第40話 近江泥棒


 


 1675年(延宝3年) 秋  江戸日本橋一丁目 茶店(料亭)「梅屋」




 普段は弦歌さんざめく江戸日本橋の茶店『梅屋』の一室は、異様な緊張感に包まれていた

 この日は江州八幡町の蚊帳商家の江戸出店で作った同業者組合である『ゑびす講』の月一回の寄合の日だった


「お忙しい中皆さんには遠路江戸までお集まりいただき申し訳ない。今日はこの場を借りて皆さんと相談したいことが出来いたしました」


 山形屋本家三代目 西川利助が口火を切る

 場には八幡町に本店を置く扇屋・大文字屋・嶋屋などの本家・分家の各旦那衆と各店の江戸支配人が集まっていた



 かわいそうなのは江戸支配人達だった

 今回は重要案件のため各店の江戸支配人も同席させられていた

 例えるなら業界団体グループ各社の社長と元締め企業の会長がズラリと勢ぞろいした業界の会合に出席を強制されたような形だ


 普段は滅多に口にできないような酒と料理が供されているが、こんなにお偉方に勢ぞろいされてはうかうかと酔うこともできないし、普段なら舌鼓を打つ料理も何の味もしなかった



「山形屋さん。用件は文にて伺っております

 天井のない不良品を売りつけている不届き者が居るというのは真ですか?」


『扇屋』分家三代目 伴伝兵衛が気色ばんで利助に問いかける


「まだはっきりと確定したわけではありません。そういう噂を先日江戸で耳にしたという次第です

 なんでも江戸では『近江の泥棒商人』などと言われているとか」


「なんたること!真であれば我らが父祖より伝承してきた蚊帳商いを穢す行為でございます

 到底許せるものではありませんな!」


『大文字屋』本家三代目 西川利右衛門が憤る

 蚊帳商いが山形屋初代仁右衛門から興ってすでに百年

 伝統ある近江蚊帳は八幡商人の誇りとなっていた



「本家の主人より命を受けてこちらでも一通りの調べを致しました。江戸近郊を商圏とする手代たちにはそのようなことを行っている者はいないことは裏が取れております

 これは別の手代にもそれぞれ裏を取っておりますので間違いはないかと…


 あとは売捌きの行商人ですが、これについては裏を取ることはできませんでした

 本人への聞き取りのみですので、嘘を吐いていないという確証はありません


 しかし、今のところ噂話の域を出ておらず、実際に被害に遭ったというお客様のお話はついぞ聞けませんでした」



 別家したばかりの山形屋長兵衛が一座を見回しながら報告を上げる


 再び利助が口を開いた


「お聞きいただいた通り、今のところそれが真であるとの確証は得られておりません

 しかし、もし真であったならどうするか。それと今後の引き続きの江戸での調査を皆様方にはお願いしたい

 それが今日の場をお借りしてご相談したいことにございます」


「当然、調査には協力いたします。それともし真であったならば、手代であれば即刻解雇、行商であったならば仲間内で情報を共有して今後一切近江蚊帳は扱わせない

 そういう強い姿勢で臨む必要があると思いますが、いかがですかな?」


『大文字屋』分家初代 西川庄六が当然と言わんばかりに場を見回す

 周囲の者も異口同音に賛成した



「それでは今少し手緩くはございませんかな?」

 穏やかな口調で『嶋屋』二代目 西川弥兵衛が語り出す


「即刻解雇、以後出入り禁止であれば少なくとも最初に不良品を売るという可能性は残ります

 ここはこの仲間内で結束して、行商卸を廃止して手代売りと店先売り、それと信頼できる店への買継(卸売)だけに限定してはいかがでしょう?

 もちろん、行商のうち蚊帳の扱いが多く困窮する者は手代として雇用するなどの対応策をしなければなりませんが…」


 一座がざわつく


 ―――確かに、積極的にこちらから不良品を売らせぬようにする工夫はあった方がいいかもしれんな



「もちろんこれは、山形屋さんと扇屋さんに同意してもらわねば始まらんことではありますが…」

 弥兵衛の目線が利助に刺さる


「私に異存はありません」

「私もです。商いの品質を守らなければなりませんからな」

 利助と『扇屋』本家三代目の伴荘右衛門が頷く


 八幡商人の中でも蚊帳を生産から一貫して手掛けているのは『山形屋』と『扇屋』の二家のみだった




『近江泥棒に伊勢乞食』


 江戸期に広く流布された噂だった

 近江の商人はがめつく顧客を奪い取り、伊勢の商人はケチケチと徹底的に倹約する始末ぶりから出た言葉だという

 実際に天井のない蚊帳を売りつけられたという話もあるが、本当にあったという確証は得られなかった

 そんな事実はなかったという確証も得られなかったのではあるが…


 近江商人・伊勢商人・大坂商人は江戸期を代表する三大商人と言われるが、中でも近江商人と伊勢商人は江戸に出て成功を収める者が多かったことに対する江戸っ子のひがみだろうと思う



 経済を俯瞰して見る上で重要なことは、彼らが慶長期から江戸に進出し、二代・三代と代を重ねて累代資本を積み上げたという事実の方だろう

 宵越しの金は持たないという江戸っ子の『粋』は置いておくとして、商業においては特に顕著に貧富の格差が生まれ始めていたということだからだ


八幡大店はちまんおおだな』と呼ばれる大店舗を構える商人が多かったのが八幡商人の特徴だったが、彼らの累代の蓄積はすでに一つの業界を六角氏の保護といった政治権力の介入を必要とすることなく十分に統制できるだけの資本的なバックボーンを持つに至っていた




 1677年(延宝5年) 夏  江戸本町一丁目 越後屋




「何だ?この匂いは…」

『越後屋』江戸支配人次郎右衛門高富は、目覚めと共に臭って来た異様な臭いに台所に下りてきた

 鼻を突くような刺激臭の混じった臭い

 要するに、人の糞尿の臭いが漂って来ていた


「どうやらいつもの嫌がらせのようです」

 理右衛門が困った顔をして高富を見る



「この前は夜のうちに動物の死骸を店の前に置かれたな。

 今度は何だ?」


「隣の長屋の便所の肥溜めをこちらの台所に向けて作られたようです

 おそらく夜のうちに素早く普請を済ませたのでしょう。まったく気が付きませなんだ」

「なんとまあ… そこまでやる執念は立派だな…」

 高富は頭を掻きながら呆れた


「感心している場合ではありません。夏の事ゆえ匂いは店中に広まります

 ここは隣の長屋に願ってこちらの費用で作り直させてもらうようにしましょう」

「わかった。差配は理右衛門に任せる

 それと、長屋の衆には多少の心づけをしておいてくれ。そうすれば今後はこちらに協力してくれるようになるだろう」



 越後屋は出店当初より盛況な商いを続けていた

 そのうちに値の安さや明朗な会計システムが評判になり、武士の奥方の中にも足を運ぶ者が出始めていた

 折しも武士はカネに困る者も続出している

 買値が安くなれば助かるのは武士とても同じだった


 困ったのは武士を主要顧客にしていた既存の呉服商達だ

 彼らは折からのデフレ不況で商勢が弱まるのに加えて、顧客を越後屋に奪われるという憂き目に会っていた


 商人にとって顧客を奪われるのは武士が領地を奪われるのに等しい

 この頃になると古参の呉服商達は陰に陽に諸々の嫌がらせをして来るようになっていた



「ともかく、お客様にだけは迷惑を掛けぬようにしなければならんぞ」

「もちろんでございます」


 越後屋はとりあえず肥溜めに莚を掛けて匂いの処理を済ませた後、店を開けた




 1677年(延宝5年) 夏  江戸日本橋上槙町 灰屋




 八幡の呉服商『灰屋』二代目中村久兵衛は江戸本町の呉服仲間と客間で密談していた


「越後屋め。今頃匂いが店中に充満して辟易しておりましょう」

「良い気味です。強引な安売りに呉服の切り売りなどと掟破りも甚だしい」

 呉服商達がニヤニヤと今朝の首尾を話し合う


 越後屋は呉服の端切れを針仕事用に切り売りするということも行っていたが、これは呉服の商慣習の中では掟破りに当たった

 呉服はあくまで布売する時は一反単位で売るのが原則だった

 


 中村久兵衛は嗜めるように話した

「いくら今朝のような事を重ねようとも所詮は嫌がらせ。もっと越後屋の営業を揺るがす手を行わねばなりませんぞ」

「ほう… 灰久さんには何か良い知恵がありますかな?」


「呉服商は仕立てを行ってこその呉服商ですが、その仕立ては針子を使うのが習わしです

 越後屋も仕立ては針子に仕事を出しております


 例えば、我らからの針仕事が一切回らぬようになれば… 困る針子は多うございましょうなぁ」


「なるほど!さすがは灰久さんですな!」

「うむ!きゃつらの仕立てを狙い撃ちするのですな!」


 悪い顔をした面々は低い笑い声を漏らしながら満足気な笑みを浮かべていた

 どちらかと言えば彼らこそ桜吹雪の御奉行様に裁かれるべきな気がするが…












「父上、もうこのような事はお止めになってください」

 怪しげな仲間の会合が跳ねた後、二代目久兵衛の三男久四郎が父親と膝を突き合わせていた


「久四郎。お前は黙って見ておれ」

「しかし、越後屋の商いは人の道に外れた物では決してありませぬ。我ら古い呉服商こそ変わらねばならぬのではありませんか?」

「黙っておれ。越後屋めにわしの顧客も大分奪われた

 所詮貧乏侍などもとよりどうでも良いが、調子に乗った新参者には厳しく灸を据えてやらねばならんのだ」


「彼らを妬むよりも、彼らと共に呉服商いを再び盛り上げるべきではありませんか?」

「黙っておれと言っている!ここで退いてはそなたのお祖父様より引き継いだこの名門『灰屋』の沽券に関わるのだ!絶対に退くことはできん!」

「…」



 久四郎は父の前を下がると深いため息を吐いた


 ―――越後屋の商いは間違ってはいない

 伝統にあぐらをかくのではなく、彼らのように我らも努力して商いをしていくべきではないのか…

 父上は意固地になっておられる…



 暗澹たる気持ちで久四郎は店の帳場に戻った




 革新的な新商法で市場に参入する者は、古参の業者から迫害に近い嫌がらせを受けることがしばしばあった

 若い久四郎はそれに違和感を覚えていた


 仲間組織とは本来的には品質を守るための組合であった

 しかし、伝統を守るとは革新的な掟破りを許さないという一面も持っている

 そうなると結局は市場の支持を得る者が正しいという資本主義の原則が適用される



 つまり、勝った者が官軍なのだ


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