第77話 下田協約


 


 1854年(嘉永七年) 五月十七日 下田了仙寺




「それでは、今後の薪水・食料・石炭の供与についてその対価たるアメリカ・ドルの両替相場について提案いたしたい」

 日米和親条約の締結から二か月後、下田に停泊したペリー艦隊は了仙寺において追加交渉を行っていた。

 日本側の代表は変わらず林大学頭だったが、通貨の両替、つまり為替については下田奉行支配組頭の黒川嘉兵衛が主に交渉に当たった。


「先だって横浜で物資の『返礼』として受け取った貴国のドル銀貨を当方で鑑定した結果、日本の天保一分銀とアメリカの一ドルがほぼ同じ価値であると判明した。

 ついては、今後の給与品の返礼としての為替相場は一ドル銀貨と一分銀を等価にて交換する事と致したい」


 オランダ語を介しての通訳に不便を覚えながらも、おおよその内容を聞き取ったウイリアム・スペイデンは怪訝な顔をした。

 スペイデンはペリー艦隊の主計官を務めており、船の物資購入などを行う為に中国など各国の為替相場に詳しかった。



 幕府が受け取った洋銀を鋳つぶして鑑定したところ

 重量=7.12匁

 品位=86.5%

 純銀量=6.16匁

 という結果を得た。


 当時日本にはまだ秤量貨幣の丁銀は存在し、銀地金との双替相場も存在した。

 双替相場とは銀塊としての純銀と通貨としての銀貨の交換相場の事で、当時の相場は二十六双つまり

 銀塊10匁=通用銀(丁銀)26匁だった。


 黒川は受け取ったアメリカドルを銀塊としての銀として評価した為、

 アメリカドル1ドルは6.16匁の純銀=通用銀16匁という結論に至った。

 そして、天保一分銀は幕府公定の銀目は15匁だったので、


 アメリカドル1枚=純銀6.16匁=通用銀16匁≒通用銀15匁=天保一分銀1枚


 となる。


 やや複雑な計算だが、日本の政府たる幕府としては至極もっともな話であった。

 例えアメリカでは通貨と認められていようとも日本では通貨として認められないのは当然で、通貨でなければ銀貨は銀地金として評価するのは当然だった。

 銀地金は丁銀という秤量貨幣で両替し、銀地金に『信用』によって地金以上の価値を持たせる事で初めて計数貨幣としての天保一分銀になるのが日本のルールだ。


 しかし、この理屈はスペイデンには理解できなかった。

 アメリカドルを銀地金として評価するというのは分かる。アメリカが逆の立場なら自分もそうしただろう。

 しかし、受け取ったアメリカドルを鋳つぶして天保一分銀に鋳造するのならば


 アメリカドル一枚=純銀量6.16匁≒6.81匁=天保一分銀3枚


 となるべきではないか。



 ちなみに天保一分銀は重量2.3匁の品位が98.86%なので、一枚当たりの銀量が2.27匁となった。三枚ならば6.81匁だ。

 単純に重量だけで考えれば、スペイデンの話は理解できる。そこに信用という概念を理解していないという考察を加えれば…


 この問題の根本原因は、アメリカ側が秤量貨幣から計数貨幣への移行という金本位制へと至る通貨の統一過程を知らなかった事にある。


 日本は萩原重秀以来百年以上の長い時間をかけてようやくに通貨の統一を果たしたが、ヨーロッパでその過程を知るのはイギリスだけだ。

 フランスやオランダなども基本的にはイギリスに引っ張られる形で金本位制に移行している。

 つまり、金銀複本位制から金本位制へと移行する手続きを知っているのはイギリスだけだった。


 アメリカは元来貨幣制度も含めてイギリスから経済制度の多くを移植した。

 必然的に銀貨は当初から計数貨幣であり、銀地金を一旦秤量貨幣である通用銀(丁銀)にて評価するという日本側の態度を不誠実なペテンと受け取った。



「それでは、日本はアメリカドル一枚で一分銀を三枚作れることになる。不公平ではないか」

 スペイデンの言葉に黒川がこれも通訳越しで反論する。


「ですので、日本では銀山から掘り出した銀は10匁当たり通用銀26匁で買い取る事になっています。貴国の銀は細工を施された銀貨ではありますが、我が国においては銀山から掘り出した銀と変わりません。

 それ故、評価をしていくと一分銀一枚と同じとなるわけです」


「という事は、日本は銀を三分の一の値で買い取る事になる。我らは三倍の値段を出させられる事になるではないか」

「貴国ではどうかは知りませんが、我が国ではご公儀の極印(=信用)を持ってその価値を決めまする。銀量が少なくなってもお上が一分と言えば一分なのです」


 通訳越しでお互いに噛み合わぬ不毛な議論にスペイデンがとうとう根を上げた。

「わかった。ではそれでいい」


 不快感は残ったものの、スペイデンは一旦承知した。

 今回の条約はあくまで和親条約であり、通商条約ではない。という理屈で無理矢理納得した。

 ペリーからも苦心の末に結んだ条約が土壇場でひっくり返らないようにという配慮がなされた。


 金銀貨による物品購入の規定を定めた日米和親条約の第七条の条文がそれを後押しした。


 日本側の条約文は

『尤日本政府の規定に相従可申』=もって日本政府の規定に従う事

 となっていた。だが、英文では

『但し、日本政府がこの目的のために定める規定に従う事』

 という意味の条約文となっていた。


 アメリカ側はこの仮にという言葉を『今は用意していないが、将来に完全な取り決めを行う用意がある』と解釈した。

 全ては条約正文の不在。並びに英語と日本語を直接に訳せる通訳が居なかった事による誤解だった。



 ペリーが帰国した後、日本との交渉記録をまとめたヒルドレスは、その著書の中でこの銀貨の交換問題をネタに日本を『真っ当な取引も知らない野蛮な未開発国だ』と散々にこき下ろした。


 しかし、後にこの問題に向き合うもう一方の当事者であるイギリス駐日公使のオールコックは、その手記の中でこう述べた。


『ヒルドレス氏の交渉録の中で日本人の無知と横紙破りを責める言葉がふんだんに使われているのは、まったく当を得たものであるとは私は考えない。

 事実と両方の陳述を注意深く観察してみると、この問題に通じている人が当然に得る結論は、日本人の議論の方が勝っており、今後ヨーロッパとの関係において彼らにとって極めて重要な問題をかなり正確に理解しているという事であろう』


 高度な金融理論と貨幣論を有するイギリスの公使だからこそ、『国家の信用』という価値を貨幣に付与することによってはじめて貨幣は『通貨』になるということを理解できたのだろう。

 逆に言えば、日本は当時のアメリカ程度の金融知識で理解できるような単純な貨幣経済では無く、紛れもなく世界最先端の金融国家だったと言える。



 四年後の安政三年にこの問題を解決するべく日本へやって来たのは、初代アメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリスだった。




 1856年(安政三年) 九月九日  下田玉泉寺




「まず、こちらの主張を改めて申し述べる。アメリカのドル銀貨1枚は、銀の重量では貴国の一分銀3枚とほぼ同じだ。つまり、アメリカドルを鋳つぶして一分銀を鋳造すれば1ドルで一分銀が3枚作れることになる。

 であるならば、ドルと一分銀の両替は1ドル=3分が対等な取引となるだろう」


 駐日アメリカ公使のタウンゼント・ハリスの言葉に、井上清直は困惑した。

 井上は下田奉行を務め、開国した日本で外国公使の対応を務める、いわば幕府の外交官を務めていた。


「それは先年にペリー殿にもお伝えしたように、日本では銀貨はまず丁銀によって双替する決まりとなっている。そして、1ドルは双替相場に照らせば16匁であり、そして一分銀は丁銀15匁にて引き換えておる。

 故に、1ドル=1分という両替相場になるのです」

「そこが分からない。そもそも日本の丁銀は混ぜ物が多く、ドルと同列に語る事は出来ないはずだ。

 ドル銀貨は山から掘り出した純銀とは同列には比較できないのだから、比較するならば通貨同士で行うのが筋だろう」


 ハリスは当然と言わんばかりの論調だったが、丁銀もれっきとした日本の通貨であるという事は分からずに、あるいは分からない振りをして強弁した。


 通貨は通貨同士で評価するのが当然というならば、ドルの重量を丁銀の重量で評価するという事は至極当然の成り行きだろう。

 日本において重量で評価する銀貨と言えば秤量貨幣の丁銀なのだ。


 しかし、応接に当たった井上清直、岡田忠養、岩瀬忠振の三名は、このハリスの弁をアメリカが武力を持って威圧して来ていると受け取った。


「ですから、一分銀はご公儀が一分という極印を打ち、一分と認める事によって初めて一分になるのです。

 山から掘り出した純銀はそれそのものが一分の価値を持つわけではありません」

「それならば、ドルを鋳つぶして得た銀に一分の極印を打てば良いだろう。あなた方の言う事はペテンだ」


 ―――結局、武力を持って日本の富を奪うということか…


 井上は手で顔を覆った。目の前のヒゲ面のアメリカ人の強欲さに日本は道を誤ったと後悔した。



 多くの新書や論評で井上ら三名の不勉強と対応のまずさをあげつらうが、これは少し可哀想な気がする。

 ハリスが計数貨幣には『信用』という価値が加えられているという理論を分かっていないのは、後世の目だから理解できる事だ。


 例えば、現代で五歳児が一万円札を指して『これはなんで一万円なの?』と聞いてきたとして、それを一体どれだけの大人が納得できるように説明できるだろうか。


 一万円札それそのものは『芸術品レベルの細工が施されたただの紙切れ』に過ぎない。

 その紙切れに、国家が国債と引き換える事で『一万円分の信用価値』を持たせた時に初めて、通貨としての『一万円』になる。

 言い換えれば、国家が付与する信用こそが通貨の本質そのものだから、上記の質問の正確な答えは『日本政府が一万円分の信用価値を認めたから一万円なのだ』という答えになる。


 井上たちもまさにその通りの回答を出した。

『幕府が一分の極印を打つから一分なのだ』と。


 しかし、そもそも通貨の信用価値というものを無意識的に処理している人間にとってはその理屈が理解できない。

 ハリスの言い分は、現代の日本人からすれば『一万円札は一万円札だろう。紙とインクで刷ればいいのだから、同じ重さの白紙の紙と交換するのが筋だ』と言われたに等しい。

 いわば一万円札と同じ重さの新聞紙を交換しろと迫られたようなものだ。


 そしてこのヒゲ面の五歳児は、艦隊に命じていつでも江戸を砲撃できるのだと駄々をこねる恐ろしい五歳児だ。

 スーパーのレジ前で泣き叫ぶ程度の駄々では済まない。癇癪を起こせば江戸市民の血が流れる。



 結局、ハリスの強弁と黒船の威圧によって幕府は下田協約と呼ばれる追加条約を結ぶ。

 この内容はハリスの弁がそのまま通り、同種同量の原則が謳われた。

 即ち、ドル金貨は同じ重さの金小判と、ドル銀貨は同じ重さの一分銀と交換される事になった。

 ただしその後の粘りの交渉で、交換に際しては6%の改鋳費を差し引く事となった。


 幕府は当初25%を要求したが、ハリスの押したりすかしたりの虚々実々の交渉術によって最終的に6%で決着した。

 幕府としてはせめて改鋳費で出目を稼いで金の流出を防ごうという狙いがあったのだろう。



 この取り決めは後の『日米修好通商条約』にも引き継がれ、さらには最恵国待遇の論理によってイギリス・フランス・オランダ・ロシアの四カ国とも同様の条約を結ぶ事となった。


 かくして『幕末の金流出問題』がその姿をはっきりと表すことになる。

 日本の富を収奪し、ついには討幕運動の引き金となり、明治政府が苦心惨憺の末に改正を果たした不平等条約は、言葉の壁による誤解とアメリカの貨幣経済の未発達によって結ばれた物だった。




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