第81話 明治維新


 


 1866年(慶応二年) 十一月  京 越後屋大元方会所




「なんだと!?ご公儀預かり金に多額の滞り金があっただと!?」

 三井越後屋の総帥、八代目八郎右衛門の三井高福たかよしは驚きの声を上げた。

 目の前には江戸呉服店の名代役・稲垣次郎七と両替店の支配人・永田甚七が頭を下げている。


「申し訳ございません。我らの監督不行き届きでございました」

「むぅ… それで百五十万両などという法外な御用金を…」

 高福は先年の御用金額に納得した。百五十万両とはいかにも法外な金額であり、横浜店では余程の利益を得ているという風説でもあるのかと調査させた結果、発覚した事だった。


「かくなる上は、もしもこの先の御用金を断れば預かり金の一括返納を求められるかもしれません。

 預かり金の一括返納などをすれば…」

「わかっている。そのような事になれば、越後屋は破産する」


 開国以来の洋銀の取り扱いと呉服店の赤字により、横浜店ではとうとう公金に手を付けるという不祥事を起こしていた。

 洋銀や公金の出納は江戸店の管轄か横浜店の管轄かが不透明であったことも災いし、上層部が知らぬ間に越後屋は危急存亡の時を迎えていた。


 しばらく難しい顔をしていた高福は、覚悟を決めたように一つため息を吐いた。


「こうなれば、今後は各店で御用を務めるわけにはいかんな。大元方の直轄機関として、『御用所』を創設しよう」

「はっ。御用所は旦那様が兼任なされるのでしょうか?」

「いいや」

 そう言って首を振ると、高福は傍らで話の行方を見守っていた美野川利八に向き直った。

 利八は御用金減免を仲介した縁で、今回の調査にも関わっていた。


「聞いてもらった通り、我が越後屋の内実はボロボロです。紀伊国屋さんと申されましたな。

 どうかお願いです。我が越後屋を建て直す為、越後屋にお手前を迎えさせてはいただけませんか?」


 唐突な申し出だったが、高福は利八を一目見た時からこの男ならばと思っていた。

 利八も突然の事にただただ驚いていた。


「旦那様。いきなりそのような事を申されても紀ノ国屋さんもお困りで…」

「いいや、この難局を切り抜けられるのは紀ノ国屋さんしかいない。この通りです」

 そう言うと、高福は三井に比べれば小身の砂糖商に過ぎない利八に深々と頭を下げた。

 気まずい沈黙が流れ、次郎七と甚七もチラチラと高福と利八を交互に見る事しかできない。


 利八は驚いた顔のまましばし考え込んでいたが、やがて心を決めるとゆっくりと頷いた。

「承知いたしました。そこまで見込んで頂けて、商人冥利に尽きるというものです。

 御用所の差配は私にお任せくださいませ」

「おお!ありがたい!よろしくお頼み申します」

 心底喜んだ顔で高福が顔を上げる。六十を超えた高福の目尻には深い皺が浮かんでいた。



 三井に入った利八は、八郎右衛門を当主の通字とする三井家で利八の名は差支えがあるとして三野村みのむら利左衛門りざえもんに改名する。

 明治初期の三井財閥を支えた大番頭、三野村利左衛門と三井高福の出会いだった。


 利左衛門は新設された御用所の責任者として、宿持手代として越後屋に加わる。

 現代の会社組織で言えば取締役常務としての待遇であり、まさに破格の待遇での抜擢だった。




 1867年(慶応三年) 十二月二十六日  京 越後屋大元方会所




 越後屋の大元方会所には現当主の八代目高福、高福の息子の高朗、小石川三井家の高喜、三野村利左衛門、能勢規十郎、斎藤純蔵などの越後屋首脳部が勢ぞろいしていた。


「次郎右衛門。情勢はどうだ?」

「未だなんとも… 幕府方も相応に軍備を用意しているようでございます」


 高福の言葉に次郎右衛門高朗が答える。

 二か月前には十五代将軍慶喜が大政を奉還し、王政復古の大号令が出されていた。

 慶喜は大坂に移ったが、旧幕閣や旧幕府軍は戦力を集結して京坂各地に軍勢を展開。対する薩長新政府軍は京に集結し、事態は一触即発の状態に発展した。



 一人の手代が部屋に入ると、高朗に一枚の書付を渡した。


「どうやら薩摩藩邸から兵が続々と京都各地に派遣されているようです。

 もはやどちらに付くか決めなければならないかと」


「………」


 一座に沈黙が下りた。この決定は三井越後屋の命運を決める事に成り兼ねない。迂闊な事は言えなかった。


 高朗は幕府軍・新政府軍と朝廷に密偵を放ち、刻々と変化する情勢を全て把握していた。

 幕府方の同朋衆や薩長・朝廷の使用人などの噂話まで把握し、町触・張り紙・本丸への人数差出の配置・藩邸の人の出入りから要求した御用金の内訳まで、あらゆる情報が発せられてから三十分もしない内に高朗の元に届けられた。



「失礼します」

 大元方の番頭がひと声かけて室内に入る。

 張り詰めた空気におののきながらも、全員に聞こえるように言上した。


「御所の金穀出納所きんこくすいとうしょより我が越後屋に呼び出しの使者が参っております」


 高福と高朗が顔を見合わせて頷く。


「利左衛門。行ってくれるか」

「は。して、どちらに付きましょう」

 旧幕府軍か新政府軍か、どちらを支持するのか越後屋も旗幟を鮮明にしなければならない。

 呼び出されるという事は新政府軍に付けと促されるのは分かっていた。


「利左衛門に任せる。最後は君の判断に委ねよう」

「……かしこまりました」


 一礼すると利左衛門は席を立って使者の元へと向かった。

 十二月九日に政情がキナ臭さを帯びてから、首脳部で様々に議論を尽くした。

 だが、結局結論は出なかった。


 高福は最後の命運をこの男こそと見込んだ三野村利左衛門に託す事とした。




 1867年(慶応三年) 十二月二十六日  京都御所 金穀出納所




 利左衛門が金穀出納所に伺候すると、松平春嶽、岩倉具視、大久保利通、熊谷久右衛門らが待ち構えていた。


「越後屋手代の三野村利左衛門と申します。お呼びにより参じました」

「おお!よく来て下さった」

 一座を代表して熊谷久右衛門が声を発する。

 久右衛門は鳩居堂きゅうきょどうという筆墨香具商で、早くから新政府軍に資金提供などを行っていた。


「して、お呼びのご用向きはいかなるものでしょうか?」

 用件など分かり切っていたが、あえて利左衛門は久右衛門に問うた。


「お分かりでございましょう。朝廷に対し奉り、ご協力の要請でございます」

 にこやかに笑う久右衛門に対し、大久保利通と岩倉具視は面白くない顔をし、松平春嶽は無表情だった。


 ―――相変わらず、武士は人に物を頼む態度を知らんな


 利左衛門は、自身も武士の出であるために大久保らの仏頂面の理由がよくわかり、思わず笑いそうになった。

 新政府軍の内情はよくわかっている。三井が協力しなければまともに軍資金を賄えない。

 旧幕府軍と戦争どころではないのだ。


 それでも、議定や参議といったやんごとなき方々は商人如きに下げる頭を持たぬのかとむしろ可笑しさを感じた。


「そう申されましても、手前どもも幕府から散々に御用を命じられて台所は火の車になっております。

 御用に応じよと申されましても…」

 やや芝居がかった態度を見せる。戦をするにも内政をするにも、先立つものが無ければどうしようもない。

 金を出せというのならば、せいぜい三井を高く売りつけなければならない。

 これは『商談』なのだ。


「君は国家に奉じる志がないのか」

 大久保が不機嫌を隠そうともせずに利左衛門をなじる。

 岩倉もそれに同調したが、春嶽だけは無表情のまま大久保と岩倉の二人を見ていた。


 ―――新政府と言っても一枚岩ではないらしい


 利左衛門は詰る事しか知らぬ二人を内心軽蔑したが、ともあれ春嶽の表情に付け入る隙がありそうだと見て心が決まった。


 ―――対立があるのなら、商売人が浮かぶ瀬も作れよう


 カネを支配するのはお手の物だ。政府内に対立があるのならばカネの力で三井の地位を高める事もできる。

 少し思案顔を作っていると、久右衛門が焦って内情を暴露してしまった。


「恐れ多くも朝廷には一金の御蓄えもない状態です。今越後屋さんが合力していただければ、朝廷もそれなりのお計らいを致されましょう」

「ほう……」

 利左衛門の目がキラリと光った。


「それはそれは、さぞお困りでございましょうな」

 案の定、大久保と岩倉が不機嫌に黙り込む。そこへ春嶽が初めて口を開いた。


「君の言う通り、困っている。なんとか助けてもらえまいか」

「春嶽様!商人相手にそのような…」

「大久保卿。事実は事実として認めなければ話は進みません。越後屋の協力が無ければ、倒幕倒幕と騒いでみても軍を維持する事すら出来んのです。素直に認めましょう」

「……」


 今まで商人などカネを引き出す道具としてしか考えて来なかった大久保は、商人相手に頭を下げる事に耐えられない様子だった。

 口惜しそうに顔を歪めながら頭を下げる両名を前に、利左衛門は慌てたような様子で二人の手を取った。


「そのような真似はおやめください。手前どもにできる限りの事はさせていただきます。どうか顔をお上げ下さい」

 顔を上げた二人は、初めて商人にも良き者が居ると知ったような風情だった。

 だが、当の利左衛門は腹の中で舌を出していた。


 これから長い付き合いになる。無駄に恨みを買う必要はない。

 何かと便宜を図ってもらわねばならんからな。


 この瞬間、三井は日本一の大財閥としての一歩を踏み出した。

 今後の日本国の整備にはカネがかかる。そして、相応のビジネスチャンスも舞い込んでくるはずだ。

 見た目のにこやかな笑顔とは裏腹に、利左衛門の頭の中では早くも新しい日本での商売を考えていた。



 四日後の十二月晦日

 三井は請書と共に取り急ぎ金千両を金穀出納所に献上する。

 明治新政府の金庫番としての最初の投資だった。


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