六、夢と記憶


「…お取り込み中でしたか」


 花精ファジンが話していた事に気がついた园丁ヤンディンは気を遣ったが、一度話しかけてしまってはもう遅く、花精は「後でも出来る会話をしていたので構わないです、彼女の様子はどうでしたか?」と医官の顔に変わってしまった。


「はい、麻酔は問題なく効いており、今は眠っています」


 园丁の鍼麻酔による効果と危険性リスクについて、しっかりとした説明を受けた上で同意したであろう柳のような女は、夢の世界へ行ったようだ。


「花精様、術式による治療は決定ですか」


 园丁の問いに、花精は「そうですね」と一言置いて、さらに言葉を繋いだ。


「頭を強打した際の内出血が海馬周辺を圧迫し、記憶障害を来たしているとみて、間違いないでしょう。手足や顔面の麻痺、しびれは確認出来ませんでしたが、距離の認知に障害、立ち上がり等の運動をした際の平衡感覚に、障害が見られました。放置すればその他の障害が現れるだけでなく、後遺症も残るでしょう。」


 蝴蝶フーティエは花精の見解を聴きながら

柳のような女の様子を思い出していた。

 柳のような女が、手足に痺れは無いかと聞かれ腕を上げた際、問題なく上げる事が出来ていたため、しびれや麻痺は無かった事が分かる。

 その後、渡した筆と筆の持ち手の先をつける、簡単な事が出来なかった様子から、距離感を掴む事に問題があった。

 そして、花精について行こうと立ち上がった際、柳のような女は身体をよろめかせ、花精の助けを必要としていたので、平衡感覚に障害があると察せる。

 あの短い診察の時間で花精は、病の原因へ見当をつけていたこと、普段ならば気にならないような所作へ目を配り、病の根拠としていたところに蝴蝶は納得し、勉強になると頭に入れる。


「しかし脳外科術式は相当な技術を要するはずです」


 园丁の忠告とも取れる言葉に、花精はくすりと笑った。


「ああ、到底成功するとは思えません。私一人では、ね」


 花精の言葉に、嫌な予感を感じ取った蝴蝶がそちらを見れば、にやりと細められた目と目が合ってしまった。


「…尽力します」


 もう既に、蝴蝶は拒否権が無いことを理解していた。


「術式をする日程を決めたいのですが、そのための重要な確認を蝴蝶に頼みたいのです」


 蝴蝶は頭を下げたままその頼み事を言われるのを待つ。


「これは貴女でなければ出来ませんので」


 誇張でも、買い被りでもない前置きから、花精はさらに言葉を続けた。





「う、うう……うっ」


 花精が蝴蝶へ、彼女にしか出来ないことの内容を伝えた後、そろそろ麻酔が切れてしばらく経つ頃だろうと、柳のような女の様子を見に施術室に入る。

 すると、身体を横たえたまま右腕で顔全体を覆いながらすすり泣く女の姿が、そこにはあった。


「なにかありましたか」


 すぐさま駆け寄ったのは园丁。自身の鍼に何か問題でもあったのかと、冷静かつ迅速な行動をとった。


「いえ、夢を見たのです」


 夢。柳のような女の言葉を聞いた三人はぽかん、と口を開ける。


「ぼんやりとですが、体つきの良い男の人で。私はその夢の中の男性のことを知らないはずなのに、何故か涙が止まらなくて」


 嗚咽混じりの言葉に、园丁はどうしていいか分からず、ちらりと二人の方を見る。堅物の男は女の涙を止める方法を知らないのだろう。

 見られた二人の方はというと、花精がじろりと蝴蝶に視線を流す。「女同士だから頑張ってくれ」という思惑をはらんだ視線を集める蝴蝶は、分かった分かったと言葉には出さないものの、態度に出して园丁と変わった。


 柳のような女の背中をさすりながら、他にも思い出せそうな事は無いか、何か吐露したい事があれば自由に言うように促す。

 今まで頼るものも無いまま、ここへ流れてきた女は、蝴蝶の暖かな手のひらと言葉に、理由の分からなかった涙から理由のある涙へと変わる。

 女が見たその夢の中の男とは、女にとってどういう存在だったのだろうか。女が作った幻なのか、実在するかも分からない。


「…他の経穴ツボも刺したのか?」


 蝴蝶と柳のような女の様子を見ながら、花精は园丁に耳打ちするような小さな声で、そう尋ねる。园丁は「まさか」と間髪入れずに言葉を返す。


「花精様の許可無しに独断で施術する事など、出来るはずがありません」


 园丁も耳打ちのように小さな声量にする。


「いや、聞き方が悪かったな…記憶を戻す経穴はあるのか?」


 花精の問いに、二十年をゆうに超えた医官の経験から培われた記憶の引き出しを開ける园丁。


「科挙の試験勉強をしていた甥っ子に頼まれ、記憶整理の経穴なら刺した事がありますが…失った記憶を取り戻させるなんて経穴は刺したことも、聞いたこともありません」


 花精は返ってきた言葉を考えこむようにして、腕を組んで黙った。

 鍼麻酔は脳から麻酔たる物質を過剰に分泌させることで、成り立っている。

 偶然なのか、あるいは必然なのか、鍼麻酔が脳を刺激した作用によるものなのか。


「人のからだとは、まだまだ分からない事が多いな」


 花精は知的好奇心に溢れる目を輝かせた。




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