四、夜
「よく噛んで下さいね」「今日から固形の膳ですもんね」「ゆっくり食べて下さい」「顔色良くなりましたね」
どれほど食べているか、そもそも食べれているかを見るまでが、蝴蝶の仕事であった。それを記録し、医官に資料として提出しなければならない。蝴蝶は器用にも、天上の微笑みをたたえ病人に話しかけながら、その記録を行っていた。
他の医女も彼女に習ってか、対話を交えながらさらさらと筆を滑らせる。
(みんな、この私に話しかけて貰えて本当に幸せそうね)
蝴蝶に話しかけられた病人はみな、顔を綻ばせ病であることを一時忘れる。
が。
(な〜んでまだ見てるのかしらね)
病人の数人は蝴蝶ではなく、蝴蝶らの仕事を監視するように、病室の入口に立つ
顔を半分程隠しても目立つ美人に、落ち着かないのは病人だけでなく、他の医女も蝴蝶もそうである。医女は下手なことは出来ない、という気持ち半分、美しい御人が居るという浮ついた気持ち半分。
監視されているような気持ち悪さ、自分以外に注目を浴びる人物が居る腹立たしさに、蝴蝶はひたすらやりにくさを感じていた。
執務室に篭もってはいるが、変に干渉をしない
「初日でお忙しいでしょうに、私達の仕事まで直接見て下さるなんて、花精様は風変わりな
花精が割烹着から医官の服へ着替えるのを手伝いながら、蝴蝶はそう言ってしまった。
これを訳するとすれば「暇なのか?暇だからって監視するなやりにくい、提調は提調らしく執務室にでも篭ってろ」となるだろう。
これほどに、暗に棘を忍ばせた発言をしたのは、蝴蝶の短い人生で初めてだろう。なぜなら、誰からも愛されるように心で思っていても、言葉には絶対にしなかったからだ。
それと、言いたくなってしまう人物と相対しても結局は、自分がこの世で一番愛されており、その他は自分以下なのだから、劣っていて当たり前、それをいちいち貶めていてはキリがない、という結論に至る。
裏を返せば、花精が自分よりも注目を浴びている事実に、嫉妬をしていた。
「ふっ、変わっているとはよく言われるんですよ」
一瞬、鼻で笑うようにして笑うと、すぐに柔らかい微笑みに変わった。
なんだろう。蝴蝶はこの花精の当たり障りのない言葉、態度に見覚えがあった。
明らかに不快なその既視感に、胸の内を曇らせながら着替え終わった花精を、執務室まで見送った。
「蝴蝶、花精様と何を話していたの?」
本日、当直の医女二人と同じ夕飯を囲むと、開口一番に尋ねられた。一人は蝴蝶より一つ年が下で、この手の話題が大好物の医女であり、もう一人は
この二人は台所では働いていないはずなのに、何処から聞きつけたのだろうか。
「いえ、仕事のお話をしていただけよ」
病人に出した食事のあまりである
本当に仕事の話しかしていない。
「花精様に出ていけって啖呵切ったらしいわね」
二人の話題には入らないものとばかり思っていた秤娘がそう、口の端を上げながら言った。
そんな柄の悪い言い方をせずとも、と思っても事実なので否定出来ずに居ると医女は大袈裟に声を上げて驚く。
「本当!?許してくださる花精様もすごいけれど、蝴蝶もすごいわね…でも、どうして?」
蝴蝶自身も許された事実に驚いているが、医女の最後の褒め言葉に、胸の内で鼻を鳴らし胸をはる。
「あの御方ってば、割烹着も着ずに入ってくるんだもの」
蝴蝶の言い分に医女もあぁ、と声を漏らす。給仕として高い誇りをもつ彼女の普段の様子からして、納得してしまったのだろう。
「本当、そういう所は凄いわよね」
秤娘の含みのある物言いに、蝴蝶はひっかかってしまったが、気にしていないふりをする。
「ありがとう」
蝴蝶の口元が弧を描くと、秤娘はすぐに目を反らした。
「蝴蝶や、今日も美味しかったよ」
当直の医官、医学生、医女の夕餉を下げ、片付けを終えて台所から出ると、蝴蝶にそう声をかける初老の男の姿があった。
真上に結い上げられた髪には、ちらほらと、白髪が目立ち、眉や髭にもそれは現れていた。
蝴蝶はその男の姿を見るなり、ぱっと顔を明るくさせ、丸い肩に手を添えた。
「お父さん!本当?よかった!」
蝴蝶がお父さんと呼ぶ医官は
父として、医官としても慕っている羊然に、褒められ喜ぶ蝴蝶は心からの笑顔をこぼす。
「花精様に失礼な事を言ったんだってね?」
当直の者のための部屋、当直室に向かいながら羊然は尋ねた。
「魚運様から聞いたよ」
羊然は眉を八の字に下げながら、医官服の襟を正す。
「…私は間違った事を言ったつもりは無いです」
同じことを魚運に言われれば、怯むことなく正論をぶつけていただろうが、相手が養父であるため蝴蝶は顔を下げて、床の木目を見て歩く。
だからこそ魚運は羊然を介したのだろう。
「うん、そうだね、けれど正しさは時に凶器にもなってしまう」
あの場で蝴蝶は、不衛生こそが病人への凶器、と見定めた。それが正しさではないのかと思うが、羊然はさらに言葉を続ける。
「蝴蝶自身を苦しめてしまう凶器になるんだよ」
長いものには巻かれておけ、それが羊然の生き方であった。権力には逆らわない事が、生きる方法であり、それを蝴蝶に諭していた。
「私にとって苦しい事とは、防げた過ちで病人を死なせてしまうことです」
あの場で不衛生な状況を許して、もしその環境下で作られた食事によって、容態が悪くなった病人が居たら、どうなっていただろうか。
一体誰が責任を取るのか。
否、亡くなった命の責任なんて取りようがない。
「この世界のね、命は平等では無いんだよ」
ぽつりと、呟くように羊然は言った。
残酷な、周知の事実。
「お父さんは今にも死にそうな奴婢と、かすり傷の
反論するように、蝴蝶は言った。
「そうだね」
それは、この世界の理にかなった返事である。身分制度がある以上、平等な治療などない。
病は身分など選ばないというのに。
羊然の言わんとしていることも十分に理解している蝴蝶ではあるが、どうしても、それを認める事が出来なかった。
ーーー
「いやぁ、面白い」
日はとっぷりと沈み、蝋燭だけが照らす室内、桜色の唇の端を満足そうにあげる男が居た。
その男とは恵民署に突如現れた、花精。
昼間丁寧に結った髪を雑に下ろし、艶やかな織物のように綺麗な黒髪は揺れる。
長く骨ばった白い指は、紅い茶が淹れられた碗が握られている。
深い、深い碧の瞳は目の前に、立つ屈強な男をうつしていた。
「私が今迄勉強してきた医術とは全く違う、私でさえも感心させられたものもあったぞ」
まるで子供が新しい事を知った時のように、目を輝かせて語る。
「それと、あの…名は何だったか…上辺女。」
目の前に立つ屈強な男が「蝴蝶です」と答えると、花精はけらけらと笑いながら「それだそれだ」と言う。
「あの上辺女、愛想のように知識も上辺だけかと思えば食事療法の心得は大したものだった」
恐らく、花精は台所にて行った蝴蝶とのやり取りを瞼の裏に描いているのだろう、長いまつ毛が伏せられる。
顔立ちの美しさと、綺麗な髪から、女性的ではあるが、こうして肩の幅や腰の太さが、男性であると示している。
「恐らくあの上辺女も、私の正体に勘づいているだろうな」
本当に楽しそうに、花精の目は細められる。
「と、言いますと?」
屈強な男は、上機嫌な花精をちらりと見て、半ば呆れたように尋ねる。
「私達のような人間はな、匂いで同族だと気づくんだ」
匂いとは例えではあるだろうが、花精の指は綺麗な鼻筋の頭をとんとんと叩く。
「はあ…」
屈強な男はため息混じりに、返事をした。
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