九、想い
繰り返しの毎日。
ただ、今日だけは違う。
否、
昨日、恵民署の
「
医官医女が休憩する詰所の扉を勢いよく開ける。やる事も見つけられずにただ黄昏れる彼女に、秤娘は努めていつも通りを振る舞う。
蝴蝶の休みに合わせて、一緒に何処かへ出かける。そんな休日に浮ついた心を隠すように。
「え、秤娘、今日は非番じゃなかったの。」
秤娘の突然の登場に、蝴蝶は少しだけ赤くなった目をさらに大きくする。
「そうよ。奇遇にも、非番が重なったの。だから私と出かけましょう。」
そう言うと、いつもより高い位置に結った髪を後ろへさばいて、蝴蝶の隣へ座る。しかし、返事もなく、じっと見つめられる。
咄嗟に奇遇なんて嘘をついてしまったことがばれたのか、もしくは出かけたくなどなかったか。秤娘の中で後ろ向きな憶測が飛び交う。
「──髪の結い方変えたんだね。似合ってるよ、可愛い。」
ふにゃりと、力なく笑う蝴蝶を前に、今度は秤娘が言葉を失う。
誰も気が付かないような、細かな変化に気がついてしまう。それに喜んでしまう自分に、恥ずかしさが込み上げる。
結った髪へ伸ばそうとする手を、熱くなった耳を悟られまいと、慌ててはらう。
「触るぐらい良いじゃない。けち。」
わざとらしく口を尖らせてみせる蝴蝶だが、手を払われた事に何の怒りも示していない。
「そんな事をしてる暇があるなら、早く準備して頂戴。」
ふん、と鼻をならして、そっぽを向く。
歓喜と、手を振り払ってしまった後悔の、複雑な感情に支配された顔を隠す。
蝴蝶は優しく笑うと、出かける準備をするため、ぱたぱたと足音をたてて後にした。
「───でも、お出かけってどこへ行くものなの。」
賑やかな都を並んで歩きながら、蝴蝶は爪の先で自身の唇をあそぶ。この道なりがもう既に、様々な店が並んでいて視線を奪う。
「北の都に美味しいご飯屋さんがあるらしいわ。そこを目指しているけれど、その道中に素敵なお店があったら、好きなだけ寄り道しましょう。」
日頃から笑わない秤娘が、にやりと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。とっくに気になる店ばかりだった蝴蝶は、牡丹の花が開くように豪奢な笑顔を咲かせた。
色とりどりの絹糸を並べる店、艶やかで良質な布を風に揺らす店、鮮やかな紐で丁寧作られた房飾り、愛らしい入れ物に入った化粧品。
目に入る物を全て指さして、会話の種となる。
購入するわけでもないのに、店の前に立ち止まっては商品を手に取って、ああだこうだと話し、店の者の視線が冷たくなった頃に退散する。
他愛のない会話、足の裏が砂利道のかたちを覚え痛くなってきた頃、移動用の人押し車に乗り、北の都を目指す。
道中、深く考えず話す。日常は、発言の一つ一つを選び、行動さえも命が懸かっているため、このようにただ思ったことをそのまま舌に乗せる、という行為の楽さに、二人の会話は止まる気配がない。
「ここ。暑い季節にぴったりの
人押し車から降りて、店の前へ立った秤娘は心做しか、胸を張る。都に位置する飲食屋なだけあり、お昼より少し過ぎた時間でも、店内は多くの客で賑わっている。
汗を流しながら赤い鍋を食べたり、こんな時間から濁り酒をあおったり、思い思いに腹を満たし、笑顔になり、会話をしている。
店に並んで入ると、案内されたのは、外の様子を眺められる座敷。ふわりと
金属製の椀に入れられた白米と、長い匙、そしてぐつぐつと煮えたぎる豆腐鍋が目の前へ揃った時には、二人の腹は大きく鳴いていた。
匙で出汁と豆腐を掬いとり、ろくに冷まさないまま口内へ放り込み、はふはふと短く息をして、舌の奥でとろける豆腐の味わいと、さすような辛みを楽しんで、喉へ送る。
水を三口ほど飲んでもまだ、辛みは舌に残っているので、白米を口いっぱいに詰めこんで、辛みを誤魔化したというのに、また鍋の出汁をすすって、飯と出汁を口の中で調味する。これを繰り返しているうちに、暑さと熱さと辛さで、額からじわじわと玉のような汗が滲む。
熱さをもって暑さを制すとはよく言ったものだと、言葉通りにひたすら鍋と飯をかけ込む。
「───花精様に暇を言い渡される前から、ここ数日元気が無かったわよね。」
ある程度腹を満たしたところで、秤娘は本日蝴蝶を誘った理由に触れる。
汗でさえも、甘い香りがしそうな蝴蝶は、秤娘の問いに少し驚くと、ばつが悪そうにはにかんだ。
「気づいてたんだ。」
情けないね、なんて言うと、豆腐をゆっくりと口に運んで、その先の言葉も一緒に飲み込んでしまった。
どうして様子がおかしいのか、理由を聞かせて貰えれば力になれることがあるのかもしれない。そう思って問いただしているというのに、その理由を話してくれない焦れったさに、秤娘は奥歯を強く噛む。
「あの女官が亡くなったからじゃないの。」
ほぼ確証に近いと判断したからこそ、具体的に尋ねる。案の定、蝴蝶は大きな目をさらに大きく開いて、匙を持つ手を止めた。
「秤娘は私の事なんでもお見通しなんだね。いつも冷たいから、私に興味なんて無いと思ってたよ。」
冷たいのは自覚していた。全く素直ではなく、愛嬌もない自身の性格を、秤娘は誰よりも知っていた。
しかし、そんなことで有耶無耶にされそうな現状が、話すに値しない存在だと思われているのかという不安を煽る。
「貴女は何でも分かりやすすぎるだけよ。患者一人一人に入れ込むのは、やめなさい。」
頼まれてもいないのに、
「私は、私の医女としてのあり方を曲げるつもりはないわ。」
ここ数日失っていた覇気が、蝴蝶の目に宿る。
「病人への対応を疎かにしろって言ってるわけじゃないわ。ただ、患者と友達になるなんて、あまりにも───。」
強い蝴蝶の眼差しに、つい思いのままに口が滑る。そして、全て言ってしまう前に、一息つく。
─────馬鹿げている。
「あまりにも、自分の心の事を考えていないわ。」
飲み込んで、なんとかそれらしい言葉を絞り出す。
「病人にとって、医官医女は選べるものじゃないのよ。あの人達には、私達しか居ないの。私達にとっては、病人なんて数居るうちの一人だというのに。だから私は、一人一人を大切にして、身体と心に寄り添った医女でありたい。」
こうだと信じたら、なにがあっても曲げない、真っ直ぐな信念。そうして固く固く作られた信念で、自身の心を傷つけている事も厭わない、誰よりも優しくて誰よりも不器用な蝴蝶に、秤娘は苛立ちが込み上げる。
「医女としての責務を履き違えるのも大概にしなさい。貴女のそれは寄り添ってなんかいない。感情移入の過干渉よ。」
忠告を、素直に受け入れない蝴蝶へ、秤娘も謀らずも強い口調となっていく。互いが、自身の考えに間違いはないと信じていた。
かたり、と匙が机に置かれる。蝴蝶の匙だ。
「それを言うために、今日誘ったの。私が間違ってると言うために、わざわざ───。」
そこで漸く、秤娘は言いすぎた事に気がつく。慌てて秤娘も匙を置く。
「違うわ、ただ貴女が心配で、そのままじゃ貴女が先に壊れてしまうって」
遅すぎる本心を並べるか、蝴蝶の耳には言い訳としか届いておらず、その心には一言も届いていない。
揺れる黒曜石は、静かに怒りを抱いている。
これ以上の言葉など、彼女の逆鱗をさらに触れるだけだと、秤娘も諦めて口を閉じてしまう。
「ごちそうさま。先に出ておくわね。秤娘はまだ鍋の具が残っているし、ゆっくり食べてから出てきて。」
大嫌いな、笑顔。
秤娘が何よりも嫌った、蝴蝶の笑顔。取り繕った、人形のような笑顔。
自然なままの笑顔が何よりも愛らしいというのに、彼女の顔に偽りの仮面を被らせてしまった。
呼び止めることも、手を取って引き止めることも出来ない。
「───ええ。」
素っ気ない返事。
ごめんなさい。行かないで。私が悪かったわ。でも貴女を想ってのことなの。貴女の正しさも理解しているわ。貴女の全てを否定したいわけじゃないの。貴女の医療に救われた病人を何人も知っているもの。でもそれだけじゃ、病人より先に貴女が壊れてしまう。そうならないように貴女を助けたかったの。貴女にその気持ちを吐露して欲しかったの。頼れる友人になりたかったの。貴女の辛い気持ちを一緒に分け合いたかっただけなの。貴女を守りたかったの。ずっと笑顔でいて欲しかったの。ごめんなさい。病人に入れ込んで心を壊した医女を何人も見てきたの。貴女には幸せでいてほしかった。最善の選択をしてほしかった。本当にごめんなさい。今日も貴女には全て忘れて疲れを癒して欲しかっただけなの。
だからお願い、勘違いしないで。怒らないで。悲しまないで。憎まないで。誤解しないで。恨まないで。攻撃しないで。苦しまないで、目を閉じないで、間違えないで、畏れないで傷つけないで悔やまないでやめないで沈まないで哀しまないで怖がらないで惑わされないで傍観しないで立ち止まらないで息を止めないで諦めないで見失わないで退かないで困らないで脈を止めないで傷つかないで殺さないで絶望しないで軽蔑しないで踏み外さないで私以外愛さないで折れないで蔑まないで飽きないで引かないで乾かないで同情しないで恐れないで冷めないで痛めないで殴らないで思い込まないで泣かないで。
どうか。
嫌わないで。
何も言葉に出せないまま、味のしない鍋を胃に流し込んだ。
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