一章 なつかしの海 1



 八月。お盆の時期に、それは始まった。

 何かって? これだ。


「海! 海が見たい! 泳ぎたい! もう密室はイヤ! 僕は夏を楽しみたいんです。早くしないと、夏が終わっちゃう!」


 蘭さんだ。

 しばらく締め切りが続いて、マンションに、おこもりしてたから、ストレスがたまったらしい。


 ちなみに、ここは蘭さんのマンション。五条通りに近い、わが町家の近所だ。


「密室ってか。自分ちでカンヅメになってるだけだろ? 落ちつけよ、蘭」と、兄がなだめるも、わがままモードに入った蘭さんには通用しない。


「猛さんはいいですよね。僕が、せっせと、みんなの食費をかせいでるあいだ、のんびりテレビ見てるだけなんだから」


 おっと。蘭さん。絶世の美女のような麗しい口から辛辣しんらつな毒を吐く。


 なみの男なら友達に、こんなこと言われたら、そうとうヘコむとこだ。だが、猛は違う。平然と、こう言いはなった。


「うん。サンキュー。今日は焼肉だ」


 蘭さんは、ソファーにのめりこんだ。何を言ってもムダと悟ったのだろう。


 ごめんね。蘭さん。猛も初めて、蘭さんのヒモと言われたときにはショック受けてたんだけどね。最近、なれちゃったみたい。


 僕はダメな兄をフォローした。


「蘭さん。でも、もう締め切り終わったから。ね? みんなで遊びに行こう。どこがいいかなぁ? 天橋立なら日帰りできるよ?」

「日帰りなんて、つまんない」

「じゃあ、出雲かなぁ? 蘭さん、出雲、好きだもんね?」

「うーん、今回は南国がいいなあ。日差しが、さんさんと照ってるとこ」


 南国ねえ。沖縄とかか?

 蘭さんのヌードは思ってたより攻撃的ではないことが、前回の事件のときにわかったんで、海水浴もいいかもね。


 うん? 前回の事件を知らない人がいますか?

 えっ? まさか、初めまして?


 しょうがない。

 事情を説明しよう。


 僕の名前は、東堂薫とうどうかおる。兄はたける

 そして、以前、とある事件で知りあった友人の蘭さんは、この世に二人といないような比類なき美青年だ。あまりにも美しすぎて、幼いころから、何度となくストーカー被害にあってきた。


 そこで、僕ら兄弟は、蘭さんを守るボディーガードになった。いや、むしろ僕は家政夫だけど。

 そのかわり、蘭さんは僕らに食費をめぐんでくれている。

 ちなみに、蘭さんの職業はミステリー作家だ。グロいホラーなんかも書いてる。


 僕ら兄弟はヒマな私立探偵。

 蘭さんに養ってもらって、なんとか生きている。猛なんか、かなりのイケメンなんだけどねぇ。顔は仕事の依頼に関係ないから……。


「じゃあさ。明日、旅行代理店行って、行きさき決めようよ。蘭さんの好きなとこ、どこでもいいよ」


 蘭さんの機嫌がなおった。

 ニッコリほほえむ姿のなんと愛らしいことか。

 この人は、あいかわらず命中率百パーセントのマグナムだ。微笑ひとつで、的確に心臓を射抜いてくる。その破壊力たるやハンパない。ひと撃ちで上半身ふっとぶね。


 しかも、蘭さん。最近、髪を金髪に染めた。もともと、北欧系のクォーターなんで、肌の色が白人のように白い。金髪なんかにすると、どこから見てもバービー人形でしかない。

 家のなかを実物大のリアルバービーが、うろついてると思ってほしい。正直、ドキドキしっぱなしで困る。


 しばらく、僕の心臓はバクバクした。僕が胸を押さえてると、とつぜん、猛が言った。


「いや、行きさきは決まってるよ」

「えっ?」

「どこ?」


 僕と蘭さんは、同時にたずねる。


「今年はアツシの十七回忌だ。もう、雅おばさんも亡くなったし、たまには行ってやろう」


 うッ! あっちゃんの十七回忌……いや、僕だって忘れてたわけじゃない。たった八つで死んだ、僕らのいとこ。東堂家の運命とはいえ、それは悲しい思い出だ。


「そうか。もうじき、お盆だもんね」

 僕はうなずいたが、蘭さんは首をかしげている。


「誰ですか? アツシって?」

「子どものときに心臓病で死んじゃったイトコだよ。おばさんが生きてたころは、同じ年ごろのおれたちを見ると、思いだして、つらいみたいだったから、あんまり行かなかったんだ」と、猛が説明する。


「お墓まいりってことですか」


 蘭さん、あんまり楽しそうではない。そりゃ、そうか。僕らには、いっしょに遊んだイトコだけど、蘭さんには赤の他人だ。

 でも、そこは猛だ。蘭さんのあつかいには、たけている。


「お盆前には、竜神祭があるんだよな。あの島」


 さすがだ。猛。

 蘭さんの表情がピクっと動いた。大きな瞳で、まっすぐに猛をふりかえる。


「島? 竜神祭?」

「そう。瀬戸内海の島なんだ。イトコのうちは、そこの旧家で昔の網元」

「網元……完全に横溝正史の世界じゃないですか」


 あっ。蘭さんの目が輝いた。

 あわいブラウンの瞳が、うるうる、うるり。


「僕、行ってみたい」

「うん。行こうか」


 猛は優しく蘭さんを抱きよせた。そして、耳もとでささやく。


「だから、旅費、よろしく」


 そこか! 狙いは、そこかッ。わが兄よ。仏前のお供えくらいは、うちで出そうね!


 ——というわけで、僕らは、その島に旅立つこととなった。


 あんなことが起こるとわかってれば、行かなかったんだけどね。毎度のことながら……。

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