九、術前と覚悟


 柳のような女の、脳内出血摘出術式の日取りは二週間後となった。

 それまでに蝴蝶フーティエは、花精ファジンから少しでも、栄養状態を回復させるように言われた。


 柳のような女に、未だ嚥下障害は現れておらず、食べられるものに制限が無かったぶん、蝴蝶は献立を考えるのが幾分か楽になったに違いない。

 現在、蝴蝶の代わりに台所の責任者となった甲紫ジャズーと、他の病人にも提供する常食との兼ね合いをしながら、柳のような女の食事に体力を作る素エネルギーを増やしていった。


 まず、失ってはならないのが糖質。一食において五割から六割を占める主食であるそれをしっかりとした量を提供する。大きな茶碗にそれなりの量が入った粥に、女は最初こそ食べ切る事が出来なかったものの、だんだんと胃に入るようになった。

 そして次に、一食のうち二割から三割を占めるのが脂質だ。脂質は他の栄養素とは違い、体力を作る素としては非常に、量に対して効果コストパフォーマンスが大きくて良い。

 最後に、一食のうち一割から二割を占めるのは蛋白質。糖質や脂質のように体力を作る素となるのは、身体が限界に達した場合のみであり、体力として消費されるより、身体を作るために貯められる事が多い。術式を耐えうる身体作りをするためには、欠かせない栄養素でもある。

 他にも微量栄養素ビタミン無機質ミネラルを不足すると様々な欠乏症をもたらすため、気を配らなければならないが、それはどの病人、健常人にも言えることであるため、恵民署ヘミンソで出される普段の食事にも気遣われており、特別に増やすという事はしない。


 こうして、蝴蝶は柳のような女の栄養管理を行いながら、二週間が過ぎ去った。

 その頃には、花を散らし禿げていた柳が青々とした葉を茂らせるには、十分な期間であった。



「変ですかね」


 蝴蝶にそう尋ねる、頭の毛を全て剃り落とした柳のような女。


「女性としては辛いかもしれませんが、治ればまた毛も伸びてきますよ」


 この期間で柳のような女は、蝴蝶に随分と心を開いて懐いていた。蝴蝶のその言葉に「それもそうね」と言って微笑む。

 初めて女の身に起きている事を伝えた時、本人はとても信じられないといった様子だった。記憶を失っているという自覚はあったものの、平衡感覚等の障害から、そのうち自身の生命を脅かすとまでは思っていなかったようだ。


「そうだ、私、貴女の名前を知らなくて、ずっと呼びにくいなと思っていたんですよ」


 心を開いていたのは柳のような女だけではなく、蝴蝶もだった。くすりと笑って、女の病床の布団に座る。


「この術式が成功して、記憶が戻った時、一番に私に名前を教えて下さいね」


 蝴蝶も、女も、とても難しい術式だと聞かされていた。

 花精の腕を疑っているわけではないが、成功への願掛けのようなものだった。


「もちろん。私が目覚めたらすぐに言うわ」


 二人はくすくすと笑い、お互いの小指と小指を絡ませ、指切り唄を歌う。そして最後に実印に見立てた親指と親指の腹をつけて「約束よ」と言って手を離した。








 蝴蝶は清潔な衣服に着替え、帽子と口当て布をつけ、今は手指を洗浄しているところだ。


(私は私が出来ることをやるだけだ)


 本当ならば、蝴蝶は食事という面で医療に携わりたいと願っていたが、この術式の助手が自分にしか務まらない、これで一人でも多くの病人の生命が救えるならば、これが仕事ならば、と二週間のうちに覚悟を強く固めていた。

 この日のために、術式の際に使用する器具の名前、用途はもちろん頭に叩き込んだ。花精も感心したその記憶力と飲み込みの速さには、彼女が仕事となると割り切る性格だけが要因とはなっていない。


(こんなにも一人の病人につきっきりの看護をしたのは初めてだ)


 今まで、食事を提供する仕事をしていた蝴蝶は、特定の病人一人に深く接する事は無かった。病人とも話す時といえば、食事中に食べれているかどうかの確認をしながらの接触のため、広く浅い関わりばかりだった。

 しかし、花精の助手としての仕事を与えられてからというものの、頭の中を見るという大きな術式を控えた、柳のような女につきっきりの看護をしていた。


 つまり、蝴蝶自身も病人へ深い感情を持ってはならないと分かってはいるものの、女と友人になってしまった。


 病人と親しくなってはならないのは、この恵民署から歩いて家まで帰ってもらう事が理想としているが、現実はそうはならない事も多いため。

 恵民署の天井が最期の景色となった病人は、幾人も見てきた。

 そのため、病人と親しくなってはならないのは恵民署において、誰が言い出したわけでもない、暗黙の了解ルールとなっていた。


 今回は蝴蝶をやる気にさせているが、この難解な術式では何があるか分からない。もし、万が一の事があれば心を痛めるのは蝴蝶だ。

 一度だけならまだしも、これから花精の助手として術式を控えた病人と毎度毎度親しくなってしまうと、万が一の時に心を蝕まれていくのは他でもない、蝴蝶だ。


(…気を引き締めなさい、蝴蝶)


 だからこそ、失敗は許されない。

 親しくなってしまったのなら、元気な姿で恵民署から帰せばいいだけのこと。


(仲良くなったなら、最後まで自分で責任を負えばいいの)


 そう、自分に言い聞かせ、蝴蝶は清潔な手ぬぐいで洗浄した手を拭く。


 施術室に入る。施術台には既に、园丁が鍼麻酔を済ませた柳のような女が寝ている。

 前回も使った鉗子、剪刀ハサミ鑷子ピンセットメスを浅い盆に並べる。

 そして今回初めて使用する排液管ドレーン、骨鋸、拡大鏡も別の浅い盆の上へ用意する。


 あらかた準備が終了したころ、蝴蝶と似たような格好をした花精が施術室へと入ってくる。そして蝴蝶の隣へと立つと、両の手を胸あたりまで上げ、手の甲を前に出して大きな息を吐く。


「今から開頭及び、海馬周辺内出血の摘出術式を行う」




「術式、開始」





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