十、宣戦布告



 秤娘チォンニャンは、全ての具と出汁を流し込むと、今度こそ持ち上げない匙を置いて、立ち上がった。座敷に座る他の客の間を、縫うようにして通る。

 愛とも、憎悪とも言えなくなった、泥のような感情を抱えたまま、母が刺繍をしてくれた、持っている中で一番お洒落な靴を履く。


 店を出て、右、左と見渡す。北の都も、西の都と同じように賑わっており、ぱっとみた風景だけでは違いが分からない。似たような世界で、唯一輝いている彼女を探しているのだが、その光を見つけることが出来ない。

 蝴蝶の愛らしさを考慮すれば、何かに巻き込まれていても不思議では無い。不慣れな地で怯えている彼女を想像すると、居ても立ってもいられなくなり、早足であてもなく駆けだした。


 都というものは、何処へ行こうと、人、人、人。その波を掻き分けようとも、際限なく押し寄せる。それが余計に、蝴蝶との心の距離を表しているように思えて、焦りだけが積もってゆく。

 このまま闇雲に探しても埒が明かないと、漸く気づいた秤娘は、てきとうな店の主人へ、蝴蝶の特徴を伝え、見なかったか尋ねる。

 数件も回らないうちに、蝴蝶が何処へ行ったか手がかりを掴む。こういう時に限って、彼女のように目立つ容姿は便利だと感心する。


「大丈夫ですかっ」


 都の賑わいが、ぽっかりと失ったその空間。そこから、蝴蝶の声が聞こえる。

 円状に並んで見物する人達を押しのけて抜けると、蝴蝶の姿。

 彼女の姿を確認して安堵するのも束の間、見覚えのない男性を抱えて、呼びかけている。


「蝴蝶、その人は」


 見覚えの無い男は四十代から五十代だと思われ、頬や腹の肉付きから、決して奴婢のような卑しい身分ではなく、かなりの贅沢をしている両班ヤンバンあたりだと推測できる。

 男は、鎖骨下、中点付近の胸を自ら押さえ込んで、痛みに顔を歪ませていた。


「ここで蹲っていたの。」


 蝴蝶の呼び掛けには、ある程度反応しているため、意識に問題も見られない。男の痛がり方、胸を押さえ込んでいることから、心臓、もしくは肺の病だろうと二人とも推測する。


「おや、お困りのようじゃの。」


 騒然としているその場に、高いのんびりとした声。特徴的なその語り口調の主へ、視線を飛ばす。


「お前さんら二人はこの男の娘か。」


 薄い色の唇は妖しく弧を描いており、分厚い色つき眼鏡で目元の表情を上手く伺えない。身長は蝴蝶より小さく、女性とも男性とも区別できない様子は、かなり若く思わせる。

 背には大きな薬箱、傘、杖、旗、なんでも背負っている。

 秤娘も、蝴蝶も、目の前のこの謎の人物の問いに首をふる。


「なら、お前さんらは口出しするでないぞ。──さて、若造よ、その痛みを消したいか。」


 眼鏡で歪んだ瞳は、一切の光が宿っていない。

 明らかに、胸の痛みを訴えている男より若いであろうその人物は、若造などと呼んで優しく語りかける。

 男は痛みのあまり、藁にもすがる思いで、勢いよく首を縦にふる。そうすると、謎の人物は背負っていた大きな薬箱を、がたん、と降ろすと上から三番目、右から二番目の引き出しを開けた。

 開けた途端、生薬の独特か匂いが漂う。蝴蝶は医に精通した人物なのかと安心するが、秤娘はその人物が手にした生薬を嗅ぎ、見て、血相を変えた。


「何てものを与えようとしているのっ」


 謎の人物のまだ小さな手を掴んで、睨みつける。その人物も、刹那驚くが、すぐに妖しい笑みを貼り付ける。


「これが何か分かるのか。お前さん随分勉強熱心なお嬢ちゃんじゃのう。」


 秤娘の激情とは正反対に、謎の人物は冷静で、人を馬鹿にしたような余裕に溢れている。蝴蝶は生薬に詳しくないので、怒っている理由が分からず、二人の顔を伺う事しかできない。


「医官医女でも無さそうな、子供の貴方が処方していい生薬ではないわ。」


「これを知るなら、若造の痛みを止めることが出来るのは、こいつしかないという事も分からんのか。それに、お前さんも医女かどうか分からんが。」


 小さな手に握られる、ただの丸薬に見えるそれを争って、睨み合う二人。謎の人物の言葉に、秤娘は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。


「──私は恵民署ヘミンソの医女、蝴蝶です。こちらも同じく、秤娘という医女で、我が恵民署では生薬の第一人者として働いています。決して門外漢ではありません。秤娘の処方に従ってもらいます。」


 漸く二人の会話を遮った蝴蝶は、生命の危機に、迅速な対応を導き出した。蝴蝶と秤娘は医女だが治療する手持ちがない。また、謎の人物の言葉によれば現状最も効果的な生薬ということだが、秤娘によれば処方には専門家の見解が必要。そこで、両者互いに手を取り合う形での譲歩を進めた。

 さすがに、謎の人物もこれには反論せず、秤娘は彼の手に握られた、小さな丸薬を三つ処方する事を許可した。

 なんでも良いからこの痛みを治してくれ、と藻掻く男へ丸薬を飲ませて、少しの時間を待つと、先程の痛がっていた様子が嘘だったかのように、けろりと起き上がった。


「おお、おぉ、先程の痛みが無くなったぞ、それどころか身体が軽くさえ感じる。」


 喉元過ぎればなんとやら、男は立ち上がり、腕を回して感動している。

 どうやら謎の人物が用意した薬は、確かに良い効き目のものだ。勝ち誇った顔をする彼に、秤娘はじとりと視線を飛ばす。


「失礼ですが、先程の生薬はただの鎮痛薬です。胸の痛みの原因を治したわけではありませんので、そのように急に動かれるのは控えた方が宜しいかと。」


 あまりにも身体を激しく動かすものなので、秤娘は謎の人物との睨み合いもそれなりに、男を注意する。

 しかし、男は秤娘と蝴蝶を見下ろすなり、眉間に皺を寄せた。


「なにを。私が治ったのはこの方の薬のおかげ。お前たちは、この方が私に薬を与えようとした所を邪魔しただけではないか。そんな者の言う事をなぜ聞かねばならぬ。」


 誰のために忠言をしてやっていると思っているんだ、と言いたくなる気持ちをぐっと堪え、知識の無い者から見れば、そのように思われてしまうことも認める。

 なので、一番穏便に事が進む方法──怒る者をも鎮めるさせる、天女の脇を突いて、目配せする。


「そんなに怒らないでください。私たち、本当にお兄さんが心配で───。」


 目配せを理解した天女、そう、蝴蝶は間に割って入って、大きな瞳でめいっぱい男へ視線を浴びせる。そうすると、直ぐに男は怒りを沈めて、次は浮ついた感情を顕にする。次第に、人だかりも緊張感と共にゆっくりと溶けてゆく。


「君のような愛らしい医女に心配されるなら、悪い気はしない。嗚呼、これを機に私も健康流行ブームへあやかって、君が居る医療機関に受診しようかね。」


 明らかな下心。しかし、それを得るために胡蝶は自分のもてる武器美貌を使ったのだ。


「ご理解頂けて嬉しいです。我が恵民署は都の西の恵民署になります。是非来てください。」


 生薬で一時の痛みを取り除いたとはいえ、その痛みを引き起こした原因をなにも解決していない。その原因を治療するとあらば、必ず恵民署まで受診してもらう必要がある。

 こうして一人の命を救えるのならば、蝴蝶は自らを売る事など安いことだと安堵しようとしたところ、背後から剣呑な声が飛んでくる。


「お前さんらが西の恵民署の医女じゃと。」


 その声の主は、謎の若き薬師。先程まで柔和でありながら冷たさを感じさせる笑みを浮かべていた筈の彼が、血相を変えて二人に問う。

 薬師の迫力に気圧された蝴蝶は、頷く。


「若造よ、悪い事は言わん。こやつらの恵民署には行かんほうがよい。」


 胸の痛みを訴えた男よりも、かなり若く見えるはずの薬師は、相も変わらず男を若造と呼び、さらには蝴蝶と秤娘の居る恵民署へ行かない方がいいと助言までする。


「西の恵民署は、ナイフで腹や喉をカッ捌く事を治療だとほざく提調チェジョが運営しておる。そんな輩共に己の命を預けるのか、お主は。」


 蝴蝶にでれでれとしていた男は、謎の薬師に脅された言葉で顔を途端に青くする。


「違います、誤解です、花精様は、私たちは──ッ。」



「寄るなッ。」



 怒号。否、恐怖の混じった拒絶。

 男の無骨な腕は、華奢な蝴蝶を薙ぎ払う。まさしく久茎のように細い体は、今にもぽきりと折れてしまいそうな衝撃に、倒れる。

 秤娘は慌てて蝴蝶へ駆け寄り、男と薬師を睨む。男も咄嗟にやってしまった自分の行動に、はたと我に返るがもう遅い。


「良いぞ、若いの。お主は儂の薬で必ず治してやろう。この者共に解らせてやるのじゃ。人肉を切る非道極まりない異端の奇行など、医療ではないと。医療とは即ち生薬と折り重ねて来た歴史そのものだと。」





「薬師、熊猫ションマオはお主ら西の恵民署に宣戦布告をする。」







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