になると思っているのだ」


「……奉公人の中からも、店を支える器量のある者を育てていくしかありませんな。

 例え当主が頼りなくても、店を取り仕切ってしっかりと業績を伸ばせる大番頭が居れば、当主の器量には関係なく存続して行けましょう」


 仁右衛門の頭の中には一人の手代の姿が浮かんだ。

 まだまだひよっこだが、先行きが楽しみな者が一人居た。


「甚四郎を育てていくか?」

「育ってくれれば良いという程度に思うべきでしょう。甚四郎だけではなく、他の者達にも奮起を促さなければ…」

「………わかった。現当主はそなただ。そなたの信じるようにすればよい」



 七代目の創設した三ツ割銀は奉公人の中に贅沢の気風をもたらし、勤勉を旨とする八幡商人にあるまじき遊興に耽る者達が出始めていた。

 金があるなら使いたくなるのが人情ではあるが、その為に仕事が疎かになっては元も子もない。

 八代目を継いだ利助がまず目指したのは奉公人の意識改革だった。


 利助は三ツ割銀による現金の支給を一旦取りやめ、本店にて三ツ割銀も預かる事とした。

 引き出す際には本店へ理由を申告させることし、つまらない遊びに使えなくした。

 預かった三ツ割銀にも配当利子を付けて運用し、まじめに働けば退役の時には大きな資産となって返ってくるようにという配慮も忘れなかった。


 給金とは違い、三ツ割銀は引き出してはいけないというものではなかったので、現在の社内預金のように正当な理由があれば引き出させる事を禁止はしなかった。

 一面で預かった三ツ割銀はこれも不動産や事業などで運用し、店にとっても利ザヤを稼ぐ機会となった。

 現代の銀行預金に非常によく似た制度を実施したのが、八代目利助の業績だった。


 この改革に先立って江戸に視察に赴いた利助は、奉公人達にかなり厳しい言葉を浴びせたようで、江戸からは本家を恨む声があると江戸支配人の善吉から文が届いた。

 仁右衛門はあえて自分で対応はせず、その器量を信じた息子の采配を見守る事にした。



 利助が発破をかけた江戸店では、ほどなく年間売上一千貫を達成し、なおも業績は伸びを見せていた。

 仁右衛門の心にはやれば出来るじゃないかという思いと、いかに今まで奉公人の意識が甘かったかという思いがあり、利助の言う事が正しかったという事を痛感させられた。


 厳しすぎてもいけないが、甘やかしすぎてもいけない。

 従業員の意識教育の難しさを痛感する仁右衛門だった。




 1806年(文化3年) 春  蝦夷地箱館奉行所




 蝦夷地にある箱館奉行所では、遠山金四郎以下の西蝦夷調査団が出発の準備を整え、箱館奉行の戸川筑前守安論に出立の挨拶をしていた。


「それでは、行って参ります」

「うむ。十分にお気を付けられよ。ヲロシヤの船もここの所蝦夷には来ておらぬようだが、昨年には長崎に来航したとの報せもある」

「はい。今や蝦夷はヲロシヤの南下を留める防波堤でございますからな。東蝦夷はご公儀の直轄とされましたが、西蝦夷に脅威が無いかをしっかりと検分して参ります」


 この前年にロシア使節のレザノフが皇帝親書を持参して長崎に来航し、ラクスマンが受け取った『信牌』を楯に正式な交易を行うように要請していた。

 ラクスマン来航から十二年もの歳月が流れたのは、フランス革命によるヨーロッパの動乱に巻き込まれたロシアが、日本交易の為に力を割くことが出来なかったからだ。


 ラクスマンは松前での交易を望んだが、交渉に当たった石川左近将監忠房によって長崎以外での異国貿易は認められぬと丁寧に説得され、次回の交渉のためにと『信牌』を渡されていた。


 しかし、十二年の間に東蝦夷地を直轄地とし、北の防備体制を整えた幕府はレザノフの要求を断り、信牌も没収するという暴挙に出た。

 これを受けてロシアでは多少強引にでも蝦夷地での補給を可能にするために、再び蠢動を始めていた。


 イギリスのプロビデンス号も蝦夷地に来航し、現地アイヌと取引して薪水の補給を受けている。

 ヨーロッパ諸国が蝦夷地に望むのは、実は長距離航海のための補給基地としたいというその一点だった。



「西蝦夷地の交易の可能性も探る必要がある。現地の文物もしかと検分されるがよかろう」

「はい。聞くところによると、東蝦夷地では大きな損失が出ておるとか…」

「うむ。今までの商人共の請負ではなく、直接交易を行う事としたのだが、やはり我らでは商人共ほどに金を稼ぐことは出来ぬでな」


「致し方ありませんな。武士の本分は戦でござれば、商いはどうしても…」

「西蝦夷地も直轄領とする意向をご老中様はお持ちだが、いかんせんこれ以上損金が大きくなればご公儀の財政にも負担が生じる。

 交易だけでも商人の力を借りるのが上策かもしれぬと具申しておるところだ」


「左様でございましたか。では、その調査も含みということですな?」

「うむ。気に入らぬことではあるが、商人に任せてもヲロシヤの脅威が届かぬ場所を検分してもらいたい」

「承知しました」


 厚岸や根室を中心とした東蝦夷地は寛政十一年に幕府領となり、場所請負を廃止して幕府の直接交易を行っていたが、幕府の主目的は軍事拠点化にあるため飛騨屋などのように利益の為にアイヌから搾り取るという事はしなかった。

 さらにアイヌの和人化も意図しており、髭を剃らせて髷を結わせ、日本風の風俗を浸透させるために各種の方策を実施した。


 アイヌにとっては日本の(当時のアイヌ諸族と比べて)進んだ医療技術や公共サービスなども受ける事が出来、良いことづくめではあったが、同時に日本人が持ち込んだ種痘(天然痘)が流行するきっかけともなり、明治以後にはアイヌの人口が激減する遠因ともなった。



 幕府の交易は真っ当なものではあったが、ただでさえ経費が掛かる軍事拠点を維持し、さらにはこの翌年からロシア艦が略奪行為などを行う事に対する警護費用や軍事費も必要になった。

 蝦夷地の経費は年間三万両の赤字を垂れ流す金食い虫となっており、せめてロシアの脅威が届かぬ所では従来通り場所請負によって利益を上げる必要があるとの考えが幕府中枢にまで及んでいた。

 そんな中で住吉屋や恵比須屋が請け負う西蝦夷地各地は順調に利益を出してきており、嫌でも幕府の目に留まった。




 1808年(文化5年) 春  江戸勘定奉行所




 当代の三井八郎右衛門高就は、勘定奉行の小笠原和泉守長幸から呼び出され、勘定奉行所に伺候していた。

 勝手方の長幸から呼び出されたので、またぞろカネの話かと越後屋の両替店一巻の元締めを務める平右衛門を伴って来ていた。


「越後屋八郎右衛門でございます」

「うむ。面を上げられよ」

 声が掛かるとゆっくりと上体を起こした。

 小笠原長幸の馬面を拝むのは初めてではないが、相変わらず縦に細長い面相だと、思わず笑ってしまいそうになる。


「この度は一体いかなるご用向きでしょう?」

 用件などカネの話だと思っていた高就だったが、今回だけは趣が違った。


「実は、このほど儂は蝦夷地の御用を務めることになってな。蝦夷地の産物の売捌きを行い、蝦夷地の警護の費用に充てるようにとのことだ。

 越後屋は日ノ本各地に店を持って居るし、伊豆七島の島方産物会所の頭取も勤めておったと思い出してな」

「いかにも、各種の産物を扱わせて頂いておりますが…」


「そこでじゃ。蝦夷地の松前にも店を開き、御為替の御用を務めてもらえぬか?」

「蝦夷地の御為替を… でございますか?」

「左様。越後屋ならば売捌きにも強い販売網があろうし、為替も行えれば海を越えて金を運ぶ手間も削れると思うてな」


 意外な展開だった。この頃の越後屋では呉服だけでなく諸々の産物の売捌きを仲介し始めており、三井物産へと繋がる独自の物流網を整備し始めていた。

 蝦夷地に対しては近江や北陸方面の商人に全て抑えられており、北への物流網の整備に頭を悩ましている所だった。


 小笠原長幸の話は正に渡りに船と言えた。


「かしこまりました。まずは両替店での御為替の御用を務めよということですな?」

「いかにも。産物を売捌いても代金のやり取りが出来なければ意味がないからな」


 ―――これは好機だな。てっきり御用金の話かと思いきや…


 高就は平右衛門に早速に蝦夷地に支店を開く事を検討させ、早速に越後屋の元締め達に諮るように指示した。

 これ以後、越後屋では海運の整備に着手し始める事となった。


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