最終話 未来の轍


 


 1929年(昭和四年) 四月  滋賀県蒲生郡八幡町




「終わる時もあっという間だったな…」

 甚五郎はガランとした工場内の建屋で一人佇んでいた。往時は二百錘近くの紡績機が操業した八幡製糸株式会社だったが、この日三十五年の歴史に終止符を打った。


 ―――終わる時はあっという間だな…


 生糸の輸出は堅調に推移していたが、同時に国内の品質競争が激化し、八幡製糸の優位性は失われつつあった。

 甚五郎は市場に合わせて規模を拡大し続けるよりも、原点回帰として八幡製糸を廃業し、新たに能登川駅前に蚊帳製造工場を建設していた。

 昭和四年の八月二十五日に近江蚊帳製造株式会社(現・西川テックス)を開業し、父祖伝来の蚊帳製造を改めて本格化させた。


 三越や伊勢丹に倣い、西川商店内でも百貨店化するか専門店に特化するかの議論が様々に交わされていたが、甚五郎は『あくまでも西川は蚊帳売りだ』と言って専門店特化の方針を明確にしていた。

 それに伴い、生糸製造から撤退して蚊帳の一貫生産を開始した。


 世界は第一次世界大戦後の金本位制復帰に伴う金融正常化に苦しみ、好景気に沸いていた日本も世界景気の減速と関東大震災という未曽有の災害によって経済に大打撃を受けていた。

 そんな中にあって唯一アメリカだけは『永遠の繁栄』と呼ばれた好況に沸いていた。


 第一次世界大戦は世界の先進地帯であるヨーロッパを戦火に晒し、代わってアメリカが世界の工場としてヨーロッパ各国に輸出を急拡大させた。

 大戦への輸出によって重工業が発達し、特に自動車はアメリカの躍進が目覚ましかった。

 アメリカの農地は次々と工場用地として転用され、不動産バブルの到来によってカネは投機へと一気に流れ込んだ。

 長く世界の金融センターを務めて来たロンドンはその地位をウォール街に奪われ、世界の中心はアメリカへとシフトする。

 戦勝国にも関わらずGDPの400%という借金を背負ったイギリスには、もはやアメリカの独走を止める力は残されていなかった。


 そんな中、運命の1929年10月24日10時25分

 ゼネラルモータースの株価が80セント下落した


 一見何でもない株価の下落だったが、その下落をきっかけに売り注文が殺到し、投機によって膨れ上がっていた株式市場は一転して全面安の展開へと変貌する。


 後に『暗黒の木曜日』と言われたアメリカ株式市場の大暴落。


 ダウ工業株平均は一日で13%も下落し、膨れ上がった投機マネーは一気に泡と消える。

 世界で唯一の勝ち組だったアメリカ経済は、すでに多くの国が依存を強めており、アメリカの恐慌に連動して世界中で恐慌の嵐が吹き荒れる。

 そして、それは日本も例外ではなかった。




 1932年(昭和七年) 十月  滋賀県蒲生郡八幡町 西川本店




 八幡町の西川本店には東京・大阪・京都各店の重役が揃い、麻糸部主任の高橋洋一の報告に耳を傾けていた。

「先ごろ成立した満州国は、満州鉄道を中心にこれから開発が加速していく国かと思います。

 我が西川商店もこの流れに乗り遅れるべきではなく、即刻大陸に支店を開設すべきかと考えます」

「治安はどうだ?満州にはまだ戦火が残っている地域もあるんじゃないのか?」

「もちろん、治安はまだ万全とは言えません。ですが、日満合弁会社なども次々に進出するとの噂は引きも切らずです。

 新たに出来た市場をみすみす他社に切り取られるよりは、蚊帳・毛布・布団については我が西川が牽引していくべきです」


 高橋が重役たちに対して力強く具申する。

 甚五郎も今の満州国開発の波に乗り遅れてはいけないという危機感は強烈に持っていた。



 この年の三月

 満州事変をきっかけにして関東軍の主導で満州国が建国される。

 西川京都支店ではすでにシンガポールに蚊帳の大量輸出を行っており、さらに東南アジア各国や遠くアフリカにまで蚊帳と布団を売り歩いていた。

 前年の昭和六年には東京店の傘下に輸出部を設立し、日本が恐慌の余波を引きずる中でも積極的に経営を拡大していた。


 アメリカ発の世界恐慌に苦しんだ日本は、新たな市場を求めて中国大陸に進出した。

 関東軍が主導した満州国の建国は、国内市場の閉塞感に悩まされていた財界からも熱狂的な支持を得た。


 一方で国際連盟加盟国の多くは満州地域は中華民国に主権があるとして満州国を法的に承認せず、日本は国際的に孤立を深めていき、翌年の昭和八年には国際連盟を脱退する。

 後にドイツやイタリアも国際連盟を脱退し、世界は枢軸国と連合国の二陣営に分かれ始めていた。



 西川商店ではこの状況において大陸への進出を決定する。

 手始めに京城府(現・韓国ソウル市)に京城支店を開設し、昭和十四年には奉天と台北に、さらに昭和十五年には天津に支店を開店する。

 大陸に進出した日本人や、韓国・中国・台湾の人々に広まり、西川の寝具によって人々の暮らしを豊かにしていくという志を着実に歩み続けて行った。




 1936年(昭和十一年) 六月  滋賀県蒲生郡八幡町 




 十二代目西川甚五郎は六十七歳となり、家督を息子の清二郎に譲って嘉重と名を改めていた。

 清二郎はアメリカに留学して経営学を学び、今までよりも数字を意識した現代的な経営を志したが、折り悪く翌昭和十二年には日中戦争がはじまり、西川商店の商品もほとんどが軍需品として軍にその多くを買い上げられた。


 それでも満州国や台湾などへの人民服の販売や婦人服・子供服などの売上は拡大し、畳表やカーペットなどの売上も十三代目甚五郎の経営手腕によって順調に伸びて行った。


 だが、昭和十四年に第二次世界大戦が勃発し、日中戦争の泥沼が続く中で昭和十六年には真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開始される。

 日本は国家総動員法によって統制経済を敷き、西川においてもあらゆる商品が国の統制下に置かれた。


 昭和十五年には百貨店の食堂から白米が姿を消し、麦二割の混食時代へ変わる。

 物資・物価の統制はますます強まり、闇市が横行した。

 それでも西川商店では闇市に物資を流すことはなく、全ての国民に必要とされる物資を届けるために国の統制に従容として従い、全店員にも国の統制に従う事を厳しく申し付けた。


 店員の中にも動員によって兵役に取られる者が出始め、甚五郎自身も召集に応じて三度戦地へ赴いた。

 商人達が築き上げた経済は国民の豊かさの為ではなく、全て戦争を継続するために使用された。


 そして、昭和二十年八月

 甚五郎は戦陣の中で玉音放送に接した。



 

 こうして、終戦の焼け野原の中で『日本国』は誕生した。

 しかし、その歩みは過去最悪の苦難の中から始まった。


 戦前・戦中に日本が抱えた債務は、GDPの850%という未曽有の規模へと膨れ上がり、もはや日本国は誕生早々に国家破産をするしかないとさえ思われた。


 だが、日本は逃げなかった。占領軍によって破産が禁じられていたという事情もある。だが、日本人は既に何度も何度も経験し、知り抜いていた。


『通貨とは信用が全てである』と…


 そして、日本の信用を守るために国家・国民が一丸となってたった一つの約束を実行した。


『借りたカネを返す』


 ただその一事だけを成すために、日本人は過去に味わったことのない辛酸の中を生き抜いた。

 現在日本円が世界一の安全資産と言われるのも当然だろう。日本人は、もはや破産するしかないような壊滅的な状況の中で、それでも約束を守り抜いた民族なのだから。


 終戦直後の日本国は、預金封鎖の実施によって国民全員の銀行預金を強制的に差押え、預金税法によって国民全員の資産を根こそぎ国家が奪い取った。

 預金税法には累進課税が設けられ、貧乏人からでも資産の25%、金持ちからは実に90%の資産を強制的に徴収した。

 国民のカネを奪い取り、外国人に借りた金を返済した後、日本円の切り下げによって円の価値は三百六十分の一にまで価値を削り取られた。

 これによって極度のインフレを引き起こし、最悪の形で念願だった『格差の是正』が果たされた。


 金持ちも貧乏人も、全員等しく極貧生活を余儀なくされ、生活は戦時中よりもなお悪い最低水準にまで落とされた。まさに『耐えがたきを耐え、忍びがたきをを忍んで』日本人は生きる道を選んだ。


 だが、そのような日本を救ったのは、四百年に渡る蓄積だった。



 江戸時代、度重なる飢饉によって何度も行われた新田開発は、死ぬしかなかった日本人に『食糧』を作らせる原動力になった。

 元より食糧は全国民に十分に行き渡ったわけではないが、それでも今日を生き延びることが出来るようにはなった。


 物流によって必要な物資を必要とされる場所へと届け、一人でも多くの人を死なせないように努力した。


 外国人に借金を返済し、残ったカネは全て銀行に公的資金としてつぎ込んだ。

 萩原重秀以来の金融政策によって、金融が生き返れば産業は生き返ることを日本人は充分に知っていた。

 カネを得た銀行は焦土と化した国土を復興させるため、次々と新たな産業に投資を行い、血液を得た企業は次々に産業を復活させて行った。


 そして、日本は再び世界の大国として復活した。

 今度は軍事大国ではなく経済大国として、過去の歴史上で最も豊かな時代を築き上げた。




 ―――全ては、楽市楽座から始まった。

 楽市楽座によって座というグループから切り離された商人は、個人として商業を志し、原初的な資本主義経済を創り上げた。

資本主義の進展に伴って格差が拡大することを防ごうと、株仲間という組織を作り出した。

 累代に渡って知恵を積み重ね、新たな産業を次々に着想し、時には外国から技術を導入し、時には国内での発明を存分に利用し、『豊かさ』を作り出すために不断の努力を重ねた。

 『豊かさ』は同時に『格差』というどうしようもない宿命を内包しながら、それでもそれを是正しようと知恵を働かせ続けた。


『お救い』という社会保障を行い、人口の増加こそが豊かさの源泉であることを自覚し、人を死なせない世の中を追い求めた。


 おそらく日本は今岐路に立っているのだろう。

 人が働く農業国、機械が働く工業国を経て、カネが働く『金融国』という第三の資本主義の形態へと脱皮を図っている。その産みの苦しみが、平成という時代だったのではないだろうか。

 資本主義社会の進展に伴って、宿命というべき格差も拡大している。しかし、その矛盾を乗り越える知恵を探し続けて来たのが、日本人という民族なのだと思う。




 平成三十年(2018年)七月十日

 戦時体制下で東京西川・京都西川・大阪西川の三社に分かれていた西川商店は、再び西川株式会社として統合した。

 初代西川仁右衛門の歩き続けた山形屋を継ぐ者として、今も日本の『眠り』を支える企業として営業を続けている。


 時代は移り変わり、資本主義社会が進展しても商人の志はいつの時代も変わらない。

『人々の暮らしを豊かにする為に』


 激動の昭和、不況にあえいだ平成を抜け、令和、さらにまだ先へと…

 西川仁右衛門の歩いた轍は、まだ未来さきへと続いているのだろう。



――――――――


完結までお付き合いいただきありがとうございました。


私事ですが、歴史をテーマに書きたいと思った時に、郷土の英雄と言われる人達を調べる中で近江商人達の事績に接する機会があり、それらを見た時に衝撃が走りました。

彼ら近江商人達こそ、滋賀県の郷土の英雄と呼ぶにふさわしい人達だと直感しました。

恥ずかしながらそれまで『近江商人』という人達は知っていても、その商人個人個人がどのような仕事を果たしてきたのか、どのような財産を後世に残してくれたのかをほとんど知りませんでした。そして、それらを知れば知る程、私たちの祖先は偉大な人達だという思いが込み上げてきました。


要するに『昔の人は偉かった』ということを言いたいが為だけに四十万文字もの長文になってしまいました。


途中から商人個人の事績というよりは歴史年表のような形になってしまい、読みづらい箇所も多々あったかと思います。

それでも最後まで読み進めて頂いた皆様には感謝しかありません。本当にありがとうございました。



現在、別稿を立てて『鶴が舞う―蒲生三代記―』という小説を書き進めています。

こちらは近江商人達の源流を探ることをテーマに、蒲生定秀、蒲生賢秀、蒲生氏郷の三代の足跡を追っています。

こちらも是非ブックマークをお願いいたしますm(__)m


https://kakuyomu.jp/works/1177354054892412658



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近江の轍 藤瀬 慶久 @fujiseyoshihisa

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