第56話 公儀権力
1753年(宝暦3年) 冬 江戸城本丸
江戸城の中奥(将軍執務室)に仕える御側御用取次の控室である雑事部屋で、大岡出雲守忠光と田沼主殿頭意次が気楽な調子で話し込んでいた
「今年も冷えてきたのう」
大岡忠光が火鉢の火で手をあぶりながら外を見るような目つきで障子を見やった
「また火事など起きねばよいですがね」
田沼意次が熱いお茶を一口すすりながら応じる
「お、主殿。旨そうだな」
「出雲守様の分もご用意しておりますよ」
「ははは。さすがだな」
すかさず田沼意次が忠光へ茶を差し出す
意次は宝暦元年に亡くなった大御所吉宗に取り立てられ、九代将軍家重とその子家治によって栄達の道を歩むが、元来誠実一筋で目立たぬようにと心がけた気配りの男だった
それがために将軍家重に重用され、将軍側近として重きを為した
「年が明ければ出雲守様は若年寄へのお取立てとなりますな」
やや寂しそうに意次が呟く
「何、若年寄へ取り立てられると言っても、変わらずに奥向きの御用も勤めるのだ
何くれと会う機会はあろう」
―――確かに、上様の御意を皆に伝えるには出雲守様が居なければ不可能だからな
上様が出雲守様を手放しはしないか
九代将軍家重は脳性麻痺による言語障害があったと推測され、彼の不明瞭な言葉を正確に聞き取れるのは幼い頃から側近として仕えた忠光だけであったという
障害があったとはいえ家重の頭脳は明晰であり、特に財政においては勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院のように幕府財政を監査させる制度を設けるなど、その治世には見るべきものが多い名君だった
後の田沼意次の優れた財政家としての一面は、家重の薫陶の賜物と言えるかもしれない
吉宗在位の終期頃から株仲間を積極的に認め、仲間商人に運上金や冥加金、御用金を申し付けるといった商業課税を積極化させていく
賄賂の如く受け止められる運上金だが、まだ『所得』という概念がない時代において商業利益を国家の富へと変換させる法人税のような役割を持つ制度だった
しかしながら、一部の商人に富を一旦集約させる制度は、持たざる者達からは不公平感を感じさせる原因となり、享保期の増税と相まって農民一揆を加速させていく要因ともなってくる
近代国家へと至る試行錯誤の道筋の途中にあって、資本主義社会における富の再分配という課題はようやく為政者たちの意識し始める所となった
萩原重秀の時代から約五十年
時代はようやく彼に追いつき始めていた
1755年(宝暦5年) 京 越後屋大元方会所
「近頃、江戸の尾張町で恵比須屋と亀屋が新装開店で大安売りを行っておるそうです
あおりを受けて駿河町の本店でも売上が落ちてきているとか」
「ほう。それは負けるわけにはいかんな」
三井八郎右衛門高弥は険しい顔で本店一巻の元締めである五郎八の言葉を聞いた
越後屋グループの中枢『大元方』の定例会議の場だった
当代八郎右衛門の
ちなみに五代目八郎右衛門は高美の子の高清が継承している
延宝年間に大元方を設置した越後屋では、それに先立つ元禄年間に各地の呉服店を『
各一巻からは元締めと呼ばれる最高経営幹部が大元方寄合に出席し、意思決定機関の一人として意見を出す
『人の三井』の名の通り、奉公人からの意見を最高意思決定機関においても重視していた
「両替店一巻の成績はどうかな?利兵衛」
「ご公儀御用銀の運用は上々でございます
また、家祖宗寿様(初代高利)以来の郷貸からの質流れや商人貸しからの町屋敷の質流れも多く、これらは別途運用を考えていかねばならぬかと…
いずれにせよ、両替店からの融通は可能であります」
察しのいい利兵衛ならではの回答だった
要するに金融事業から呉服事業へカネを回すことは充分可能だと言いたいのだ
越後屋は江戸の呉服仲間に加入していたが、当時の江戸では越後屋を始め岩城枡屋、布袋屋、白木屋、いとう松坂屋、大丸などが仲間内で鎬を削り、さらに恵比須屋と亀屋がこのほど新装開店を迎えるなど同業者組合でありながら熾烈な競争となっていた
しかし、越後屋は幕府御用を拝命して長く、金融部門も成長路線に乗っていることから他の呉服商とは資金力で圧倒的な差があった
「尾張町の向いの芝口に新店を設けよう。元方御納戸を拝命する越後屋としては負けるわけにはいかん」
「差し当たって、丹後・京・越後・上州それと武蔵からも値打ち物を江戸へ送る事と致します」
「うむ。総力で当たれ。ここで負けては越後屋の名折れだぞ」
金融部門の幕府御用は越後屋の政商としての地位を盤石なものにし、今や天下第一の豪商との呼び声も高かった
従来大坂御金蔵銀は仕入れ銀の決済に利用していたが、やがて公金の名目で越後屋の自己資金も併せて商人貸しに回していた
表向き公金としておけば、回収の時にご公儀御用金の取り立てとして公権力を行使できる
田沼時代を目前に控えた宝暦年間に越後屋の業績はピークを迎えていた
自治独立を目指す八幡商人『山形屋』と公権力を背景に勢力を伸ばす『越後屋』
仁右衛門と宗兵衛に別れた轍は、それぞれの道で異なる進化を遂げていた
1758年(宝暦8年) 秋 江戸城本丸
江戸城の評定所では老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄らと共に御用取次の田沼意次が臨時に評定に参加していた
「では、郡上藩主金森若狭守は改易。寺社奉行の本多長門守も連座にて改易
老中本多伯耆守は事態を知っていながら適切な処置を怠った。それ故、老中罷免の上逼塞処分とする」
堀田正亮が座を見渡しながら宣言する
その視線は本多長門守忠央と本多伯耆守正珍の吟味に当たった田沼意次に向かっていた
「騒動を起こした郡上の農民達はいかがなされますか」
「奴らは公儀を恐れぬと言い放ち、村預けの身でありながら脱走して一揆を主導した
また、駕籠訴の判決が出ぬうちに事実を曲げて箱訴(目安箱への訴え)を起こすなど、公儀への不敬は目に余る物がある
よって、一揆を主導した四名は打首獄門。同調して主導的な役割を担った者達も死罪とする」
宝暦四年から続く美濃郡上藩の農民一揆
いわゆる『郡上一揆』の判決を決める評定だった
農民一揆の判決によって大名はおろか幕府中枢部にまで処分が及んだ例は江戸期を通じても他にない
それほど特殊な事案だった
郡上一揆で特筆すべき点は、この騒動がそもそも年貢の増税に反対した一揆であり、現状維持を求めて戦った農民達は時に公権力をも恐れないと言い切った所にある
戦国の世が収まるに従って徳川家の公権力は国民を完全な支配下に置いてきた
しかし、この時になって国民たちは自らの財産を脅かす者には公然と戦う意思を持つに至る
それは、王の権威は神から与えられたものであり、王は生まれながらにして王なのだという『王権神授説』による権威を否定し、国民の生命・財産を守り、公益的な役割を果たすという契約の元に市民から公権力として認められるという『社会契約説』のような思想がすでに農民達にまで芽生えていた事を意味する
この判決で次代の権力者と目された本多忠央は失脚し、この騒動の吟味役に将軍家重から直々に指名された田沼意次は幕閣の中で重きを為していく
それは、未だ根強く残っていた年貢収入の増額による幕府財政再建を目指す一派を駆逐し、商業資本への課税によって財政再建を目指す一派が主導権を握る契機となった
賄賂と汚職がまかり通る汚れた治世と言われた時代
『田沼時代』の幕開けだった
1759年(宝暦9年) 夏 蝦夷国蝦夷地アッケシ(現厚岸町)
松前藩士湊覚之進はキイタッフとソウヤのアイヌが境界争いで死傷者が出ていると報告を受け、その取り鎮めと毛皮や鷹羽などの軽物の取り集めを兼ねてアッケシに寄港していた
五年前からクナシリやエトロフにも藩主松前資広の交易船を向かわせていたが、奥蝦夷のアイヌ諸族には未だ松前の威令に服さぬ者も多く、時に騒乱が起きる事もあった
「まあ、一杯やろう」
覚之進はエトロフのカツコロとクナシリのサヌシテカの両酋長を招き、酒でもてなして今後の友好を図ろうとしていた
酒で上機嫌になったカツコロとサヌシテカがクナシリ周辺に状況について饒舌に語り出した
「実は、一昨年にクルムセコタン(ウルップ島)へ行ってきたのですが、そこには『赤き衣類を着た唐人』が町を作っておりました
まるでマツマエのように番所も設け、かなりたくさんの家数がありました」
「ほう。赤き衣類ということは、カツコロのような猩々緋のような衣か?」
「左様。この衣もそのクルムセコタンの唐人からもらい受けたものです」
カムチャッカ半島をラッコを追って南下してきたロシア人の拠点だった
進出当初は少数での拠点だったようだが、次第に規模を拡大し、周辺のアイヌ諸族と交換による交易を行うようになってきていた
「その唐人はだいぶん前からクルムセコタンに出てきているのか?」
「ここ数年でよく見かけるようになった
我らと同じくラッコの毛皮を求めておるようで、食い物と交換してやった」
―――赤い唐人か… 先年まで来ていた牧田伴内の報告にはなかったが…
さては牧田め。面倒事を避けようと黙っておったな
覚之進は松前に戻ると上層部に報告したが、松前藩はその事実をなかった事とした
ロシアの接近よりも今はニシンを売る事の方が先決だった
住吉屋によって開発されたニシン産業は全国的な需要を生み、この頃松前に時ならぬ豊かさをもたらし、上も下も一緒になって漁場の開発に夢中になった
また、二年前まで東北地方は宝暦の飢饉によって餓死者が大勢出ており、松前に流入する飢民や旧来の領民の生活保護のためカネを稼いで米を買うことが目下の課題とされた
だが、風雲急を告げる奥蝦夷にあって、奥蝦夷アイヌとロシア人の接触は再び蝦夷に騒乱を巻き起こす
松前藩が見ないフリをしたところで、次に迫る事態からは逃れられない運命だった
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