八、私の胸で泣いてよ
「じゃあ明日もよろしくな」
時刻にして
蝴蝶も秤娘も、恵民署の門の前で、园司が見えなくなるまで見送る。彼は背中だけを見せて、一度もこちらを振り返りそうにもないというのに、蝴蝶はにこにこと笑顔を浮かべて、見送っている。
「もういいでしょ。
いったい何時まで見送るつもりだったのか、健気に米粒の背中を見送り続ける蝴蝶の袖を、秤娘が爪先で引っ張る。
秤娘に言われて、はっと表情を変える蝴蝶。
それもつかの間、すぐにまた笑顔を作って「そうね」と言うと、花精の居る執務室まで向かった。
「──フム、薬屋ですか。」
事のあらまし、
全てを聞き終えた後、花精はその美しい口元を、自らのすらりとした白い手で隠して、独りごちた。
どうやら花精も、その薬屋のことが引っかかったようだ。
秤娘は、紅い官服に身を包むような高貴な医官が、王宮内では有名な薬屋の存在を知らないことに疑問を抱く。
何かを思考し、当たり前のように後ろへと控えている
「园丁、貴方はその薬屋について何か知っていますか?」
当然、王宮で務めていた高名な医官へ質問が飛ぶ。
いままで口を閉ざしていた园丁は、重そうにそれを開く。
「存じ上げてはいます。が、その内容は秤娘が話したものと大差ありません。それ程までに、奴は情報の制限を徹底した人物である事は確かです。」
园丁ですら知りえぬ事が分かった花精は、考え込んで黙ってしまう。
秤娘はちらりと蝴蝶の様子を伺う。彼女は皆と同様に考え込んでいるように見せて、心ここに在らず、ぼうっとしていた。
「─────蝴蝶?」
そんな彼女の様子を見透かしたのは、秤娘だけではなく、花精も気づいて声をかけた。が、蝴蝶からは何の反応も返ってこない。
蝴蝶、蝴蝶、と隣の秤娘がこっそり小突く。そこでまた、はっと我に返った蝴蝶は慌てて状況を確認する。
「えと」
自身に水を向けられているのだと知っても、それ以前の話が頭に入っていなかったのであろう、彼女は咄嗟に言葉を漏らすが、それだけで。
「貴女にしては珍しく集中に欠けていましたが。莉家で何かありましたか?」
始めに向けられるのは、咎める言葉ではなく。
完璧であるはずの彼女が、珍しくそうでない部分を見せている。それを心配しての言葉。
「いえ、そのような事は────。」
「ふむ、何かあった訳でもなく、理由を話す訳でもないのですね。」
海のように深い、深い青の瞳が蝴蝶を閉じ込める。言い訳もせず、ただ首を項垂れる彼女に、秤娘が背中に冷や汗を流す。
「注意散漫な貴女には相応の罰を与えねばなりませんね。そのようにぼうっとしていられては、他の医官医女に迷惑がかかるだけならまだしも、人の命を預かっている自覚を常に持ちなさい。」
珍しく、花精が誰かを叱っている。誰にでも敬語で、自身の身分など普段忘れているような男の叱る姿を秤娘は初めて見て、驚いた。
高圧的でも無ければ、理不尽でもない、正当な叱りである事は理解しているが、普段の完璧な蝴蝶を知っている秤娘は、彼女を庇おうと口を開きかけると。
「三日程の暇を与えます。」
「────って言われたからって、こんな所で不貞腐れてるんじゃないわよ。」
花精の静かな怒りから夜が空け、蝴蝶の初めてのお休み一日目。秤娘と
「そうだぞ、蝴蝶。お前は休みかもしれんが、私達は仕事中だ。気が散って仕方がない。」
すっかり青臭くなった手を、しっしっと払いながら憎らしく言い放つ魚運に、秤娘は大した仕事などしていないだろう、と心の中で独りごちる。
「違う、違うわよぉ。私はお休みしたことなんてないからどう過ごしたらいいか分からないだけで──いや、怒られた事にもかなり心にきてるかも。」
駄々っ子のように、大きな口を開けて情けない顔のまま声をあげる蝴蝶に、本当に完璧主義者である彼女らしくないと、何度も驚く。
蝴蝶が産まれた時からこの恵民署で暮らし、外で泊まったことはおろか、遊びに出かけることも無く、医療、そして医療食について幼い頃から学び続け、医女になるや休み無しで毎日働き続けていた彼女を知っているからこそ、秤娘も魚運も薬庫から無理矢理追い出すことはしない。
「
一般の年頃の女の休日を思い浮かべて、提案をする。秤娘なりの皮肉がたっぷりと乗ったものだが、蝴蝶は気がつくはずもない。
「髪に飾るのは、お母様の形見のこれだけがいいの。」
さらりと、細い指先が、絹のように輝く黒髪を撫ぜる。そんな髪によく似合う、朱の髪結い布。
蝴蝶が養父から渡された、蝴蝶を恵民署で産むなり亡くなってしまった、実の母からの贈り物。
艶っぽい蝴蝶の瞳に、秤娘は何も言えなくなる。
「朝食後の薬膳を貰いに来たよーっ。」
暗い薬庫を快活な声と共に勢いよく開けたのは、
「あらっ、元気が無いねぇ、何の話をしてたんだい。」
秤娘が既に用意していた、入院患者全員分の内服薬が分けられた膳を抱えながら、甲紫は暗い三人を見渡す。
秤娘は小さく息を一つ吐いたあと、事のあらましを掻い摘んで話した。
「──おかしいね。
その場にいた全員が、想像もしていなかった返答に言葉を失う。
秤娘と魚運は直ぐに蝴蝶の顔色を伺う。
二人が危惧した通り、蝴蝶は呆然と口を開けたまま、思考を放棄していた。
羊然という男は、是といって抜きん出た物があるわけでもなく、至って平々凡々は良人である。出産時取り上げたという縁だけで、子の授からない妻との調和を測りながら、蝴蝶をこの歳まで立派な医女として育て上げた。
当然、理由もなく母の形見という大事な品を、黙って隠すような男ではない。
否、そんな男だと誰もが信じたがっている。
「そ、そうなんだ、知らなかった。」
凍りついた空気を溶かそうと、蝴蝶は言葉を絞り出すが、明らかに動揺しており、その緊張が解れることはない。
全員の頭にこびりついたのは、上等な銀の簪という言葉。売ってしまえば幾らになるのだろうか、その憶測こそが、三人の心を曇らせている。
「不確定な憶測はするべきじゃないわ、蝴蝶。」
その憶測が事実であれ、そうでなかれ、傷つく蝴蝶を見ていられまいと、秤娘は顔を陰らせている彼女の肩を支えて、立ち上がらせる。
「その事について聞く時が来たなら、聞けばいいのよ。今の貴女の精神状態では、思い込むことも、知ることも毒。どこか
こんな事を言えば、蝴蝶の自尊心が傷つくのは分かっていた。誰かからの心配を、慰めや哀れみだと受け取る厄介な性格。
秤娘の予想通り、黒曜石を閉じ込めたような大きな瞳は、光の差し込まない暗い薬庫の僅かな光をめいっぱいに蓄えて、揺れている。
「─────うん。」
折角の愛らしい顔を伏せてしまった蝴蝶は、秤娘と甲紫の間を抜けて、立ち去った。
本当に厄介な性格だと、秤娘は誰にも見えないようにため息をつく。
誰かの前で泣くことも出来ないなんて。
心置き無く涙を流せるような、彼女にとって安らげるような、そんな場所になりたかった。
それ程の想いを抱いていながら、うまく伝えられずにいる自身も、厄介な性格だと拳を強く握る。
「──甲紫様も、あまり軽率な発言は控えられた方がよろしいかと。」
八つ当たりだと自覚していながらも。蝴蝶を傷つけたその原因に、怒りをぶつける。
甲紫は眉を下げて、微笑む。
「そうね、羊然医官はそんな方ではないと分かっていても、もう少し考えてから発言するべきだったね。」
そう言うと、ふくよかな背中は寂しげに、薬庫を後にする。
「───銀の簪か。どれ程の値打ちがするのだろうな。」
甲紫が立ち去り、気まずくなった空気を何とかしようと、不躾な発言をする魚運に、今の会話の何を聞いていたのかと、厳しい視線を飛ばす。
魚運はすぐさま、自身の無骨な手を口元にあて、口を塞ぐ。
そのまま何も会話をせず、黙々と検品を始めてしまった。
しかし、すぐに秤娘の手が止まる。
「魚運様、少し花精様の所へ用が出来たので、はずしますね。」
位は一応上である魚運へ、頭を下げるなり、秤娘は早足で薬庫から出る。先程恐ろしい視線で咎められた魚運は、何も言わずに手をひらひらと揺らし見送った。
「花精様。」
今日も今日とて、到底提調とは思えないような、何度も洗い直されて柔らかくなった医服に身を包み、地へ膝を着いて、庶民へその身で診療を提供する男の前へ立つ。
秤娘から話しかけられる事など予想もしていなかった花精は、ひとときの驚きを見せるが、現在診ている患者を傍にいた医女へ引き継ぐと、長い黒髪を揺らして、立ち上がる。
「珍しいですね。何かありましたか。」
ただ彼が立ち上がっただけだというのに、どこかから感嘆のため息が聞こえる。作り物の笑顔も、蝴蝶とまるでそっくりで、秤娘はさらに苛立ちを覚える。
「明日、絶ッッ対にお暇をもらいます。」
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