第28話 越後屋の兄弟
1628年(寛永5年) 夏 摂津国東成郡大坂瓦町
「ようやく店を出すことが出来たか…」
西川利右衛門は地道な行商を続け、苦節十九年にしてようやく大坂の瓦町一丁目に出店を持つことを得た
八幡町には本店を既に出していたが、蚊帳仲間においてはまだ若輩者で、江戸でも先輩たちの後塵を拝することになるのはわかっていた
そこで、八幡町から大坂にいち早く出店し、他の蚊帳商人が売捌きを出しているだけなのに対し、大規模に大坂での『近江蚊帳』の商いを展開することを目論んでいた
西川利右衛門は屋号を『
営業を開始した利右衛門は、大坂の町々を変わらず馬の背に近江蚊帳を乗せて歩き回り、大店には各国へ売捌く卸売りができないかと商談を持ち掛けた
「ほう…近江蚊帳ですか。何やら江戸では大層人気だと聞いております」
「こちらの大坂ではまだ本格的に商っている商人は居りません。どうか西国各地へ売捌く荷に加えていただけませんか?」
利右衛門は酒造業で財を成した大坂商人・
鴻池新六は尼子家臣・山中鹿之介幸盛の長男で、後に両替商として大坂を代表する商人となる
「残念ながら手前共は三年前に大坂から江戸への廻船に手を付けたところでしてな、西国への商いは正直あまりやっておりません。」
利右衛門は落胆した
「ただ、西国からの廻船を行っている者達は居りますので、折に付け大文字屋さんを紹介しておきましょう」
ぱあっと利右衛門の顔が明るくなった
「ありがとうございます!どうかよろしくお願いします!」
大坂はまさに商人の町だった
西国からの米が全て大坂の米蔵に納められ、ここで銭に変えられる
必然、多くの商人が続々と商いを始めていた
そんな中にあって、利右衛門は誠実な人柄と正直な値付けで、大坂でも一目置かれる商人へと成長していく
しかし、利右衛門の目は江戸へも向いていた
(この大坂で西国の地盤を作り、先輩たちに負けない大店を江戸で開いてやろう)
この利右衛門の野望はその後実現し、大文字屋は後に八幡御三家と呼ばれた豪商の一角にまで成長することになる
八幡御三家は山形屋・扇屋・大文字屋の三家で、山形屋西川甚五郎家は八幡御三家の筆頭と目された
後に利右衛門家の分家・西川庄六家が大文字屋の代表になったり、扇屋伴伝兵衛の奉公人であった近江屋森五郎兵衛が別家となり、扇屋に代わって近江屋が御三家の一角に数えられるなど変遷するが、山形屋甚五郎家だけは江戸期を通じて不動の御三家筆頭だった
1630年(寛永7年) 春 武蔵国豊島郡江戸本町四丁目
三井春の長男・三郎左衛門俊次は、三年前の寛永四年・江戸本町四丁目に小間物屋を出していた
母からの資金援助も受けて、当時としても異例の若さである二十二歳で江戸での店持ち商人となった
五年前に上京してきた弟の六郎右衛門重俊は、長兄俊次が小間物屋を出すと同時にそれまでの奉公先を辞め、兄の手代として奉公をしていた
俊次の店は『釘抜紋』を使ったことから、伊勢の越後屋と区別して『釘抜越後屋』と屋号を定めた
「六郎右衛門。おれはこの釘抜越後屋で太物を扱うぞ。ゆくゆくは呉服を扱う店として育てていきたいと思っている」
「呉服ですか…太物なら伊勢からの仕入れがありますが、呉服は糸割符仲間からしか仕入れられませんよ」
重俊はため息を吐いた
兄自身の商才もあるとはいえ、実家からの援助があり、弟の目から見ても兄は十分に恵まれた商いをしているように見える
今はむやみに手を広げずに、小間物の商いの足場をしっかりと固める時期ではないのか
「それよ。できれば長崎まで買い付けに行きたいところだが、いかんせん長崎では生糸しか手に入らん。
反物に仕立て、友禅の染抜きのされた『呉服』を仕入れるには京に仕入れ店を設けるしかない」
重俊の内心をよそに、俊次は次々と商売のビジョンを語り出す
西川甚五郎と同じく、三井俊次は天性芸術家のように明確なビジョンを持つ創造力に長けていた
堅実…というよりも慎重派の重俊には、兄の語るビジョンはおよそ夢物語のように感じられた
「京ですか…京店は誰に任せられるおつもりですか?」
「京へは俺が行く。他人を信用しないわけではないが、やはり仕入れは俺自身の目で見なければならんからな」
「しかし、それではこの釘抜越後屋は―――」
「お前に任せたいと思っている」
「私に?…ですが、私はまだ十七歳です。さすがに一店の支配人というのは…」
「だから、早くお前に任せられるだけの器量を身に付けてもらいたいのだ。
なに、俺もこの店を出したのは二十二歳の時だ。お前が二十歳を超えれば江戸店を任せて俺は京店の出店にかかる。
そのつもりで修行してくれ」
重俊はため息しか出なかった
弟の心配をよそに、俊次は伊勢から紙や茶などの持ち下し荷に木綿の反物を加えるようになった
また、結局三年も待てなかった俊次は、十八歳の重俊に江戸店を押し付けると、自身は早々に京呉服を仕入れるために京店の開設に走った
重俊は釘抜越後屋を任されると、本格的に呉服商いを開始した
呉服商いと言っても、射和蔵でほんの二年丁稚奉公をしただけなので、イチから顧客を開拓するのと変わらなかった
「御免ください」
「はーい。どちら様でしょう?」
重俊は富裕商家や武家屋敷などを丹念に訪ね歩いた
「釘抜越後屋と申します。呉服の御用はございませんか?」
「呉服?うちは灰久さんを贔屓にしていますので…」
「では、茶や紙などはいかがです?ご用命いただければお持ちいたします」
「まあ、それなら試しの品を置いて行ってくださいな」
「ありがとうございます。また十日後に伺いますので、ご用命があればぜひお願いいたします」
当時の絹呉服は高級品であり、現代で例えると高級外車を買うような感覚だろうか
ローンなどはないので一括支払いが原則だ
もっとも、掛け売りなので年末の一回か、盆と暮の二回しか集金ができない
商人にとっても買う客にとっても、信用が第一だった
(灰久さんか…噂では大奥の春日局様や稲葉丹後守様を始め、多くの大名家から贔屓にされていると聞く…)
灰久とは近江八幡町の呉服商、灰屋中村久兵衛の略称だった
この当時茶屋や灰屋などの大店の呉服商が上客をがっちりと抑え、重俊は顧客の開拓に大変な苦労をした
庶民向けの木綿呉服を中心に商売を拡大していったが、京の俊次からは次々と絹呉服が送られてくる
近頃の京では最上地方の紅花を使った華やかな紅染めが流行の兆しを見せ始め、俊次からも華やかな紅染めの反物が多く送られていた
「御免ください」
「はーい。どちら様でしょう?」
「先日お伺いした釘抜越後屋でございます。紙や茶のご用命はありませんか?」
「ああ、少し使わせてもらいました。数を見て下さいな」
「ありがとうございます」
重俊は持った荷から紙を取り出そうとしたが、間違って見本に持って回っていた紅染め呉服が荷から零れ落ちた
「あら、素敵な反物ねえ。少し見せてもらえるかしら?」
「は、はい!どうぞ!」
「ん~~~もう少し別な色合いの物はありません?」
「もしよろしければ、明日色々と見本布を揃えて持って参ります」
「じゃあ、お願いします」
重俊は心の中で快哉を叫んだ
堅実派の重俊にとって、反物の染の良し悪しなど今一つピンと来ない
だが、俊次の選ぶ品は、客に見せさえすればそれなりに高評価を得られた
とはいえ、いくら捌いても次から次へと京から送り付けられるので、釘抜越後屋の蔵にはたちまち大量の反物が積み上がって行った
「これなどは近頃京で流行りの友禅の上物でございますよ」
「まぁ…」
大身旗本の奥方がうっとりした顔で友禅の反物を見つめる
ただの紅染めではなく、金襴の意匠の施された目にも鮮やかな反物だった
「これで仕立てて頂きたいのだけれど…お代はいかほど?」
「そちらの友禅染なら一着二十両(約200万円)になります」
「ちょっと夫と相談しますね。また明日来て下さる?」
「はい!明日もこの時間に伺います!」
京で流行りなどと自分でも良く言ったものだと思う
おそらく兄俊次が送って来たからには、京で流行っているのだろうと思っただけだった
「昨日の反物なんですけど、仕立てをお願いします」
「ありがとうございます!では、お仕立てに二十日ほど頂きますがよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
重俊は飛ぶように帰って早速仕立てに出した
値は二十両と言ったが、実際の京からの仕入れ値は八両ほどだった
重俊は年末に売り掛けた絹呉服の集金に回った
「御免ください」
「はーい。どちら様でしょう?」
集金に伺うと、武家の家臣が応対に出てきた
「越後屋。一つ相談なのだが、実は我が殿は先ごろ江戸城の西の丸普請の御用を仰せ付けられた
御公儀御用を務めるは名誉な事であるし、上様の御用をないがしろにするなどもっての外である
その方もそのような事態は望んでおるまい
ついては、奥方様の呉服の代金は十五両を支払うことで済まさぬか」
「そ、それは…困ります。それでは、今度は手前どもが仕入れ代金を払えなくなってしまいます。せめて十七両ほどなんとかなりませんか?」
「十七両か…では、十七両を支払金として用意する故、十日後にまた来られるがよかろう」
呉服の商いは信用第一でありながら、一面では丁々発止の騙し合いという側面もあった
客は支払いの段になると、あの手この手で値切る努力をする
売る側もそれは織り込み済みで、最初の『
その為、絹呉服の売値は客によって変動し、一定ではなかった
高級品のため、基本的に顧客の所へ出向いての訪問見本販売であったことも、掛値売に拍車をかけた
このような掛値売と訪問先の顧客の囲い込みのため、素人には売るのも買うのも非常に難しいのが絹呉服の特徴だった
1633年(寛永10年) 春 肥前国彼杵郡長崎奉行所
「――――
以上である!」
新任の長崎奉行・今村正長によって幕閣よりの下知状が読み上げられた
「失礼、お下知状を拝見してもよろしゅうございますか?」
「うむ。これへ」
長崎代官・二代目末次平蔵茂貞が下知状を押し戴いて内容を確認する
「お奉行様。これ以後はポルトガル・イスパニアの船は一切の入港を禁止するということですな?」
「それだけではない。奉書を持たぬ船は和船といえども入出港を禁ずる。
五年以上かの地にて暮らす者も入港を禁止する。
また、バテレンやキリシタン共は全員大村の牢に入れよとのお達しだ。
バテレンの密告を奨励せよとも書かれてある。
よくよく心得て職務を全うされるが良い」
「はは!」
寛永十年二月令と呼ばれる下知状だった
後年では第一次鎖国令の名で知られている
昨年の寛永九年に大御所秀忠が亡くなり、名実共に実権を握った三代将軍家光の徹底した禁教令だった
家康の交易朱印状を持って渡航した船が渡航先で朱印状を奪われるという被害が発生したため、朱印状は日本へ留め置き、変わって老中の発行する追認状を交易船へ備え付けた
その追認状を奉書と呼んだ
この後の寛永十二年(1635年)
日本人の海外渡航を一切禁止
中国・オランダなどの交易船の入港を長崎のみに限定
寛永十六年(1639年)
ポルトガル船の入港を禁止
それに先駆けて国交を断絶していたイスパニア船の渡航禁止と合わせて、中国・オランダに対し長崎の出島でのみ交易を許可する鎖国体制が完成した
ただし、後年貿易額が減少したのは別の事情による
この頃は取引相手が減ったことによる総貿易額の減少こそあったが、中国・オランダ単体で見れば、むしろ鎖国前よりも輸入額は増加傾向だった
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