第45話 未知の領域


簡易用語解説です


貨幣…価値の基準 特に貴金属によって鋳造された硬貨 いわゆる金貨・銀貨を指す場合が多いが、正確には素材は何でもいいとされる


通貨…商取引の媒介として一般的に流通する貨幣の事

現在では通貨と貨幣はほぼ同じ意味に使われるが、本来の意味は若干違う


品位…貨幣に含まれる金・銀の含有率の事 金品位80%なら金貨の内80%が金ということ


金銀比価…金と銀の交換比率のこと



※   ※   ※



 


 1693年(元禄6年) 夏  京 名古屋丹水屋敷




 日野の行商人正野源七は京の医師『名古屋丹水』の屋敷を訪れていた


「ごめんください!」

「はいはい。どういった症状でしょう?」

 応対に出てきた女性が患者と思って症状を聞いてくる



「あ、いえ、患者ではないのです。丹水先生の門下に加えて頂きたく罷り越しました」

「はぁ!? あの… 少々お待ちください」


 しばらくすると丹水の部屋に通された



 丹水は入って来た源七に見覚えがあった

 確か三年ほど前に彼の母が重篤で、診て欲しいとわざわざ近江の日野からおぶって来た男だったと記憶している


「失礼ながら、今おいくつかな?」

「今年で三十五になります」

「三十五… 医術はそんなに簡単な物ではない。今から修行してモノになるかどうかも怪しい

 悪いことは言わない。このまま日野へ帰られるがよろしかろう」

「いいえ、私は母の病を治療して下さった丹水先生の元で何としても医術を学びたいのです。そして多くの人の病を治してゆきたいのです」


「お志は立派だが、人には出来ることと出来ないことがある。

 お手前のような行商人なら、遠国へ荷を運んでやる方が人々の助けになるのではないのかな?」


「私は昨日まで越後・信濃へ行商へ行っておりました。山深い集落では医者にかかることも出来ずに為すすべなく亡くなっていく方々が多くいらっしゃいます

 私はそのような方をもっと減らしたい

 それはこの目で現状を見てきた私にしか出来ない事だと思っております


 どうか、門弟の末席にお加えください」



 丹水は三十を過ぎた大の男がこれほどまでに真摯に学び、医の届かぬ人々を救いたいという気持ちに心を動かされた

 源七は丹水門弟の中でも新弟子でありながら一番年上だったが、その分必死に修行を重ね、見る見る間に丹水の医術を学び取り、自分の物としていった



 源七は飢饉に苦しむ村人を見ていられなかった

 元禄の初期から数年間東北地方では日照不足から飢饉が発生し、飢えて死ぬ者や身売りする者、果ては絶望して子供と共に心中する者など悲惨な状況だった


 そして、飢饉の中で流行り病にかかって死んでいく者も多数見受けられた

 食糧の確保は領主や幕府の領分で、富裕商でもない一行商人である源七には手が出せない

 だが、医術を学ぶことは彼らの助けになるはずだと確信していた




 1695年(元禄8年) 夏  江戸勘定奉行所




 勘定奉行所の一室で老中・阿部豊後守正武は勘定吟味役の萩原彦次郎重秀と対面していた



「先ほど上様のお下知があった。その方の言を容れ、権現様以来の金・銀を吹き直せとのお達しだ

 まことにこれで良いのだな?彦次郎」

「は、ありがとうございます。これでご公儀の財政状況は大幅に改善できましょう

 通貨に必要なのは金銀ではありません。ご公儀がそれを通貨と認めるという『信用』なのでございます」

「うむ… 」


 正武も今までに幾度となく重秀から聞かされた概念だった



「カネはその通用をご公儀の信用によって勝ち得るということだったな」


「いかにも。越後屋はご公儀の大坂銀をわずか紙切れ一枚に変え、それを江戸に持ってくることで小判へと変えまする

 これは、その紙切れ一枚を越後屋が責任を持って小判に変えるという『信用』によって為し得ていること


 また、株仲間の商人達も仲間内で紙切れ一枚を持って支払銀に代えております

 これも仲間同士の『信用』があるからこそ、紙切れ一枚が金銀と同じ価値を持ちまする

 


 今我らがやるのはこれでござる



 ご公儀の『信用』を持って市井の者に通貨としての価値を保証すれば、わずか紙切れ一枚でも小判と同じ働きを致します


 此度の吹き替えによってご公儀の金蔵が潤えば、先年来よりご公儀はじめ日ノ本全てを悩ませる『カネ不足』が解消いたしましょう」



 元禄の改鋳と言われる萩原重秀の歴史的偉業だった



 慶長小判が品位86.79%だったのに対し、元禄小判では品位57.37%とおよそ三分の二に減っている

 つまり、同じ量の金を使って元禄小判は慶長小判の1.5倍の通貨供給が可能ということだった

 言い換えれば慶長小判二枚で元禄小判が三枚作れる

 しかし、通貨の価値としては変わらず『一両』だった



 これこそ国家による合法的な『削り取り』であり、通貨発行主体である政府当局だからこそ可能な政策だった


 寛文~貞享期のデフレ不況は、発達する貨幣経済=国内総生産に対して通貨が不足することによって起きていたと推定される

 寛文以降は通貨の元となる各地の金銀山が枯渇していったからだ

 そして、計数貨幣はその刻印された額面が問題となるのであって、極論を言えば紙に額面を書いて政府保証印を押せばそれで充分に通貨として通用することを現代人ならば全員知っている


 ちょうど両替商や株仲間の手形、あるいは各藩における藩札と同じように…



 しかし、重秀の目的はあくまで幕府財政の改善であり、通貨発行益シニョリッジを目的とした財政政策だった

 その為、金銀の品位を落とすことで旧通貨との交換を企図した

 慶長小判二枚で元禄小判三枚が作れるなら、慶長小判二枚を回収すれば一両は幕府のとなる


 元禄八年の改鋳では金貨は1.5倍、銀貨は1.2倍の発行差分だったため銀よりも金の価値が下がる金貨インフレを起こした

 また、銀貨は秤量貨幣であり貿易貨幣でもあるので、単純に幕府の保証だけで通貨として通用させるには限界があった

 その為、金貨に対して銀貨が高騰するという事態を招き、一時金銀比価は金一両=銀四十八匁まで高騰する

 ちなみに幕府設定の公定金銀比価は金一両=銀六十匁である



 幕府はこの後市場相場を公定比価に合わせる為に度々金一両=銀六十匁を徹底するように触れを出している

 また、重秀はこの後の宝永年間に入っても銀貨を中心に改鋳を行っているが、これは将軍代替わりの費用を捻出するために改鋳差益の大きい銀を選んだ事と共に、銀貨の価値を下げることによって金銀比価を公定比価に近づけようという考えもあったように思う





 この改鋳が歴史的偉業と評価できる点は萩原重秀の名目通貨としての考え方ではなく、通貨価値の下落インフレーションという現象が需要と供給だけではなく政府の政策によっても起こり得ると資本家商人達に認識させたことにあると考える


 日本は長く中国から銅銭を輸入して通貨としていた

 そこに初めて国産の貨幣が登場したのが秀吉の『天正小判』だった

 しかし、天正小判は通貨というよりも配下の武将への褒美という側面が強く、市井の商取引に一般的に使われる物ではなかった


 統一政権による独自発行の通貨という意味では『慶長金銀』が日本史上初めてのものだ

 ということは、これまで貨幣の価値は変わらず『物の価値=物価』が上がることによって相対的に通貨としての価値が下がるという事はあっても、政策によって貨幣そのものの価値が下がるという事態を日本人は経験してこなかったことになる

 それが元禄期に入って初めて、『カネとは価値が下がる可能性があるもの』という認識が生まれた



 カネの価値が下がるならどうするか



 現在のカネをひたすら退蔵していても根本的に解決はしない

 次に使う時には価値が下がった状態で使わざるを得ないからだ

 

 ならば答えは、カネの価値が下がる前に次の再生産の為の投資を行うようになる

 つまり、新店舗を構える、新工場を建設する、人を雇う、安い時に材料を買いだめするなどの『より多くのカネを産むために積極的にカネを使う』という行動の方が合理的だという認識が生まれることになる



 投資した以上の利益を求めていくのは商人としての本能だろう

 そして、商人達はこの本能に従ってアダム・スミスの言う『見えざる手』に導かれるように効果的に投資行動を行った


 例えば、鴻池善右衛門は元禄の次の宝永二年(1705年)に河内の池沼の払い下げを受け、鴻池新田の開発に乗り出す

 それまでも新田開発を請け負う商家は居たが、開発が済むと売却して莫大な利を得るデベロッパーのような商法だった

 だが、この時の鴻池は開発後も長く土地を資産として保有し続けた


 農地を開発して小作農を入れれば、少なくとも政策的に強制的に価値を下げられるということはない

 そして、農地から上がる食糧増産はより多くの労働者の口を賄うことが出来、その労働者たちは別の商品の生産に従事することが出来る

 結果として国の富を増やすことに繋がる



 京・大坂では秤量貨幣の銀は両替商に預けるのが一般化していたこともこの傾向に拍車をかけた

 いわゆるタンス預金のような退蔵金貨と違い、預けている間に価値の下がった銀と交換されてしまえば強制的にカネが目減りさせられるからだ



 資本家の積極的な投資はそのカネを受け取った者の消費を促し、経済をより活性化させる

 ケインズの言う乗数効果というやつだが、これによって特に上方で消費が活発化したことが元禄バブルと呼ばれる空前の好景気をもたらした要因だろう


 単純に通貨量が増えただけでは経済は活性化しない

 そこに『投資』という行動が加わることで初めて経済活動はその規模を拡大する



 元々萩原重秀の改鋳は幕府財政再建のための財政政策だったが、この時から日本の政府は通貨の価値と供給量を調整して物価を安定させる『金融政策』という未知の領域に足を踏み入れることになった

 

 


 1695年(元禄8年) 秋  下総国香取郡佐原村




「兄上、伊丹の酒と菜種油が届きました」

「おう!店頭へ一樽づつ置いて残りは蔵に頼む。古着と畳表は蚊帳の隣にな」

 山形屋では商売のより一層の質の転換を図るべく、江戸日本橋店・松店に加えて下総国の佐原村に新規出店していた

 佐原店の経営を任されたのは先代利助の三男・甚七と四男・利左衛門で、現当主四代利助の弟達だった


 甚七は十九歳 利左衛門は十六歳と若い兄弟だった



「しかし、八幡町よりもさらに鄙びた所ですね。棒手振や売小屋などもなさそうで…」

「ははっ。遊ぶことばかり考えるなという兄上の計らいだろう

 お前は油断するとすぐに売小屋で買い食いしてしまうからな」


「…うまそうな匂いがするのが悪いのです。そこにきて腹が空くのがいけないのですよ」

「はっははははは。まあ、我らも山形屋の一員として、他家に笑われぬように始末を示さなければならんからな

 ここはその意味ではちょうど良い

 江戸と違ってまだまだ物も豊富に行き渡っているわけではないからな。商売のし甲斐があるというものだ」



 八幡町は京・大坂の商人達とも交流があり、さらに財に相応しい教養を身に付けようと京の師匠に学ぶものも多く、必然生活様式も京に倣うことが多くなっていた

 八幡町にも棒手振や屋台のような売小屋ができるようになり、年若い利左衛門などはついついうまそうな匂いに引き寄せられて若い腹を満たしてしまう


 また、西町界隈には酒と色の町ができ始め、大人たちも一杯ひっかけるということも普通に行われ、苦労を知らぬ若い世代には酒色に溺れて先祖代々の身代を持ち崩すような者も居た


 大身の商家の中にも歌や舞、蹴鞠などに興じる者も出てきており、邸内に蹴鞠場が作られて京の公家飛鳥井家から師匠を招いて蹴鞠を学び、ついには免許を受けるといったことまで行われていた



 利助はそういった環境を批判はしなかったが、自らはそれに興じる事はなく一意専心に商売に励んだ

 趣味と言えばカネのかからない囲碁や将棋をもっぱら好んだ




「それにしても、兄上…いえ、旦那様はことのほか庶民への商いに熱心ですね」

「それだけ危機感をお持ちなのだ。武家の中には支払いの滞る家も出ていると聞く。

 今庶民へ向けての商いに転換できなければ、武家と共に山形屋も沈むことになると危惧しておられるのさ」

「…責任重大ですね」



 元禄バブルと呼ばれる時代にあって、武士の日記にはその困窮の度合いが大きく描かれ始めている

 原因は物価の高騰にあった


 ある研究によればこの時代の名目物価上昇率はおおよそ年3%前後であり、バブルとは言えない単なる好景気と表現されている

 しかし、物価の上昇によって恩恵を得るのは商品を生産している職人や商人であり、賃金上昇の恩恵を得るのは小作農や都市労働者などの労働者階級だ


 そしてそれは、支配者階級である武士が経済発展から取り残されていくということを意味している

 武士にとって収入は米一本だが、この頃は米は物価の基準たりえず、あくまで諸色(諸物価)の一つに過ぎなくなっている



 陽明学者の熊沢蕃山は、その著書の中で『カネの代わりに米を通貨に使えばいいと思うよ』という独自の見解を著しているが、これを時代遅れのトンデモ論と笑う事は出来ない

 封建制度の根幹である『米』が資本主義経済の根幹である『カネ』に取って代わられ、その中にあって経済的な武士の復権を模索する中で辿り着いた考えなのだ

 

 しかし、その蕃山をしてさえ『でも、カネは無くならないだろうねぇ。だって便利だしね』という嘆きを含んだ結論に至っている事は江戸時代の社会の様子を伝えているように思う



 今後封建的な社会は駆逐され、貨幣経済=資本主義社会の中で商の占める比重はますます重くなるという予感は武士の中にもあったのだろう




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