第26話 鎖国令


 


 1622年(元和8年) 春  肥前国彼杵郡長崎 長崎奉行所




 平山常陳の陳情を受けた長崎奉行・代官・松浦藩は、足かけ二年に渡って事件の推移を調査していた


「―――ということは、平山の船に乗っていたペトロ・デ・スニガとルイス・フロレスの二名は、キリシタンの宣教師に間違いないということですな?」

「左様。本人たちが自白しました」


 長崎奉行・長谷川藤広と長崎代官・末次政直、松浦藩主・松浦隆信の三名が車座になって会議を開いていた



「もう一度状況を整理しましょう」

 進行役として末次政直が話をまとめだした


「まず、二年前の元和六年に高山国(台湾)近海で平山常陳の船がイギリス・オランダ船に拿捕されました。

 彼らは幕府が禁じている宣教師二名を平山が乗せていたと主張し、平山が禁令を破った為成敗したのであり、船の積み荷を没収することは正当だと申しています。

 一方、平山は乗せた二名は宣教師ではなく、あくまで商人であると主張しております。

 これがそもそもの始まりです」


 末次の言葉に、長谷川と松浦も頷く


「ところが、事は単純に幕府禁令を破ったというだけではありません。

 彼らの祖国では、イスパニア・ポルトガルとイギリス・オランダが長年争っているとのこと。この日ノ本周辺での争いは、その延長線上でのことでござる。


 単純にイギリス・オランダが正義であるとも言い切れぬ」


「彼らは何故争っておるのだ?」


「宗門の争いにござる。キリシタンの中にも、カトリックとプロテスタントという宗派が分かれているそうでござる。

 その宗派の違いによる抗争と見てよろしいかと」

「宗門争いか…」

 松浦が顔をしかめる


 織田信長の例を挙げるまでもなく多くの武士を悩ませた一向一揆は、他宗派の仏教とも対立することが多かった

 宗門争いをする彼らキリシタンが一向一揆と同じにならないとは誰も言えなかった


「上様はキリシタンの布教を禁止しておられますが、南蛮との交易自体を否定しているわけではございません。その点、イギリス・オランダはキリシタンの布教を交易の条件とするイスパニアやポルトガルとは趣を異にしておりまする」




 カトリック教国であるポルトガル・スペインは、プロテスタントの宗教改革に頭を痛めていたローマ教皇によって航海を支援されていた

 ヨーロッパでの布教がプロテスタントとの抗争で行き詰まる中、未開の大地を布教先として勢力の拡大を図ったバチカンによる戦略だった


 ローマ教皇はいわば強力なスポンサーの一人となった

 ポルトガル・スペインの交易が布教を伴ったのはこれが原因だ



 一方プロテスタントは、完全無欠の神は救われる者を予め決めている(予定説)とし、布教による善行を施さなければ天国へは行けない(善行説)とするカトリックと異なった

 その為、当時日本に来るイギリス・オランダの商船は、布教は布教・交易は交易と切り分けて対応した

 鎖国後の日本でヨーロッパの中でもオランダとだけ交易が継続されたのは、オランダが布教を行わなかったからだ



 ちなみにイギリスが交易相手として残らなかったのは、オランダとのアジア貿易をめぐる権益争いでイギリスが敗北したからだ

 イギリスはこの翌年の元和九年のアンボイナ事件に前後して東南アジア方面から撤退し、インド・中東方面に資本を集中していく事になる

 実際、この翌年の元和九年には平戸のイギリス商館を閉鎖して日本市場から撤退している




 つまり、徳川幕府の鎖国令とは本来的にキリシタンの禁教令だった


 禁教を徹底するために、カトリックとの交易を制限し、朱印船によってカトリック宣教師が抜け荷として入って来ることを防ぐために海禁政策を取った



 そのため、この当時の幕閣には『国を閉じる』という意識はない

 彼らはあくまで海禁策を禁教を徹底するための手段としてしか考えなかった

 しかし、先例主義に凝り固まった後の幕府官僚たちは、バチカンの権威が低下してカトリックが政治的な権力を失っても海禁策を維持し続け、近代の波を迎えるに至った


 これが、二百年以上に渡る鎖国令の本質だった




 明治以降、この鎖国令が徳川政権による暗黒時代の象徴のように語られるが、これは官軍となった薩長藩閥とその意を受けた学者たちによる世論誘導プロパガンダでしかない

 現在に残る古文書の研究から、徳川政権はむしろ質素倹約を旨とし、農業に軸足を置き、農民を良く撫育し、事あらばお救いと呼ばれる農民援助政策を実行した

 そもそも商業資本や貨幣経済は、消費者たる一般庶民の生活水準の向上なしには発達し得ない

 そのことを考えれば、徳川政権は庶民の生活向上を第一に為していったと考えるのが順当だろう


 政治の場においても、十万石以下の大名のみによって幕閣を組織するなど、金と公権力が集中することを制限した


 海禁政策にしても別段日本だけに限らず、明や清など北東アジアでは多くの国が実施した

 西欧諸国の場外乱闘に巻き込まれることを嫌った結果だと思う


 ただし、徳川幕府も完全無欠の良政権であったわけではない

 その治世においては数々の失政や腐敗事件を内包している




「上様は、キリシタンによる宗門争いに日ノ本が巻き込まることを憂慮しておられます。

 この際、イギリス・オランダの正義は置いておいても、イスパニアやポルトガルによる布教を許すことはできません。

 スニガとフロレスが宣教師であると認めた以上、これを放置することはできませんな」


 末次が長谷川の方を向き直り、改めて話を続けた


「これは問題ですぞ、長谷川様。スニガとフロレスの両名は長谷川様と知己であると申しておりました。

 長谷川様は知っていながら彼らをかばったのではありませんか?」


 長崎代官の末次政直が長谷川藤広に詰め寄る


「末次殿、決してそのようなことはない。某も会った時は南蛮商人として知遇を得たのです」

「しかし、現実には彼らは宣教師であった。彼らを放置するわけにはいきませぬ」

「いかにも。彼らと平山は火刑とし、今捕えているキリシタン共々処刑いたします。

 その差配は某が致しましょう。

 それによって某に掛けられたあらぬ疑いは晴れましょう」


「左様ですか。それでは、事の裁きは長崎奉行様にお任せいたしまする」




 その後の八月に長崎の西坂でカトリックの信徒や宣教師五十五名が処刑された

 この事件は『元和の大殉教』として西欧諸国に伝えられた


 これ以後、幕府のキリシタン弾圧は日に日にその苛烈さを増していった




 1624年(寛永元年) 秋  近江国蒲生郡八幡町




「朝鮮からの使節がこの八幡町で昼食を取られるそうにございます。

 お供の方を含めるとおおよそ千人以上の大人数となります。各商家の方々には申し訳ないことながら、ご協力をお願いしたい」


 八幡町の会所で総年寄と各町年寄が寄合を持っていた

 仁右衛門は大杉町の年寄として出席していた



「千人を超える大行列となると、あらゆる場所から饗応を尽くさねばなりませんな」

「左様。幕府天領でもある八幡町で、ご公儀に恥をかかせるわけにはゆきませぬ。ここはひとつ全員で協力してかかりましょう」

 山形屋仁右衛門と扇屋伴荘右衛門が答える


 年寄衆の中には明確に顔をしかめている者もいた

 正直、八幡町を通りさえしなければこんな事にならなかったのにと思っている顔だ




 寛永元年のこの冬

 家光の三代将軍就任祝賀と文禄・慶長の役の捕虜返還交渉のため、朝鮮から友好使節が訪れていた

 八幡町を通る下街道は、家康が関ケ原から大坂へ至る時に通った道であり、その由緒を持って家光も上洛に下街道を使った

 以後、八幡町を通る下街道は徳川将軍家にとって由緒ある道として、他の大名家が勝手に行列を催す事を禁止した



 武士の通行が少なくなるので、宿場としての発展は中山道ほどには期待できない

 徳川将軍家の御用でお世話するのであれば、宿賃などもらえると期待する方がバカげている

 しかも、将軍家御用となれば断ることもままならない

 八幡町にとっては有難迷惑な由緒だった



 一方、国賓として遇された朝鮮からの通信使は、この下街道を通ることになり、当然ながらその行列のお世話も八幡町の役目となった

 朝鮮通信使が使用したことで、この下街道は後に『朝鮮人街道』と呼ばれることになる

 現代でも地元の人には、滋賀県の県道2号線は朝鮮人街道として親しまれている




「ともあれ、まずは行列の行程を知らねばなりませんな。

 代官所からお知らせはないのですか?」

「来る十一月の朔日に守山宿まで参られるそうにございます。翌日早朝には守山宿を立たれて、彦根宿を目指されます。

 十一月二日の昼食を八幡町でお世話せよとの代官所からの通達にござる」

 二代目総年寄を継いだ二代目西村嘉右衛門が答える


 生糸を買付けると言って飛び出した弟太郎右衛門の身を案じながら、堂々と二代目としての役目を果たしていた


「では、準備期間はあと一か月ですな。急がねばなりますまい」

「皆様、どうかよろしくお願いいたします」



 そう言うと、散会となって各商家は割り当てられた準備に走り回った

 山形屋では正使一行をもてなす一の膳を担当することになった


 通信使の昼食は熨斗アワビを三方に乗せた前膳に続き、本膳三膳にて饗応される

 第一の膳はカラスミ・尾頭付きの鯛の塩焼き・蒲鉾など、当時としてはかなり贅沢な品々が器に山盛りになって供される

 饗応膳は儀式的な意味合いが強く、大量の食材を用意しても食されるのはほんの一口づつで、その後に昼食としての膳を供すことになる

 始末・倹約を旨とする八幡商人達からすればバカバカしい限りだが、役目として申し付けられた以上はしっかりと果たさなければならない








(やれやれ、大変な損失だ)

 仁右衛門も内心でため息をついた

 しかめっ面の者達の気持ちも良く理解できたが、やるならば徹底的にやらねばならない


 通信使の通行に合わせて、町の中でも貧民の住む街区や、便所の処理物を貯めておく肥溜めなど見苦しい物を見せるわけにはいかない

 そのため、葦簀などを大量に手配して、御使者の行列からは見えないように手配した


 通信使や将軍家の行列などまさに有難迷惑でしかなかった





(江戸の甚五郎にまた負担をかけてしまうな…)

 そのことが仁右衛門には少し心苦しかった

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