恵民署の蝶と花

あドぽ

序章、雪の蝶

「すみません、すみません」


 真冬、真夜中。とある恵民署ヘミンソの扉を叩く音と、消え入りそうな女の声。当直だった男、羊然ヤオレンはなんだなんだと衣を着込み、ざくざくと雪を踏み閂をどけ厚い木の扉を開いた。


「これは」


 羊然は寒さだけでは開かなかった目を、大きく開けて驚いた。こんな時に尋ねてきた女はなんと身重だった。いくら庶民に医療の知識が行き届いていないとはいえ、常識的に考えて身重の女が出歩くような環境ではない。

 それほどの重要な用事であるのか、はたまた常識など持ち合わせて居ないのかと、訝しむ羊然の顔を見るなり、安堵と苦悶を顔に乗せて女はこう言った。


「産まれそうで…」


 うそだろ、羊然は心の中で呟くがどうやら嘘ではないらしく、月明かりでうっすらとしか分からないが薄汚いチマの色が濃く変わっている。つまり、破水してしまっているのだ。あわてて同じ当直の医女達を大声で呼び、とにかく早く診察台に運ぼうと女に肩を貸して歩く。

 羊然の声を聞いて慌ててやってきた二人の医女達も全ての状況を飲み込むとは行かないものの、一人は羊然がしているように片側の肩をもち、もう一人は診察台の準備のために診察室に飛び込み、明かりをつけた。


「先生、この方は?」


 歩きながら女を抱える医女が尋ねる。唸るだけの女越しに、産気づいていることを伝えると医女は言葉を失う。仕方あるまい、この恵民署で出産など聞いた事が無い。


 つまり、羊然含め医女も赤子を取り上げた事など無いのだ。


(出産ぐらい勝手にして欲しい…)


 女という性が人生において、一番命を懸ける瞬間には違いないが、だからこそである。ここは恵民署だ。病気を患った庶民達の来る場所であり病魔が蔓延る場所でもある。

 出産でどっと体力と血を失った母親が、こんな病魔の巣に長く居ればどうなるか目に見えている。

 どうしようかと羊然の頭は痛くなる。



 診察台に女を寝かせる。度の強い酒でいつも清潔を心がけているが、健常な妊婦を乗せたのは初めてで、どうしても不安になってしまう。

 女に紙を食ませ、替えのシーツを端と端で何枚か結んだものを、天井からむき出している木の骨組みに固く結いつける。

 出産に立ち会う機会が無かったが、力むために機転を利かせて用意した、簡易的だが無いよりましであろうそれを作った自分を、羊然は褒めたくなる。


 女の股座を覗くのはこういう事態とはいえ避けたい行動である。なにより、女の体は女が熟知しているもので経産婦ではないが、医女の一人が進んで赤子を取り上げると言ってくれた。暗黙の了解のように、赤子を取り上げるのは医女が、羊然はぬるま湯と清潔な手ぬぐいの用意、煮沸用の湯を沸かすという役割分担が行われた。

 煮沸するための湯が沸いたところで、女の裳の中を覗いていた医女が声を上げた。


「赤子の頭が見えました!」


 羊然はその声を聞いて、慌てて鋏を煮えたぎる湯の中に突っ込み、煮沸し冷水で冷やし医女の元まで持ってゆく。

 受け取った医女は、女の会陰を垂直から少し角度をずらした方向に切開する。赤子を実際に取り上げた経験が無いだけで、医女ともあろうものが知識も無い訳では無い。


 しばらく女の悲鳴ともとれる声と、医女の励ます声が響く。

 女は懸命に力み、天井から下げられたシーツを強く握りしめ引っ張る。女の力と積雪の重みで天井が落ちたりしないものだろうかと、呑気な事を一瞬考えると一瞬の沈黙が訪れた。


 そして。


「ぁ……あぁ、あー、あーー」


 か細い子猫のような産声があがる。


「先生!かわいらしい女の子です!」


 濡れた赤子を抱き、医女は輝かしい笑顔で伝える。少し遠くから羊然は命を輝かせる瞳を眩しそうに見つめ、微笑んだ。


「ほら、奥さん、可愛らしい女の子ですよ」


 女と繋がっていたへその緒を切られ、初めて自分で懸命に空気を取り入れるために泣く赤子を見て、女もまた泣いていた。

 医女二人も目が赤くなっている。


 すぐさま抱かせてあげたいがぬるま湯で身体を洗い、清潔な布にくるむ。


「可愛い子………この子の名は蝴蝶フーティエと決めていました」


 愛らしいその姿に、相応しい名だと医女も羊然も頷いた。


「どうか、この子をお願いします、これを」


 女の不穏な言葉に医女二人も羊然も表情を曇らせる。まさか。

 そんなことはお構い無しだというように、痩せた腕はどこからかとても綺麗な造りの、銀の簪を差し出した。


 医女の掌に渡す事も叶わず、簪は女の手からするりと落ちた。


 かん、からん、からん。


 死の音が響いた。




 それは雪の日の恵民署に蝶が現れた話。

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