第71話 日本国の産声
1837年(天保8年) 春 大坂 越後屋大坂本店
「ああ!帳簿が!」
「危ない!行くな!」
越後屋大坂両替本店の手代である祥介が火の付いた店舗へと近づくのを、大坂本店支配人の重蔵が押し止めていた。
うち続く天保の飢饉により、百姓は困窮を極めていた。
天保期には各地で新田開発を積極的に行い、米の取れ高を増やす努力をしていたが、急場の間に合うほど新田開発はすぐに成果を出せるものではない。
すでに爛熟期を迎えた貨幣経済は、相次ぐ改鋳によってインフレの傾向を強くしており、この頃には天明の大飢饉以上にまで米価は高騰していた。
天保八年二月十九日
大坂奉行所の元与力である大塩平八郎の激によって決起した一軍により、大坂は火の海になった。
『大塩平八郎の乱』と言われる大掛かりな武力闘争だった。
なおも帳簿を回収に行こうとする祥介を重蔵が羽交い絞めにして押し止める。
「支配人!このままでは越後屋の資産が…」
「あきらめろ!カネはまた稼げばよい!今は命を大事にせよ!」
大塩一統から受けた銃撃により、越後屋にも怪我人が出ていた。
越後屋だけではなく、鴻池屋などの豪商の蔵を襲い金と米を強奪する一団は、義挙として世間からおおよそ好意的に受け止められた。
しかし襲撃を受けた商人にとってはたまったものではなかった。
事件後、焼け落ちた店舗の跡地で空しく帳簿類を整理する祥介は、流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。
「泣くな、祥介。皆の命が残っただけ儲けものと思おう」
「しかし… 奴ら、貸金の帳簿を全て焼き払っていきました。我らだけでなく、鴻善さんや天五さんの帳簿も燃やして…
いくら借金が苦しいからといって、力づくで徳政を勝ち取るなどとは道理も何もあったものでは…」
「わかっている。だが、それでも命あっての物種だ」
祥介の肩に手を置き、煤けた顔で重蔵がニカッと笑う。
どんな困難も笑って吹き飛ばすような力強い笑顔だった。
大塩の乱では、大丸などは襲撃を免れている。
理由は『義商』だからということだった。
事実、大丸では
しかし、それは大丸に限らない。
今回襲撃を受けた鴻池でも五百石のお救い米を実施しているし、三井越後屋なども同様に貧民を救うための行動をとっている。
彼らと大丸の違いは、民衆にカネを貸しているか否かという事だった。
越後屋大坂本店は数名の重傷者を出したが、幸いにも死者は出ていなかった。
越後屋に限らず乱の規模に対して戦闘による死者はわずか十八名という少数で、怪我人は多数出たものの人的被害はその後の火事によってほとんどが発生している。
総勢三百人で大坂市中の五分の一を燃やした一大合戦にしては、ずいぶんと小規模な戦闘しかしていないと感じる。
彼らの目的は、むしろ火事にあったのではないか。
火事によって商人の帳簿を燃やし、力づくで借金を踏み倒す。
武士のように公権力によって踏み倒す術を持たぬ民衆が、借金から逃れる方法だったのではないだろうか。
1837年(天保8年) 冬 大坂 鴻池屋
鴻池善右衛門は、再建した真新しい店舗の中で店の番頭と共に真剣な顔で秤の動きを見守っていた。
皿の上にはこの十二月に通用開始となった『天保一分銀』が載せられていた。
「どうだ?」
「量目は二匁と三分(2.3匁)ですね。品位が文政一朱判と同じとしても銀量でおよそ五分(0.5匁)減った事になります。
まあ、品位は試しに鋳つぶしてみないと分かりませんが…」
「どんどん銀が少なくなるな… 丁銀は相変わらず鋳造が少なくなっておるのだろう?」
「ええ、今では丁銀を使う事も少なくなってしまいました」
田沼意次の五匁銀から始まる計数銀貨は、この天保一分銀によって完成を見る。
明和南鐐二朱判や文政南鐐二朱判、文政一朱判を経て、既に銀貨の流通シェアは計数銀貨が圧倒し、昔ながらの秤を使う取引はほとんど見られなくなっていた。
天保一分銀は量目2.3匁、品位98.9%で、高品位ではあるが小粒で、銀量が少なく済む。
そのため、幕府にとっても出目の確保できる金融政策だった。
大塩平八郎の乱を招いた天保の飢饉からの建て直しのため、幕府は大幅な財政出動の必要に迫られ、各商人から吸い上げたカネと共に改鋳による出目も得ようとしていた。
当初は撰銭によって計数銀貨を否定した大坂町人達も、取引が有利になるに従って計数銀貨を積極的に使い、逆に銀量の多い丁銀は退蔵するという
これにより丁銀はますます市場に流通しなくなり、世の中には銀貨と言えば天保一分銀だけが流通し始める。
安政元年の銀貨の総発行量146万貫に対して、丁銀の発行高は僅か15%に満たない。残りの85%以上は計数銀貨に占められていた。
混乱する世相の中で見過ごされがちだが、この事は『日本国』の歴史上画期的な事だった。
既に北海道にまで進出した日本は、未だ政治体制としては小規模国家群の連邦制である封建制を取っている。
しかし経済においては統一した『日本国』として両・分・朱という一つの通貨体系に統一が果たされた。
これを現代でも行っている地域がある。
欧州連合つまりEUだ。
元々EUは東西ドイツの統一に合わせて政治体制を統一ヨーロッパとして統合していこうという試みだ。
その中でまずは一つの経済圏として統合するために『ユーロ』という統一通貨が生まれた。
日本においては、徳川家康によって軍事的・政治的には一定の統一が果たされたが、経済においてはなお関東経済圏と上方経済圏に分かれていた。
日本人が二百年に渡る試行錯誤の末にたどり着いた真の国家統一の方法とは、通貨の統一という一見至極単純だが、それでいて深い経済・金融知識が無ければたどり着けない結論だった。
1839年(天保10年) 夏 近江国八幡町 山形屋
半期の決算帳簿を前にしながら、甚五郎は大番頭の中村甚兵衛と語り合っていた。
「我が山形屋の業績は順調だが、いよいよ競争も激しくなってきているな」
「ええ、近頃では越前や長浜からも蚊帳を江戸へ持ち下る商人が続出しています。商いが活発になる事は良い事ですが、我らもうかうかとはしておれません」
「うむ。ご公儀の弓御用を務める事で飛躍的に業績が伸びてもいる。今後も店員一同で気を引き締めていかねばな」
天保一分銀によって完成した経済圏の統一は、商人にとっても大きな転機をもたらした。
上方から関東へ荷を持ち下る事は、今までは『国外貿易』だったが、以後は『国内取引』へと変わる。
通貨の両替運用のノウハウのない新興商人達にとって、今まで八幡や日野の豪商達に半ば独占されていた江戸での商売を積極化するチャンスだった。
永く八幡町の蚊帳材料を供給してきた越前の綛問屋は越前国内での蚊帳の製造を開始し、また長浜でも移り住んだ職人たちが蚊帳の製造を開始し、八幡町の独占市場を食い荒らしに来ていた。
多難な時期にあって八幡町の豪商達も一軒また一軒と没落していき、一時十四軒もあった江戸に出店を持つ商家は、この頃には山形屋を含む五軒にまで減っていた。
このような時にあって山形屋では五代目が取り扱いを始めた弓がここにきて大を成し、より一層の業績拡大を可能にしていた。
度重なる改鋳によって
1842年(天保12年) 冬 江戸城本丸
江戸城の一室では老中水野忠邦が目付の
「来月からは矢部に変わり、その方が南町奉行となる。市中の取り締まりを強化せよ」
「治安と物価の引き下げですな」
「うむ。飢饉以後、職を失った者が市中にあふれ、治安は日増しに悪化しておる。まるで天明飢饉の再現だ。
賊を捕える事も大事だが、賊を生まぬようにすることも必要だ。
今は物の値が高値に過ぎる。これを何とかせねば生活に困窮した者達が犯罪に走ることにもなろう。
国内の治安を維持しなければならん」
この年の閏一月に大御所家斉が死去するや否や、水野忠邦は倹約令を発して緊縮財政を取り、他方農本主義によって農業生産を拡大する政策を取った。
いわゆる『天保の改革』の始まりだった。
「随分と焦っておられるようですが、それほどに急ぐ何かがあるので?」
「……ここだけの話ぞ。実は唐土では清国と英国が戦をしておる。かの大清国がまさかにと思うたが、英国の武力の前に為す術がない状態だと聞く」
「なんと… 真ですか?」
「うむ。英国は清国内にアヘンを持ち込んで人民を堕落させ、その機に乗じて戦を有利に進めておるとか。
仮に清が負けるようなことになれば、次は…」
忠邦は言葉を切って嘆息する。
イギリスの武力をアジア全域に轟かせた『阿片戦争』については、幕府は当初から長崎のオランダ商館を通じて詳細に情報を得ていた。
毎年提出される阿蘭陀風説書に加えて、特にアジア情勢についての『別段阿蘭陀風説書』の提出を求め、国際情勢を理解しようと努めていた。
幕府中枢部、特に水野忠邦は焦っていた。
清が負ければ、そしてその時日本の治安が回復していなければ、次はイギリスは日本にアヘンを持ち込むかもしれない。
そうなれば日本は植民地として占領される事になる。とても受け入れられる事ではなかった。
その為には、何よりも治安維持が必要不可欠だ。
天明の飢饉とそれに続く寛政の改革時には火付け盗賊改め方が設置され、犯罪者の取り締まりに当たった。
これは、裏を返せば『鬼平』こと長谷川平蔵が、
飢饉は一種の経済危機で、飢饉によって発生した流民は都市部に流入し、都市部の失業率を上昇させる。
失業率の上昇は治安の悪化を伴う事は周知の事実だ。
その為、飢饉の後には農本政策と財政出動が必要不可欠になる。
流民の腹を満たして大人しくさせ、金をばら撒いて生活を建て直させる。そして、経済状況が上向くに従って彼ら犯罪者予備軍は善良な納税者へと変わっていく。
江戸の三大改革が常に飢饉と共にあったのは、経済的に見ればある意味当然だった。
迫り来る海外の脅威に対して、天保の飢饉からの回復は急ぎ働きを余儀なくされたが、それらの財政出動を支えるのは常に商人達が死力を尽くして稼ぎ出したカネだった。
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