第70話 武士の二言
1827年(文政10年) 春 近江国甲賀郡 信楽代官所
文政八年に天領信楽代官所支配へと変更された八幡町では、実際の領地引き渡しが翌文政九年の二月に完了し、政事方や総年寄、町年寄などの自治行政機構はそのまま残された。
信楽代官所は八幡町に陣屋を置くことはせず、町政は全て既存の総年寄を中心とした自治組織に任せていた。
二年間は表面上は平穏に過ぎたが、この程信楽代官所から呼び出しを受け、政事方の扇屋伴伝兵衛は総年寄と共に信楽代官所を訪れていた。
近江国内では他にも知行替えがあり、今まで水口藩領だった日野町もこの時の知行替えで新たに強い柄き代官所支配へと変わった。
一座には共に信楽代官支配となった日野町の者達も一緒だった。
代官所内の一室で座して待っていると、信楽代官
多羅尾氏は戦国期に甲賀忍者として活躍したとされる多羅尾光俊の子孫で、江戸時代を通じて代々信楽代官を務めていた。
伝兵衛始め一座の者が揃って平伏すると、多羅尾氏純ゆったりとした足取りで上座に座り、ゆっくりと口を開いた。
「面をあげよ」
一座が上体を起こすと、氏純が一つ頷いて話を継いだ。
「今日呼んだのは他でもない。
その方ら八幡町と日野町では諸役免除を許されておると聞いているが間違いはないか?」
「いかにも、去る文政五年に江戸の道中奉行様より諸役免除を認めるとのお裁きを頂いております」
「当町でも、権現様の御世より変わらず諸役免除をお認め頂いております」
日野町側からも同じような回答が出される。
日野町では関ケ原合戦の際、徳川家康に鉄砲三百丁を献上し、引き換えに諸役免除を認められていた。
元禄の頃に幕府に製造を禁止されるまでは、日野町は刀剣と鉄砲の生産地でもあった。
「聞いていた通りだな。だが、その両町についていささか疑問がある」
「…疑問とはどのような?」
伝兵衛は答えながら嫌な予感しかしなかった。
「その方らの年貢の免率についてだ。まず、日野町については八幡町に比べて年貢の免率(税率)が低すぎる。八幡並に引き上げる事とする」
「なっ!…」
日野町の代表者が思わず抗議の声を上げかけるが、それには取り合わずに氏純が話を続ける。
「続いて八幡町だが、畑地と届けられておる土地にも家屋敷が建っている場所があろう。
屋敷地であるならば、屋敷地としての免率を設定することにする」
「…」
伝兵衛は瞑目した。ただの拒絶では退けられるのがオチだ。これは『商談』なのだ。
代官が納得するような『土産』がなければ商談はまとまらない。
しかし、日野の代表者はたまりかねてつい反論してしまった。
「我が日野町では諸役免除を認められております。これ以上の役負担の引き上げは…」
「それゆえ、免率だと申しておる。諸役ではなく本年貢である。
それならば文句はあるまい」
まともに言い返されて日野町側が黙り込んだ。
そうなのだ。免率の引き上げはあくまで『本年貢』の引き上げであり諸役ではない。
諸役免除特権など何の役にも立たない。
しかし、よく調べ上げてあると思った。ここまで調べつくしているのならば、どこの土地が免率の引き上げ対象になっているかも調べはついているのだろう。
伝兵衛は目を開くと、代官の目をまっすぐ見据えて話し出した。
「恐れながら、申し上げます。免率の引き上げについては何卒ご勘弁をお願いしとうございます。
今の土地に住む者に他意はござりませんが、さりとていきなり年貢が引き上げられれば困窮する町方が後を絶たぬ事になりまする」
「……ふむ。破産するまで追い込むなと申すか。しかし、ならばどうする?」
「それ故、町方相応の者(富裕層)が共同で引き上げた免率の五か年分を冥加金として上納いたしまする。
こういった形でご勘弁いただけませぬでしょうか」
そう言って平伏する。総年寄も慌ててそれに倣った。
「……よかろう。八幡町については冥加の上納にてさし許す」
「ありがとうございまする」
結局、日野町側も一時金を上納することで決着した。
翌年の文政十一年には再び八幡町が差村され、道中奉行支配の青木貢一が再び調べに当たる。
前回は『武佐宿の』助郷免除であり、今回は『八夫村(野洲郡)の』助郷役の調べという名目だった。
信楽代官所に免除を願い出た八幡町では、信楽代官所へ助郷代わりの上納金を納める事で願いを認められ、八夫村の差村はまたもやカネと引き換えに免除となった。
結局、諸役免除が認められても何一つ変わらず、幕府は何かにつけてカネを巻き上げようとしてくる。
武士に二言はないというが、カネの上ではこの頃の武士には二言しかなかった。
1833年(天保4年) 春 江戸城本丸
「面をあげよ」
西川甚五郎は江戸城に伺候し、老中松平乗寛に面談していた。
山形屋では弓の扱い高が順調に増え、さらに七代利助・八代利助が行った店員の意識改革が功を奏して江戸の日本橋・京橋両店の売り上げも堅調に推移している。
好機と捉えた甚五郎は、大番頭の中村甚兵衛の勧めもあって、弓の独占体制を確固たるものにするべく幕府御用を務めることを狙っていた。
「この度はご拝謁が叶いまして恐悦至極にございまする」
「うむ。苦しゅうない。ときに、山形屋では弓の御用を務めたいと願いが出ておるそうだな」
「はい。是非ともお上のお役に立ちたく思い、手前どもが扱う弓の御用を相勤めさせていただきたく思います」
この面談にこぎつけるまでにも相応のカネを使っていた。
今更認めぬと言われても退くつもりは一切なかった。
「その方らの店では弓をどれほど揃えておる?」
「常時の在庫であればおよそ一万張ほどかと…」
「ふむ。足らぬな。江戸だけで一万張、京にも一万張、合わせて常時二万張を備えるように手配りをせよ」
「では!」
「うむ。近頃は異国船が度々近海に来ておるし、軍備の増強は国家の一大事でもある。
鉄砲、大筒が中心とはなろうが、弓も忘れるわけにはいかぬのでな。
その方の願いを認め、苗字・帯刀をさし許す。ご公儀御用弓師として任じよう」
「はは!有難き幸せにございまする」
こうして三井に遅れる事百五十年にして、西川も幕府御用として政権との結びつきをより一層強めていく事になった。
初代仁右衛門がこだわり続けた八幡町を維持するため、今後は幕府の公権力を背景として活動していく事になる。
また、幕府御用は意外な成果ももたらした。
それまでは京からの弓は飛脚によって運ばれており、とかく延着の傾向があり、お客様である武士から文句を言われる事も一度や二度ではなかった。
それが、ご公儀御用の木札を差すことが可能になり、翌天保五年には東海道・中山道の優先運送特権を得る。
その事が、今後の山形屋にとって意外な転機を与える事になった。
1836年(天保7年) 夏 近江国甲賀郡信楽代官所
「こちらをお納めくだされ」
八幡町の政事方を務める扇屋伴伝兵衛は、三千両の冥加金を持参して信楽代官所を訪れていた。
信楽代官の多羅尾氏純は上機嫌で扇子を使っている。
一方の伝兵衛は多少やつれた顔をしていた。
天保四年に街道の修復費用として三千両の冥加金を要求され、それ以降毎年三千両を召し出されていた。
といっても、世は天保の大飢饉の最中にある。
果たして街道の修復だけに使われているのかは疑問だった。
―――せめて困窮する民の為に使われているのならばよいが…
「ふっふっふ。扇屋」
低い笑いを発しながら、多羅尾氏純が上機嫌で語り出す。
「(世の飢饉に知らぬ顔をして財を蓄え、諸役免除特権をカネで買おうというのだから)そちもワルよの」
伝兵衛がニコニコと笑いながら氏純の目を見つめる。
もちろん意味が解らなかったわけではない。むしろその真意を完全に理解していた。
そして当然、むかっ腹が立った。
―――どの口が言うのか
「いえいえ。(一度ならず約束を破り、素知らぬ顔で我らからカネを巻き上げる)お代官様ほどでは…」
「ふっふっふっふ」
「はぁーはっはっはっは」
こうなれば先に怒った方が負けとばかりに、ことさらに上機嫌なふりをして馬鹿笑いを続ける。
お互いに上機嫌を装いながら、目は決して笑ってはいない。
室内には火花が散りそうな程の緊迫した空気が満たされていた。
氏純が先に根負けし、笑いを収めると一つため息を吐いて続けた。
「ときに、大津代官所の件はいかが相成った」
「は、今のところ大津からは何も言って来てはおりませぬ」
「ふむ。うかうかするとまた大津代官所からやかましく言って来るかもしれん。町方にもくれぐれも用心しておけ」
「は…」
伝兵衛は平伏しつつ、肚の中では別の事を考えていた。
―――こうなれば、尾州様の御支配を願うしかないか
信楽代官の多羅尾氏は、甲賀の山奥にあって農業生産は決して豊かとはいえない。
その分、領内の商業都市からあれこれと上納金を取るために『永御料』、即ち永久に信楽代官支配にして欲しいという願い書を半ば強制的に出させていた。
永御料と引き換えに、伝馬諸役は永久に免除するという約束だった。
遡る事天保三年には八幡町の一部町人からは大津代官所への支配替えを望む声があり、一旦は沙汰止みになったが、町方にも大津代官所の支配を望む声があった。
また尾張藩領への編入を望む勢力もあり、信楽派・大津派・尾張派とで町は三分されていた。
伝兵衛は尾張派で、信楽代官支配のままでは枯れ果てるまでカネを吸い尽くされるという危機感を持っていた。
―――尾州様が決して良いとは思わぬ。だがここよりはまだ交渉の余地はあるだろう
大津代官にしろ、尾張藩にしろ、どのみちその狙いはカネに決まっている。
飢饉によって逼迫した財政はすでに幕府や諸藩を破産寸前まで追い込んでおり、越後屋や鴻池屋などの富裕商を抱え込んだ藩だけが財政の再建を果たしつつあった。
もっともその方法は一方的なもので、薩摩藩などは調所広郷が辣腕を振るい、五百万両の借金を無利息二百五十年払いへと強制的に変更した。
その上、砂糖の交易による収入は薩摩藩ではなく藩主島津斉興個人の収入とした。
要するに、薩摩藩を事実上破産させ、島津家という新たな法人を立ち上げる事で薩摩藩の財政を無理矢理健全化した。
まるで黒字事業だけを抜き出して赤字会社を清算し、借金を踏み倒すという、バブルの後始末のような真似をこの頃に行っていた。
尾張藩でも財政再建は急務であり、飢饉によってダメージを負った農村からこれ以上巻き上げる事が出来ないために、八幡町の領有を渇望していた。
江戸時代末期
既に徳川の治世は限界を迎えていた。
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