七章 海への捧げもの 2

 *


 夢中で走り続けていた蘭は、坂の下で、薫がいないことに気づいた。


「かーくん?」


 あたりを見まわすが、姿がない。

 どうやら、置いてきてしまったらしい。


 蘭のあとをついてきてたような気がしていたのだが、はぐれてしまったのだろうか? どうしよう? ひきかえして探すべきか。このまま一人で行ってしまうか。


 蘭だって二十代の男だ。

 一人で行動することが怖いなんて、幼児みたいなことは言わない。


 しかし、このところ、ずっと、猛か薫の少なくとも、どちらか一人は、つねにそばにいた。

 蘭がマンションで執筆のために、こもるとき以外は、一人になることなんて、ほぼなかった。


 それは、蘭が狙われるエモノだから。


 たとえば、ユキヒョウを凶暴でないとは誰も思わないだろう。どんなに希少で神々しいほど美しかろうと、豹は豹。野生の肉食獣だ。凶暴でないはずがない。


 蘭は、それだ。

 容姿は完ぺきだが、性質は決して、おだやかじゃない。

 むしろ、乱暴者。

 攻撃をくわえてくる相手には容赦しない。


 それでも、蘭をほしがる者は、あとを絶たない。

 その完ぺきな美とともに、いつ刃向かうかわからない凶暴性をもふくめ、惹かれるのかもしれない。


 これまで、いったい、何度、ストーカー被害にあってきただろうか。


 ちょっとした、つきまといていどではない。れっきとした犯罪や、つれさり被害にもあってきた。

 顔に硫酸をかけられそうになった、あの事件。

 殺されそうになったことも一度ではない。


 東堂兄弟がいてくれるから、今は外にも出歩けるようになった。


 ふつうの人のように、ふつうに太陽をあびて歩くことができる。バスに乗ったり、電車に乗ったり。はやりの店で外食したり。旅にも行ける。


 前なら絶対にできなかったこと。あきらめていたこと。いろんなことができる。


 だから、つい忘れてしまう。

 自分が、ほんとは今も、狙われるユキヒョウなのだということを。

 世界に対して、たった一人で危険にさらされているのだと。

 まだ、臨戦中だったのだと。


 こんなふうに、とつぜん戦闘態勢に立たされると、少しあわてる。


 蘭はポケットに手をつっこんだ。

 よかった。ちゃんと武器は持ってる。右にスタンガン。左にジャックナイフ。

 ナイフを持ってることは、猛にはナイショだ。きっと、そんなもの持たなくても、おれが守ってやるよと、猛は言うから。


(でもね。こんなふうに、一人になることもあるじゃないですか。自分の身は自分で守らなくちゃ)


 とはいえ、いつまでも一人でいる必要はない。

 薫を探そう。

 猛ほどの戦闘力はないけど、いちおう目撃者にはなる。蘭が一人でいるよりは、おそわれる可能性は格段に少ない。


 蘭が薫をさがしに、もどろうとしたときだ。

 坂の上から人がおりてきた。

 薫ではない。

 逆光でシルエットになっているが、体格が違う。


 近づいてくると、顔が見わけられた。


「やあ」と、声をかけてきたのは、戸渡だ。今日も大きなカメラのボックスを肩から、さげている。

「君が一人なんて、めずらしいね。名前、なんだったっけ?」


 これは、蘭にとっては侮辱だ。

 今まで、一度でも会ったことのある人間に、名前を忘れられたことはない。

 たしかに、戸渡には正式に自己紹介していないが、猛や薫が名前を呼ぶのを聞いてはいる。


 戸渡は苦笑いした。

「ごめん。ごめん。人の名前、おぼえるの苦手なんだ」


 蘭は無視して歩きだした。

 戸渡については、猛が警戒していた。かかわらないほうがいい。


「待ってくれよ。ずっと君と話したかったんだ。キレイだよね。君。肌なんか、まるで真珠じゃないか」


 やはり、ナンパか。

 戸渡の前では、すでに日本語で話してるから、外国人のふりはできない。

 まあ、いつものようにドイツ語でののしって、あからさまに拒絶の態度を見せてやってもいいが。

 とりあえず、正攻法でで、ことわった。


「ついてこないでくれませんか? こっちは話したくないんだけど?」


 すると、戸渡は笑いだした。


「あれ? 警戒させたかな? じつは被写体を探してるんだ。竜神祭のとき、浴衣きてさ。何枚か撮らせてくれない? こう見えても、おれ、けっこう高名なんだよ。芸能プロダクションにも何人も知りあいいるし。芸能人になりたくない?」

「なりたくない」


「なんで? こんなにキレイなのに? もったいないよ。君のその美しさを世に出さないなんて。映画にでも出れば、今のままの君が永遠にスクリーンに残るんだよ?」


 何を好きこのんで、さらなるストーカー被害を拡大させるようなマネをしなければならないのか。


「うるないな。ほっとけ! クソやろう」


 日本語で、ののしった。


 戸渡がだまりこんだすきに、さッと走りだす。坂の上まで、かけあがる。


 それにしても、あたりに人影がない。殺人事件が起きたせいで、たぶん、男手がみんな殺人現場や、警察の手伝いにとられているのだ。


 やっぱり、加納家に帰ろうか。

 おとなしく、猛が帰ってくるまで待つのだ。


(かーくんは、どこ行ったかな?)


 途中まで、蘭のあとを追いかけていたのは確実だ。声を聞いた。はぐれたあと帰ったか、蘭を探して、ウロウロしてるか。そのどちらかだ。


 電話で、たしかめよう。

 蘭はスマホを出して、薫にかける。


 だが、なかなか、つながらない。

 呼び出し音が続いたあげく、留守電になった。


「かーくん。今、どこにいるの? 僕、加納さんちに帰ってるからね?」


 留守電にメッセージを残し、蘭はスマホをポケットに入れようとした。


 そのとき、いきなり背後から、とびつかれた。誰かの片腕が蘭の首をホールドする。


(戸渡……か?)


 あがくが、ガッチリつかまれた腕をはずすことができない。


 スタンガンに手をのばす。

 しかし、それを使う前に、蘭の意識は遠くなった……。

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