六章 赤い海 2


 僕と猛の前に、まちまちのカップが置かれた。たぶん、セット物が、ひとつ、またひとつ、破壊されていった結果であろう。

 けっぺきな蘭さんには飲めない代物か。


 コーヒーをわかすと、浅茅さんは、すぐさまタバコに火をつける。


「翠はね。かわいそうな子なのよ。この島ではさ。少し前まで、中学出たら、そのまま漁師になるって子も多かったのよ。

 翠の母親は中学出て、すぐに結婚したんだよ。相手も同い年でね。ママゴトみたいな夫婦だよ。それで、翠を生んだんだけど、そのころから夫婦仲がこじれて別れたんだ。

 ヒロちゃん——広士っていうんだけどね。父親は都会に行っちゃって、それっきり。中卒で都会に出て、どうするってんだかねえ。どっかで、のたれ死んでるに決まってるよ。

 翠の母親は、うちで働いてたけどね。翠が中学生のときに、過労で死んじまった。朝から港で働いて、そのあと、うちでバイトしてたからね。自分が苦労したから、翠には、ちゃんと大学行かせてやるんだって、ずいぶん、がんばってたからね。

 あたしゃ、言ってやったのに。あんたが倒れちゃ元も子もないよって……」


 泣ける話だ。

 でも、これって、蒼太くんのおばあちゃんの話だよね? この調子だと、蒼太くんまで行きつくのに夕方までかかるんじゃ?


 思いつつ、おとなしく、インスタントコーヒーをすする。ちょっと甘めがウマイなあ。意外な気がした。


 浅茅さんは、スパーっと煙をはきだし、話し続ける。


「それで、翠は岡山の高校、行ったんだ。そのまま、あっちで、いい男でも見つけて居ついちまえばいいものをさ。バカだねぇ。高校卒業して、島に帰ってきたんだよ。あの子の祖父母ってのが、高齢だったからね。めんどう見るためにさ。まあ、じいさん、ばあさんは、すぐ、おっちんじまったけどね」


 よかった。翠さんまで到達した。


「けっきょく、身よりがなくなっちまってねぇ。まだ十八やそこらで天涯孤独だよ。かわいそうにねえ。暮らしにも困るじゃないか。それで、うちで働くことになってね。母親のときからの縁もあってさ」

「苦労をしに帰ってきたみたいなものですね」


 猛の言葉に、浅茅さんは首をかしげる。


「あたしが思うに、翠は好きな男がいたんだね。じいさん、ばあさんのこともあるけどさ。島に男がいたから帰ってきたんだと思うわけよ。その男が誰かってことまでは、あたしゃ知らないよ? 翠は、ほら。苦労してるぶん、ちょっと内に秘めたとこがあったからさ。あたしにも、そういうことは話さなかったんだ。だからさ。あたしゃ、思うわけさ。あんがい、妻子のある男だったんじゃないかって」


 妻子持ちの男と不倫……か。

 それで、蒼太くんの父親がわからないわけか。なっとく。


「つまり、蒼太くんの父親が誰だか、浅茅さんもご存じないんですね?」


 猛がたずねると、浅茅さんは乙女ぶった。


「ミキって呼んでよぉ。なによ、もう。そっちの男にかぎって、クールでカッコいいんだから」


 そういうんじゃないですからっ!


 さすがに、猛も、おかしくなって笑う。猛が白い歯、見せれば、攻撃力百倍だからね。とくに女の人に対しては。


 七十前のマダムが、ぼうっとなった。深々、ため息ついてる。


「……いやだあ。ほんっとに、いい男。二十年前だったらねぇ。絶対、ただじゃ帰さないとこだったのに。こんな、いい男、ヨウちゃん以来だわぁ」

「誰ですか? ヨウちゃんって?」

「島村のヨウちゃんよ。島一番の美少年だったんだから。若い子なんか、みんな、さわいでたっけねぇ」


 島村って、加納さんちのとなりの島村さんのことか?


 猛が、うなずく。

「おぼえてますよ。二十年……正確には十六年前ですが、会ったことがありますからね。たしかに、けっこう端整でしたね」

「あら、会ったことあるって?」

「子どものころ、遊びに来たことがあるんでね。あのころ、陽一さんは十八くらいだったかな」


 うーん。僕は、おぼえてないなあ。

 となりのお兄さん……どんな人だったっけ?


 浅茅さんは、ため息をついた。


「十六年前かぁ。あたしが年とるはずねぇ。じゃあ、そのとき、あんたたちにも会ってたかもしれないね」

「そうですね。でも、翠さんのことは知らなかった。会ったことがなかったんだろうな」


 あら!——と、浅茅さんが大きな声をだす。


「十六年前なら、翠が巫女やったときじゃない?」

「翠さんが巫女をしたの、あの年だったんですか。でも、巫女は十五さいまでの女の子から選ばれるんじゃなかったですか?」と、猛。


「ほんとはね。だけど、年の見あう女の子のなかに、巫女をやれそうな子がいないとき、たまにハタチ前の子が選ばれることもあるわ。たしか、みちるちゃんがやるはずだったのよ。最初は。それが夏風邪ひいちゃったもんだから、急な代役たてることになって」


「翠さんは代役だったんですか」

「子どものころにもしてるはずだけど。この島の子は、たいてい一度はしてるよ。毎年、違う子のほうがいいんだってさ。一回、捧げられた子は、もう海のものだから、とかなんとか」


 祈願力が低いってことか。

 でも、それが、ほんとなら、ちょっと妙だなぁ。

 だって、浅茅さんの言うとおりなら、島の女の子のほとんどは巫女経験者だ。

 つまり、島生まれの子どもの、ほぼ全員が、竜の申し子ってことになるんじゃないか?


 これには疑問をいだいたようで、猛も、にぎりこぶしを作ってる。

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