第58話 銀貨の価値


 


 1771年(明和8年) 春  近江国八幡町 山形屋




「父上、お呼びでしょうか?」

 山形屋では六代理助が長男の吉太郎を呼び出していた


「おう、ここへ座れ」

「はい」

 理助の前に座ると吉太郎はまじまじと父を見た

 もう五十四歳になった理助は、頭にも白い物が目立ち始め、相応に老いていた


「吉太郎ももう二十五歳か」

「はい」

「早いものだ… 私が山形屋に養子に来たのもそなたと同じ年の頃だった

 私も年を取るわけだな」

「父上?」


 吉太郎は不思議だった

 いつもはこのような老人めいた話をする父ではないのだが…


「実はな、そなたにこの山形屋の家督を譲ろうと思っている」

「私にですか?私に務まりましょうか……」

「何、心配はいらぬ。私もそなたの祖父じじ様と同じように隠居として後見するからな」

「しかし、弟の乙次郎も優秀な男ですし、本当に私で良いのでしょうか?」

「もちろんだ。そなたこそは山形屋初代様の血を引く者だ

 器量も自分ではわかっておらぬようだが、申し分ないと思っている」


 吉太郎は本当にそうだろうかと自問自答した

 弟の乙次郎は優秀な男で、打てば響くような利発さがあった

 比べて自分はただ真面目一徹の面白みのない男ではないか…


「そのクソ真面目な所が良いのだ。商いは遊びではない。機転や才覚は当主を支える者にあれば良い

 当主に必要なのは、奉公人や店に関わる職人、お客様に対して誠実である事だ

 これが無ければいかに機智に富んでいようとも店を保つことは叶わぬ


 良いか、人に対して義を持って接すれば自ずと商いの道も開ける

 決して誰かの犠牲の上に成り立つ商いを行ってはならんぞ」


 ―――父上は野田屋長兵衛殿の事を悔いておられるのか

 彼に腹切らせるほど思いつめさせた我が身の不明を恥じておられるのだ



 吉太郎は父理助の心の傷を垣間見るような気がした

 この前年の明和七年に八幡町で野田膏薬を商う野田屋長兵衛が京都奉行に高札の返還を求めて訴え出た

 宝暦元年に京都奉行によって没収された諸役免除特権を記した高札だ


 高札没収事件以後、公儀役人からはやれ瀬田川橋の架け替えや、野洲川の治水工事だと何かにつけ御用金を召し出されていた

 八幡領主朽木主膳家も後難を恐れて京都奉行への訴えには消極的だった


 このままでは八幡町は骨の髄まで吸い尽くされてしまうと憂慮した野田屋長兵衛は、単身で京へ赴いて京都奉行へ高札の返還を嘆願する

 それが聞き届けられないと知るや、京都奉行所の玄関前で町人ながらに切腹にて哀訴するという手段に出た


 京都奉行所では相当に慌てたらしく、急病死であると取り繕って遺族に遺体の引取りを求めたが、遺体を検めた長男の増右衛門からは明らかに切腹の跡があったと知らされた



 長兵衛の切腹によって京都奉行からの御用金の負担は沙汰止みとなった

 町方では野田屋さんが命懸けで八幡町を守ったと英雄の如く扱ったが、理助は長兵衛を死なせる前に何かできる事があったのではないかと今も内心忸怩たる思いを抱えていた



「そなたは山形屋を継ぎ、七代目として江戸で才覚を振るえ

 私は隠居として八幡町の運営に携わっていく」

「わかりました。父上のご期待に添えるよう全力を尽くします」



 こうして、吉太郎は家督を継いで山形屋七代目利助を名乗った

 六代理助は隠居して甚五郎を名乗り、町役人として町政に携わっていく事になる




 1772年(明和9年) 春  江戸日本橋 山形屋日本橋店




 七代西川利助は江戸の日本橋店の復旧の指揮を取っていた

 この二月に江戸で火事があり、日本橋店・京橋店共に焼けてしまった


「火事と喧嘩は江戸の華とは言え、こうも度々火事に見舞われてはたまらんな」

「しかし、店員一同なんとか命は拾うことが出来ました。それだけが救いですな」

「まあ、確かにな…」


 江戸では五年前の明和四年にも火事があり、日本橋店・京橋店共に火事からの復旧を成したところだった

 わずか五年で再び焼けたのだから利助の嘆きも無理はなかった


「弓の在庫もまた買い付けて来なければならん。店の再建が落ち着いたら一度京へ行くとするか」

「何はともあれ、まずは店の再建ですな。除け銀から建設費用を出させて頂きとうございますが、よろしゅうございますか?」

「ああ。その為の除け銀だからな。八幡の父上に為替を出してもらうことにしよう」


 山形屋では商売の利益から『除け銀よけぎん』として別途積立ていた

 頻発する江戸の火事に対して、店が焼けた時の再建資金として商売とは別に運用する

 現金の他、土地や長屋、耕作地などの資産に変えてそれを運用し、火事などの不意の出費に備えていた


火災保険などない時代、火事は深刻な経営リスクとして顕在化していた

 



 1772年(明和9年) 夏  江戸老中評定の間




 評定の間では並み居る老中・若年寄を前に昨年勘定奉行に昇進した川井久敬が吟味を受けていた


「この度その方から建議のあった南鐐二朱判の鋳造についてであるが、先年に通用を中止した五匁銀とどのように変えるのか改めてその方の考えを聞きたい」


 老中首座の松平武元が川井の言上した建議書を前に真剣な顔で下問する


「五匁銀の失敗の原因を鑑みるに、単位を銀貨幣の『匁』とした為に丁銀と同じように重量にてその価値を計るという考え方が諸人の頭から消すことができませなんだ

 此度は単位を『朱』に合わせることで、その極印を金一両に従属するものとして発行いたしたく思います」


 金貨の単位は両・分・朱であり

 金一両=四分=十六朱という四進法の単位制を採用していた

 それに対して銀貨は貫・匁・分であり

 銀一貫=一千匁=一万分という十進法の単位制だった


 ちなみに一両小判や丁銀が庶民の日常取引に使われる事はまず無く、庶民の使う通貨は主に『寛永通宝』と呼ばれる銅貨で、単位を『文』とする計数貨幣として扱われた

 寛永通宝にも一文銭と四文銭があり、それは四進法の金貨と十進法の銀貨が併存するために鋳造されたものだった


 銅は一貫文=一千文であるが、この貫は銀貨の貫とは違うという煩雑さを持つ

 金・銀・銅はそれぞれ別の通貨体系であり、それぞれに為替相場が存在した



「此度の南鐐二朱判の発行によって通貨はお上の認めた『金一両』を基準とすることとなります

 言い換えれば、今までお上の権威が通用しなかった上方銀についても、今後はお上の権威こそが通貨の価値を決める事になりまする

 そのため、今後は銀貨についても改鋳出目を得る事が容易になるかと」

「なるほどの。お上の権威によって通貨の価値が決まるのならば、銀についてもお上が通用を保証すればよいというわけだ」

「左様にございます」


「ふむ。各々いかがかな?」

「よろしいでしょうか」

 この年の正月に側用人から老中へ昇格した田沼意次が声を上げた


「勘定奉行殿の建議は時宜を得たものであると思料いたします

 今まで綱吉公や吉宗公の御世に改鋳を行った折り、銀貨については品位を落とす事でしか出目を得る事はできませなんだ。それは銀がその重量を持って値が付いていたがため、銀の品位を落とす事でしか天下のカネの量を増やせなかったが故のことでございまする。

 お上の保証する価値がカネの価値を決めるならば、銀の品位を落とさずに量目を減らすことで同じ価値のカネを発行できましょう

 結果として、ご公儀の財政再建の一助と出来るかと」


 周囲を見回すと他の老中・若年寄達も口々に賛成した

 意次はあえて久敬から視線を逸らす

 二人で事前に打ち合わせておいた通りの流れだった




 銀貨は家康の天下統一以降も変わらず秤量貨幣であり続けた

 それは、徳川幕府の権威によってはその価値を計らず、あくまで生まれたままの銀塊としてその重量が通貨の価値になっていたと言える

 それが、この『南鐐二朱判』の登場で銀貨についても徳川幕府の権威によってその価値を計るという制度に変える目論見だった


 言い換えれば、幕府の権威が通用しなかった上方経済界においても、幕府の権威に服させる事を目的としていた




 1774年(安永3年) 夏  大坂町奉行所




 鴻池善右衛門は大坂町奉行の室賀正之に呼び出されていた


「老中様から南鐐二朱判を取り扱えと触れが回ってきておる。その方も読むがいい」

 善右衛門は奉書を押し戴くように受け取ると、内容を確認した


「……為替等金と同様に差し支えなく取り組み、滞らずに通用致すべし。ですか」

「左様、ご公儀からは何としても南鐐二朱判を通用させよとこちらにも矢の催促をしてきておる。江戸の問屋からはその方ら大坂商人への支払銀として使っているとの言質もとられているらしい

 実際の所、どうなのだ?」

 室賀は長く大坂町奉行を務め、大坂商人たちの立場もある程度理解はしていた


「江戸からの支払では確かにこちらへ流れて来ており申す。されど、あの目方ではちと…」

「ふむ。量目が足りぬか…」

「長い間の習慣でございましたからな。いきなり極印を持って通用させよというのもいささか強引に過ぎるかと」


 室賀はため息を吐いた

 善右衛門の言う事もわかるが、だからといって江戸の意向を無視することも出来ない

 考えてみれば室賀も可哀想な立場だった


 当時の丁銀の銀品位は45.1%で、公定比価即ち金一両=銀60匁の比率に引き直せば、金一両当たりの銀の重量は27匁だ

 それに対し、南鐐二朱判は品位こそ97.8%の高品位だったが、二朱判そのものの重量が2.7匁だった為、金一両当たりの銀の重量は21.1匁となる

 その差おおよそ6匁。ということは、秤量としては今までより一割の損となる


 実際にはそう単純な物ではないが、少なくとも銀は量目を持って価値を計るという常識の中では、銀量が少なくなる取引は成立しづらい

 まして、当時の市場相場は金一両=銀68匁であり、ますます二朱判にとっては不利だった

 その為、京・大坂では両替商達の頑強な抵抗に遭い、ほぼ流通しなかった



「しかし、江戸表の意向を無視もできん。何か良い知恵はないか?」

「しからば、明白に二朱判を扱う事の利を頂ければ皆も乗り気になるかと」

「扱う事の利、とな?」

「左様。この際、南鐐二朱判を扱う事に増歩を出していただければと。

 例えば、金百両に対して二朱判二十五両分ほども増歩があれば、両替仲間の皆も取り扱う事に充分な利があり申す

 商人を思い通りに動かしたければ、明確な利を頂戴するのが早いかと存ずる」

「確かに、それが道理ではある。か……」



 幕府は明和九年の二朱判発行以後、あの手この手で市場の懐柔に務める

 上記の計算に明らかなように、二朱判を主に流通させた方が少ない銀量で多くの通貨を発行できるからだ

 つまり、丁銀を鋳つぶして二朱判を発行すれば、より多くの出目を得る事が出来る

 その為、これ以後南鐐二朱判を流通させようという幕府の試みは、ある種涙ぐましいまでの努力だった


 まず、大坂の両替商や大商人達に無利子で二朱判を貸し付けた

 次に、年貢の銀納を行う場合は二朱判によるものとし、庶民にも二朱判を必要とさせた

 極め付きが『売上四分、買上八分』という交換割合で、両替商から二朱判を買う場合には買い手に一両分につき四分の銀を多く受け取らせ、逆に二朱判を両替商に売る場合には一両分につき八分を多く支払わせる事とした

 このため、庶民も両替商も共に二朱判を保有しておく方が得だと認識させることを目指した

 持っていればカネを使う際にも二朱判を使うだろう、という考えだった


 幕府の努力の甲斐もあり、二朱判は徐々に上方においても流通をし始める事となる


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