第44話 株仲間
簡易用語解説です
中世ヨーロッパでの手形割引……
約束の期日に支払うとして振り出した手形(約束手形)を、期日前に支払うことで額面のディスカウント(割引)をした制度
売り手と買い手の相対取引
現代銀行融資での手形割引……
商品・サービスの代金として受け取った約束手形を担保にして金融機関から融資を受ける制度
融資金の返済は手形の入金を持って代えるため、事実上の売掛債権の売却となる
売り手、買い手、貸し手の三者取引
ただし、手形が不渡りとなった際の回収義務は売り手にあるため、融資金が決済できなければ融資を受けた者(売り手)が手形を買い戻す義務がある
信用創造…
相手に信用を与えることで手持ち現金以上の購買力を持たせる行為
=与信=融資
クレジットカードなども信用創造の一種
※ ※ ※
1690年(元禄3年) 春 江戸日本橋一丁目
「さて、棚揃えはこのくらいかな」
西川利助は親戚の嶋屋弥兵衛、釘抜屋又七と共にそれぞれ銀十八貫づつを出資し、江戸日本橋一丁目に蚊帳・畳表を扱う三家共同経営店『松店』を開いていた
店主の名義は松屋長左衛門とし、支配人として山形屋の手代の孫七に当たらせた
「いままでの屋号を変えることで、新たに大衆向け販売店として認知してもらえれば良いですな」
「いかにも。越後屋さんに倣って正札(定価)販売ですからな。掛売は残すとしても、庶民向け店舗であれば今出入りしているお武家様と顧客がかぶることもないでしょう」
三家の店主で上機嫌に話していた
初代仁右衛門以来分かれていた家で共同経営をすることは、別れた兄弟が久しぶりに再会したような感慨深さが三人の胸の中にあった
「孫七、責任重大だぞ」
「もう充分過ぎるほど重く感じておりますよ」
三家代表の江戸支配人を任された孫七は、その言葉とは裏腹に気楽な雰囲気で答えた
「差し当たり、
越後屋さんも当初は江戸中にばらまくように引札を出しておられた。我々も取り入れるべきは取り入れて真似ていきます」
「うむ。松店の経営に関しては孫七に任せる。盆と暮の営業報告だけは欠かさぬようにな」
「かしこまりました」
同じ頃、大津の米穀商から大坂の呉服商に転身した『枡屋』岩城久右衛門も江戸麹町五丁目に店を構えていた
商法は越後屋に倣い、現金掛値無しを標榜した
既に消費の中心は中産階級の町人達へと移っていた
1690年(元禄3年) 秋 大坂今橋二丁目 鴻池屋
「三井八郎右衛門と申します。こちらは弟の四郎右衛門ににございます」
「鴻池善右衛門でございます。今後ともよしなに」
「こちらこそよしなに願います」
『鴻池屋』も既に代を経て現当主は三代目善右衛門宗利となっていた
―――これが噂の越後屋の総帥か
『伊勢乞食』とは聞いたことがあるが、三井八郎右衛門と名乗らなければそこらの小間物屋のご隠居と言われてもわからんな
なるほど、ここまで始末されては並の商人では敵うまい
高利の長男高平は粗末な恰好で仕入れに走り回り、同業者から嫌がらせを受けていた時期もその人柄は同業者以外からはすこぶる評判が良かった
今も大越後屋の総帥とは思えないほどの質素倹約ぶりで、貧乏商家のご隠居と見まがうばかりであった
「して、今日はいかなるご用件でしょうか?」
「ご挨拶にございます。
お聞き及びと思いますが、この七月にご公儀の『
来年には高麗橋一丁目に大坂の呉服店と両替店を開設いたします
大坂の両替店とご公儀御用はこの四郎右衛門が担当いたしますが、何分大坂では新参者であり、若輩者でもありますのでよろしくお引き立てを願いたいと思いまして」
「これはご丁寧に痛み入ります
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの越後屋さんと競い合うとなれば、これは我らもうかうかとできませんな」
「いえいえ、お手柔らかにお願いいたします」
声を揃えて笑い声が響いた
江戸の越後屋は呉服業から始まったが、駿河町移転時に設けた両替店が幕府に注目され昨年の元禄二年の三月に江戸本両替仲間に加入し、さらに元禄三年の七月には幕府の公金取扱御用を拝命していた
大坂御金蔵銀御為替とは、大坂で年貢米を売却した代金を預かり、為替を組んで六十日後に江戸で現金に換えて幕府勘定所に納入する役目のことだ
従来幕府は大坂で米を売却した代金を陸路で江戸まで運び、金貨に両替して保管した
将軍家御用のカネを奪い去ろうなどという者はいなかったが、莫大な手間がかかっていた
そこで勘定所の実力者である萩原重秀の強い推挙があり、越後屋が為替に仕立てて江戸へ送る御用を務めることになった
幕府としては現物の運搬経費を削減できるし、越後屋としても幕府の巨大な公金を六十日間自由に運用できるというメリットがあった
つまり、京・大坂での仕入れ銀を公金によって決済し、勘定所に納める分は江戸店の売上から捻出する
こうすれば金銀交換による手数料分はまるまる越後屋の儲けとなり、また巨額な運転資金を確保することが出来る
越後屋は既に京の仕入れ店も拡張して両替店を併設しており、江戸・京・大坂に呉服店と両替店を置き、さらに越後や伊勢には木綿の仕入れ店を設置していた
特にこの年に拝命した幕府公金の取り扱いは後の金融業の発展を大いに助けることになり、呉服業と金融業は越後屋の事業の両輪として発展していくことになる
1691年(元禄4年) 夏 武蔵国児玉郡本庄新田町 灰屋
「ごめんください」
「ああ、麻屋さん。持ち下りの荷は用意できてますよ」
「いつもありがとうございます」
『灰屋』三代目久兵衛は近頃頻繁に出入りする同郷の行商人を迎えていた
行商人の名は『麻屋』三代目
祖父の市田庄兵衛は伴伝次郎の足子として、また本能寺の変後は西川仁右衛門と共に行商仲間として各地を歩きまわった男だった
市田家は関東方面に早いうちから進出していたが、江戸に店を出すことはせずに代々武蔵国や上野国へ行商を行っていた
奥羽方面へ向かった最上屋や近江屋と八幡町・江戸各店との間を繋ぐ役割をした一人だった
「これから奥羽ですか?」
「ええ、雪が降る前に行って戻ってきたいと思っていまして」
「今年はなにやら稲の実りが思わしくないとか… また飢饉にならねば良いのですが…」
「こればかりは我らにはどうしようもないことですからなぁ」
清兵衛は頭を掻きながら愛嬌のある顔で話していた
厳しい顔つきをしていた久兵衛も釣られて自然と笑みがこぼれる
―――あまり深刻に悩みすぎるのも良くないかな
清兵衛の明るさにいつも救われる久兵衛だった
「しかし、灰屋さんで蚊帳を卸してもらえるのは助かりました。蚊帳株仲間からは行商売を廃するとお達しがあって困り果てていたところですので」
「なんの、麻屋さんは八幡町でも古参の家柄。株仲間の皆さんも公には卸せないが、良きように計らって欲しいと言われておりましたので…」
「有難い事です。先祖の遺徳に感謝ですなぁ」
元禄後期に入ると、八幡町のゑびす講仲間は八幡町の代官・金丸又左衛門に蚊帳問屋株の印形と書付を届け出て、正式に『蚊帳株仲間』として公認される
初期の仲間は十四軒で、これ以後の新規加入は仲間全員の許可を必要とする免許制となった
仲間組織の整備と共に、株仲間は独自の信用取引制度を創り出す
一、江戸・八幡において蚊帳卸売りは売掛で行うこととし、決済期日前に内金を取ることを禁止する(期限の利益の保証)
一、売掛代金支払いの滞っている商人には売ることを禁じ、江戸から買い付けに来た商人については仲間に断ってから売る事(信用情報の共有)
このように現金販売よりも資金効率が悪い掛売販売に対して、買掛金に期限の利益を保証することで運転資金を増強し、掛けでの卸売りのデメリットを打ち消していた
そして、取引に当たっては『蚊帳手形』を発行し、期日前に現金が必要となった時には手形を決済代金の代わりに仲間内で流通させる
事実上の売掛債権の売却、つまり『手形割引』による信用創造を行った
本来的に株仲間は許可制にすることで同業者の増加を抑制し、同業者間の過当競争を防ごうという寡占組織であり、座商人と同種の物価と物流の統制組織であると言える
蚊帳の値段を仲間内で統一することで値崩れを防ぎ、一種のブランドを保持する
それは同時に投機的な値上げも許さない組織ともなる
そして、彼ら仲間内の強固な信用を担保とすることで、従来は両替商に依存していた『融資=与信』という金融ツールを仲間内で行う事が可能となった
現代の銀行融資に優るとも劣らない非常に優れた与信ツールを17世紀末期にすでに発明していたことは、驚きを通り越して感動すら覚えるほどだ
この一事を見ても、近世日本が経済学的に遅れた国だという認識は間違いだと思う
『債権売却』の一種である『手形割引』という行動は、信用による名目価値の創造という概念がお互いに理解されていなければとても成り立たない
つまり、仲間内で蚊帳手形が最終的に現金に変わるという『信用』があるからこそ手形が通貨の代替物として流通する
一方、蚊帳という商品生産の手段としては二代甚五郎の時代から越前の綛問屋から原料を仕入れる問屋制家内工業は行われていたが、
元禄七年(1694年)刊行の井原西鶴の『西鶴織留』には
「毎日蚊帳縫女八十人余り、乳縁付る女五十人が大広敷きにならびたるはさながらこれ女護の島の如し。されどもこれほどの中に都めきたる娘はひとりもなかりき。
朝夕の食事も飯櫃に車座して六尺に三人引きまわり、平盛の杓子がムカデの足の如し」
という、大作業場による
改めて、江戸時代の日本は経済学的に見れば決してヨーロッパに遅れた後進国ではなかった
都市部でも農村部でも資本の集中と労働者階級の出現という資本主義社会の構成要件が現れ、それを証拠立てるように近代資本主義に至る工場による商品生産と金融というツールが現れている
そして、資本主義社会を成立させるには民主主義という政体を必ずしも必要としないことは21世紀の中国が証明している
彼らに足りなかったのはただ一つ『エネルギー革命』という技術革新だけだった
では、エネルギー革命による技術革新の成果を得る明治期までに日本はこれから150年以上の時間をただ無為に引きこもって過ごしたのだろうか
答えは『否』だと思う
彼らはこれから150年以上の時間を掛けて、あらゆる経済政策の有効性を社会実験を繰り返すことで『知恵』として社会の中に集積していったのではないだろうか
その社会に蓄積された知恵があったからこそ、明治の文明開化によって一気に近代化の階段を駆け上り、たったの30年余りで西欧列強とまがりなりにも渡り合える強国を作り得たのだろう
それはたった一人の天才によって為せるものではなく、日本人という民族そのものが何代にも渡って為政者・資本家・労働者といった各階層で複合的に知恵を集積しあったからこそ為し得たことだと思う
逆に言えば、この260年に渡る蓄積がなければ、現在の経済大国としての日本は存在しなかったのではないだろうか
ファンタジー的な例えで言えば、近世の日本は
『
『
そして、
少なくとも、科学技術や政治体制といった外見ではなく、国家の本質としての経済に関しては決してバカにされるようなレベルにはない
もしも回り道をせずに経済政策が適正に運用されていれば、江戸期のうちに独自の産業革命すら起こせていたかもしれない
そう思わせるだけの潜在力が江戸期の日本にはあるように思う
そして、その大元の源流を辿れば、彼らの創業初代を輩出した楽市楽座にたどり着くのではないか
もちろん、楽市楽座を世に広めた信長にもそのような意図があったとは到底思えない
しかし、結果として
では、その社会実験を通じて蓄積された『知恵』とはどのような物なのか
この後の商人達の生きざまを追い続けて行こう
※ ※ ※
『日本独自の産業革命』のくだりについて、比較対象としてイギリス産業革命の進展をコラムの轍に載せています
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890773436/episodes/1177354054891168382
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