五、名医と愚鈍


 花精ファジン恵民署ヘミンソにやって来てから数日、花精は奇妙な行動を取り続けていた。

 本来、恵民署の頂点である提調チェジョとは執務室での仕事が殆どで、少なくとも、元提調の魚運ユーユンはそうであった。

 だというのに、花精という人は、位のない医官と変わらない衣に身を包み、自ら庶民の診察や病室の見回りを行った。

 どの医官も、初日は花精様にさせるような仕事ではない、と止めていたものだが、花精はその制止を聞かずに、現場に立ち続けた。

 次第に彼を止める者は居なくなり、今ではすっかり、心の広い提調として医官、医女、医学生らから羨望の眼差しを浴びている。

 病人達はというと、やたらめたらに美しい医官に診て貰えるようになったと喜んでおり、それ目当てで訪れる者が現れる始末。誰も、彼が朱色の官服に身を包むような御人だとは、思ってもいないようだ。

 恵民署の者はみな、心から、彼をとても良き提調として迎え入れた。



 この男を除いては。


「まったく、花精様も困ったものだ、上の人間が下の人間と変わらぬ事をしては、示しがつかないではないか」


 ぶつくさと文句を言いながら、生薬のより分けを行っているのは、提調の座を奪われた魚運であった。

 彼の愚痴を聞いているのか、聞いていないのか。返事も返さずに、黙々と生薬のより分けを行うのは、秤娘チォンニャンという医女だ。

 魚運が提調であった頃、執務室で恵民署の責任者として判を押す仕事をしていた…というのは、建前ばかりで、全て部下に任せて、まともな実務的仕事をした事はなかった。それを知るのは恵民署で位を持つ一部の者だけであったが、いざ提調でなくなってしまえば、出来る仕事が何ひとつ無かったという現実が、恵民署の者達全てにこっそりと教えた。

 上の位である花精は直接病人を診て、書類仕事は今まで通り部下達だけで問題なく回って。

 居場所も無くなった魚運は、こうして医学生や医女がするような雑用をする他無かった。


「それにあの男は何なのだ…花精様にぴったりとついて離れない园丁ヤンディンとかいう者は」


 花精の位がとても高い人物だ、ということを暗に示しているのが、花精にくっついて離れない园丁と名乗る男。体格はしっかりしており、寡黙で厳しい目付きをしたその男は、花精の御身を守る人物であろうと察せるが、妙に不信感を煽る。


「魚運様は园丁様をご存知無いのですか」


 薬庫で医女相手に愚痴る魚運に声をかけたのは、生薬がいっぱいに入った籠を抱えた羊然ヤオレンだった。


「あの御方は、鍼治療において右に出る者がいない、と言わしめるほどの名医ですよ」


 羊然はそう言って笑いながら籠を、より分けている大きな机の端に置く。

 大柄な男が小さな鍼を使って、繊細な治療をするなんて、ましてやそんな名医が花精の後ろについているだけで何もしないとは、にわかに信じがたい。


「秤娘は名医だと知っていたのか?」


 羊然は鍼治療に明るい医官であるため、その道に詳しい者の常識で話している、と考えた魚運は秤娘に確認をする。


「はい、知っています。王宮で勤めた際、园丁様をお見かけしました。」


 秤娘は以前、王宮に派遣されたことのある医女で、そこでは数ヶ月勤めた。その際に見かけたという事は、つまり羊然の話通り相当な名医だということが伺える。


「王宮で勤めていたような名医が、なぜこんな恵民署でただ花精様について歩いている?」


 魚運が知らぬのなら誰も知るはずがない、という無言だけが返事をする。

 名医だと聞けば誰もが抱く疑問に、誰もが答えられない。羊然と秤娘の勘違いではないのかと思いながら、魚運はより分けていた生薬に目を落とした。


「黄芩に蓖麻子と三七根、こっちに附子トリカブトを分けて置いておくからね」


 魚運は生薬の量を横目で見て、小さくため息を吐いた。


「わかりました」


 秤娘はそう返すと、またより分けの作業を黙々と続ける。魚運は眉を八の字に下げながら、微笑んだ羊然が薬庫から出ていくのを目で見送ったあと、愛想の悪い秤娘を見て、またため息をついて、指を動かし始めた。




(本当に変わった御人だな)


 病人に昼餉を提供した蝴蝶フーティエは、遅めの昼餉を食べ外を伺っていた。

 恵民署は大抵の場合、門を叩いてすぐに診察所となる。つまり、広い庭内には茣蓙が広げてあり、病人を座らせ、そこを医官や医女がまわって診察する。

 診察室は存在するが、都に住む両班ヤンバンやお役人様のためのようなもので、そういった方々は、庶民と同じように、庶民のための医療機関である、恵民署で治療を受けることは嫌うため、お抱え医官に治療してもらうことが多く、滅多に使われる事は無い。

 病人を密集させるのは、些か衛生的に良くないが、こうでもしなければ、毎日多くの庶民が訪れる恵民署は回らないので致し方ない。

 そのため、今蝴蝶が眺めている外とは、診療所であり、もちろんその目線の先には端麗な花精の姿がある。


 白い医官の服に身を包み、例のごとく园丁を後ろにつれて、茣蓙の上で待つ庶民をひとりひとり周り、丁寧な診察をしていた。時折、园丁や医女に何かを話すと、軟膏や生薬を持ってこさせていた。


「蝴蝶も、花精様が、き、気になるのか?」


 昼餉を食べながら、外の花精をぼんやり見ていた蝴蝶に話しかけたのは、医学生の元牛ユェンニウだ。

 元牛は代々武官を輩出している名の高い家柄であるが、元牛だけはでこうして恵民署で医学生をしている。

 そのため背は高く、骨太で筋肉質であり、力仕事をよく任される。今もこうして何かが入った重そうな木箱を運んでいる途中で、通りかかったようだ。


「うん、まぁ、そうね」


 蝴蝶はずっと、花精の漂う雰囲気の既視感の正体が、気がかりで仕方がなかった。かの御仁が現れてから数日、蝴蝶は何度か接触を試みたが、その正体に辿り着くことはできなかった。

 むしろ、蝴蝶の中で花精への嫌悪感、拒否反応のようなものだけが、大きくなっていた。

 その返事に、元牛は持っていた木箱を驚きのあまり落としてしまう。木箱が落ちた大きな音に蝴蝶は肩を跳ねさせて驚き、そちらを見れば、神妙な顔つきをした元牛が机に身を乗り出して、こちらを見ている。


「気になるって、やっぱり、そ、その、それは、男…というか、」


 元牛は鼻息を荒くして、蝴蝶に詰め寄るように言うが、なんとも歯切れの悪い言葉で、結局何が言いたいのか伝わらない。


「元牛!」


 蝴蝶が元牛の言動に首を傾げていると、元牛の名前を呼ぶ女の声が響いた。

 二人がそちらを見れば、青筋を立てている秤娘の姿がそこにはあった。元牛は「あ」という声を漏らすと同時に、顔をさっと青くする。


「何の音かと思えば、大事な生薬を入れた木箱を落とすなんて!」


 元牛は慌てて謝罪をするが、秤娘の視界に蝴蝶が入るなり、何故落としたのか理解してため息をつく。秤娘の表情から怒りは消えるが次にいつもの冷めた、どこか見下したようなものに変わる。元牛からすればどっちもおっかないことに変わりはないが。


「運ぶだけも出来ないなんてね」


 秤娘は鋭利な言葉の刃を刺した。刺された元牛はというと、胸を厚い手のひらで抑えて顔を下げる。

 元牛のとは、何のことない、ただひたすらに愚鈍なだけである。

 剣を握れば鈍さのあまり試合にもならず、筆を取れば知恵熱で倒れてしまう。そんな元牛は家柄のおかげ(とあとお金)でなんとか、医学生として恵民署に入ってきたのだが、医学生になったからといって愚鈍さが解決されるわけではなく、むしろ大いに発揮されていた。

 力仕事をよく任されるとは言ったが、力仕事ぐらいしか任されていないのが現状である。

 そんな元牛の愚鈍さは、恵民署の誰もが知る事情なので、秤娘はそう言ってしまった。本人もそれを多少は気にしているようで、やはり直接言われると傷つくようだ。


「蝴蝶に構ってないで、さっさと薬庫まで運んで」


 鋭い刃を受けて立ったままの元牛の尻を叩く。元牛はわたわたとしながら、木箱をなんとか持って、蝴蝶にまたねと挨拶しようとすれば、秤娘からすかさず「速く!」という言葉がかかる。

 先々と歩く秤娘の後になんとかついて歩く元牛に、蝴蝶は指先をぴらぴらとさせて、目で見送る。蝴蝶の見送りに気がついた元牛はへらりと笑って、出ていった。


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