十二章 にえの儀式 4

 *


 追われる者と、追いつめる者。


 蘭と男のあいだに言葉は、ひとこともない。ただ、ハアハアと息づかいの音だけが、おたがいに激しい。


 蘭は両手を岩壁につっぱり、どうにか男の手をのがれようとする。男は蘭の足をひっぱり、外へひきずりだそうとする。


 男の体勢は、決して力をだすのに適してない。ふだんなら、蘭の力で、かるく、ふりきることができた。

 だが、今の蘭は、まともな状態じゃない。丸一日、ろくに食わず、薄いかゆは、もうとっくに消化してしまっていた。空腹で力が出ない。


 せめて、スタンガンがあれば——

 そう思い、ポケットをさぐった。もちろん、とりあげられてしまっていた。スタンガンもナイフも持っていない。


 両手を岩から離した瞬間に、ズルっと体がさがった。岩壁がナナメだから、足をひっぱられると、傾斜にそって、ズルズルすべりおちてしまう。たて穴の底にしりもちをつく形で、くずれおちる。


 そのまま、ひっぱりだされたら、おしまいだ。よこ穴のふちに片足をかけ、蘭は抵抗した。


 しばらく、そこで攻防が続いた。

 蘭の足がつっかえ棒がわりになって、なかなか、そこから進まない。


 蘭にとっては力をこめやすい姿勢だ。このまま、ここで、ねばっていれば、もしかしたら、海歌が助けをつれてくるかもしれない。


 そんな希望が、一瞬で消えた。

 ふいに電撃がおそった。

 つかまれた足にとびあがるような痛みが走る。


 スタンガンか——


 とりあげられた武器を逆に使われてしまったんだろう。


 数瞬、蘭の意識は遠くなった。

 全身から力がぬける。

 つっかえ棒になっていた足が、ガクンとくずれ、いっきに、ひざまで、よこ穴に入りこんだ。


 そこからは、あっというまだ。

 みるみる、胸までひっぱられる。

 そこで、やっと力が出せるようになった。両手で、よこ穴のふちをつかむ。だが、もう遅い。数分ともたないことは自分でもわかった。


 亀裂のむこうから、笑い声が聞こえてくる。荒い呼吸のあいまの、かすれた声だが。


 鬼の声だ。

 地獄の悪鬼の笑い声。

 正気の人間の声じゃない。


 じわじわ、涙が浮かんでくる。


「たすけて——助けてッ! 猛さん!」


 さけんだって、聞こえないのに。

 助けを求めずにはいられない。


 でも、無情に力はつきる。

 蘭の体は、ズルズルと亀裂の外まで、ひきずりだされた。


 男が蘭の体をまたがるようにして立っている。

 その顔を見て、蘭は困惑した。

 そのとき、蘭はまだ、島村陽一がすでに警察に捕まっていることを知らなかった。猛が怪しんでいたから、島村(戸渡)が犯人かもしれないと思っていた。


 だが、この人物は……。


(そう。この男。見たことがある。あのときだ。あの岩場で——ということは、まさか……?)


 ありえない話だ。

 まさか、この男が一連の事件の犯人なのか?


 ぼうぜんとする蘭の前に、ぎらつく刃がふりかざされる。


 ここまでなのか。

 これまで、ずいぶん抵抗してきたけど。

 けっきょくは殺されて終わるのか。

 殺さないでと懇願しても、きっとムダなんだろう。


 せめて、きぜんと死にたい——


 蘭は男の目をまっすぐ見すえて、歯をくいしばった。


 刃が迫る、その瞬間、カタリと音がした。ほこらから、誰かがとびだしてくる。今しも、ふりおろされる、ナイフを持つ男の手にとびついていく。


 勝負は一瞬だ。

 きれいに背負い投げがキマる。

 男には、あらがうヒマさえない。


「蘭! 大丈夫か?」


 猛だ。やっぱり、ちゃんと来てくれるんだ。


 ほほえんで、蘭は気を失った。

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