三、蝶の縄張り


「ここから少しでも早く出ていって下さい」



 不遜なその言葉に花精ファジンと、蝴蝶フーティエの間を魚運ユーユンが割って入る。


「な、何を言う!蝴蝶!失礼だろうが!」


 魚運はこの恵民署ヘミンソ提調チェジョであったため、基本的に執務室に篭もりきり、台所なんてもちろん、病床が並ぶ部屋や、診察室といった現場に立った事など無かった。魚運は魚運で書類仕事に追われていたため仕方が無いのだが。

 しかしその無知さが、蝴蝶の逆鱗に触れた。


「ここは身体を弱くした病人が、口にする食事を作る場所です。私たちはここへ入る時は必ず、清潔な割烹着に着替え、手指を洗浄し不潔な髪や唾液、装飾品が食事に混入しないよう、細心の注意をはらっています。ですので、そういった衛生管理が出来ない方には、如何なる身分であろうとご退出して頂きたく思います。」


 蝴蝶の天女のような、優しい姿しか知らなかったであろう魚運は、その厳しさに口をぱくぱくとさせている。


 蝴蝶は非常に自尊心プライドが高い。それは己を磨くだけでなく、仕事においてもそうであった。

 先程蝴蝶が口にしたように、食事は患者の命を握っている。病によって抵抗力が弱まっている病人が、食事を媒介としさらに新しい病を呼び寄せてしまったら、どうなるだろうか。

 それは如何なる者が相手であろうと、譲れない蝴蝶の矜恃であった。




「これで良いですか?」


 結い上げた髪をすっぽり頭巾にしまい、そう微笑む花精の姿。あの場で相応しくない者は出ていくようにぴしゃりと言うと、花精は怒るどころか、嬉しそうに「では割烹着を貸して下さい」と言った。

 つまるところ、今、この台所での責任者である蝴蝶の監視のもとで、花精は台所に入るための準備を行っている。


(まさかこうなるとはね)


 蝴蝶は「お上手ですよぉ」と愛らしい声で答えながら、そう考える。相当の位が高いお方に、容赦なく言った蝴蝶は鞭打ちぐらい覚悟をしていたものだが、花精は憤慨する魚運を止め、蝴蝶の言葉に従い清潔にすることで、きちんと台所に入ると言った。

 どうせ興味を示しているのは今日だけで、明日になれば魚運のように執務室に籠るだろうに、と偉い人のお遊びに付き合う。


「お手を」


 花精にそう言うと、手の甲を出す。少しだけ触れ、傷の有無と爪の長さを確認する。

 清潔な割烹着に着替え、髪一本も出すことを許さず頭巾にしまい込み、口に布をあてた花精は、顔の半分が隠れているというのに、美しさは隠れることがなかった。装飾品を付けているようであれば預かろうと、花精のまわりをぐるりと見るが、本当に位が高いのか疑いたくなるほどに、何も付けていなかった。


「では手指の洗浄ですね」


 手洗い場に連れてゆき、手の洗い方をしっかりと指導しようとすると、花精は慣れた手つきで指の間と、手首を入念に洗うだけでなく、傷がつかない程度に肉に爪をたて、手洗い場を少し見渡すと手洗い用の束子を掴み爪の間をさらに洗浄した。

 しっかりと手を洗うような心がけはできても、束子で爪の中まで洗う人間は、そうそう居ない。

 教えずとも分かっていたようにそつなくこなす花精を、少し不思議に思いつつも感心した。


「花精様は手を洗う事に慣れてらっしゃるんですね」


 手ぬぐいで手を拭いたあと、度の強い酒を数滴花精の手のひらに垂らしながら、蝴蝶はそう言った。


「えぇ、治療の際はいつもこうしていますので」


 清潔を心がけることは、医療の現場において基本だが、このような位の高い人でも直接診察治療することもあるのか、と感心する。


「では最後に質問をしても宜しいでしょうか」


 いつもなら医女達を並べてすることだが、相手が位の高い相手だと、いちいち断りを入れたり、割烹着や、頭巾や、履物を渡す際も気をつけなければいけないため、どうもやりにくいな、と思いながらも蝴蝶は顔に出さず尋ねる。

 花精は快諾する。


「花精様は発熱はありませんか?」

「至っていつも通りの体温ですね」

「下痢はなさっていませんか?」

「えぇ、…そうですね」

「悪心はありませんか?」

「ありません、大丈夫です」


 蝴蝶の質問に丁寧に答える。この質問はとても重要であり、調理する者が病に侵されていて、その病の気が食事にうつってしまっては、元も子もない。それを予防するために、行われるのだ。


「ありがとうございます、ではこちらに」


 こうしてやっと、花精は台所に立ち入る事を許された。



「今日の献立は何ですか?」



 時刻にして申の刻だろうか、病人のための夕食を、もうすぐ提供しなければいけない。入院する程の病人は珍しいため、それ程提供数は多くないがざっと、二十食は作らなければいけない。それぞれの病にあった食事かどうか、提供数に間違いは無いか、確認をしている蝴蝶に花精は尋ねる。

 本当ならば目で見たら分かるだろうが、と言ってやりたいところだが、誰からも愛されるための努力に抜かりない蝴蝶は、そんな事を口にするはずも無く。


「今日の常食の献立は粥、若芽肉汁わかめスープ、野菜チヂミ、山菜の胡麻和え、白菜沈菜キムチです」


 にこやかに答えると、花精は満足そうに眺める。五味五色五法をなるべく意識されている献立だ。


「形態が変わっている膳があるようですね」


 花精が言う膳は、老齢の病人に提供する食事のことを指しているのだろう。


「そちらはご年配の方が召し上がりますので、噛みやすく胡麻和えなど、予め刻んで提供しています、見た目では分かりにくいですが、肉汁も葛を加えていますので、とろりとして誤嚥対策になります」


 また花精は感心したように息を漏らすと、今度は違う膳を指さす。


「あちらは沈菜が無く、肉汁も具が少なく胡麻和えも胡麻が無く別の野菜になっていますね、粥は米粒が少ない」


 この眉目秀麗な男は邪魔をしにきたのだろうか、自分を試しているつもりなのだろうか、それとも単純に莫迦なのか。蝴蝶はこの現場で無ければ、やはり自分の事が好きなのではないかと喜ぶが、仕事の現場においては業務を最優先させるため、喜ぶどころか、鬱陶しく感じてしまう。

 それでも丁寧な対応は欠かさない。否、欠かす事は、立場上許されないのだ。


「あちらの膳は霍乱(急性胃腸炎のこと)の病人のもので、山菜は消化の良い葉野菜を柔らかく似たものに胡麻ではなく醤を和え、肉汁も海藻を除いています。粥は水分を多くして消化促進をはかりました。沈菜といった刺激の強いものは提供できません」


「ではあちらの膳は何故、全て分量が少ないのですか?」


「あちらは重い咳の病を患った病人のもので、本日五度目の食事のためーーーー」


 それから花精の質問は続いた。周りの医女は勉強熱心な新しい提調に、うっとりしているが蝴蝶にとっては、邪魔で致し方ない。


(二度と此処に入れるものか)


 そんな想いを微塵も出さないように心がけながら、蝴蝶は全てに対応した。



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