二十六、解剖
「この方の基本情報を」
大の大人が寝転んでも足が余る台に、血色を失った男が横たわっている。
その男を囲むようにして、十数人の医服に身を包んだ医官達が立つ。
とうに命を散らせた男の横に立ち、そう訪ねるのは
「23歳、男性。体長は4尺2寸」
一人がつらつらと基本情報を並べていると、体長を言ったあたりで花精が手を出して制止する。
「すみません、メートル換算を」
花精のその申し出に「め、めえとる、」と言葉を詰まらせたが、傍に立っていたひとりの医官が「だいたい160センチメートルです」と答える。
「既往歴は?」
花精のその問いに、今まで基本情報を伝えていた男は木の板に貼り付けた紙をぺらぺらとめくり、少し黙ってから言葉を紡いだ。
「特に報告はされていません」
その言葉を聞き、花精は頷き「
「まずは口腔から。ご存知のように歯、舌があり上には硬口蓋、奥に軟口蓋。触って頂けたら分かると思いますが──」
もう亡くなった人体に容赦なく小刀を入れただけでなく、解説までも淡々と行うその様子に、数人の医官は驚愕を隠せなかった。
これは今後の医療の発展のためにとても重要であるとは理解しているが、実際に非道徳的と言っても過言ではないこの状況下で、誰も死体を触って確かめようなどとは思わない。
花精も彼らの目からその思惑を読み取って、仕切り直すようにしてまたメスで身を切り開き解説を続けてゆく。
「この舌根付近にある、これ。上の出っ張りが口蓋垂です。下の方は──喉頭蓋になります。鼻腔からここが咽頭、そして咽頭から気道に入っていくこの間が喉頭で少しの軟骨と声帯が───」
──────────
「お疲れ様です、花精様」
花精の後にも数人の医官がぞろぞろと部屋から出てくるが、皆、顔を青くしている。
「彼らには少々刺激が強かったようです」
花精はけろりとした態度で、げっそりとした態度でとぼとぼと歩いていく医官達の背中を、呆れたように見届ける。
园丁は医官達の気持ちが痛いほど分かる、というようにただただ黙る。
「人体の疾病を学ぶ前に、まずは解剖生理が頭に入っていないとお話になりません。それになんとか慣れてもらわないと、いけないんですが。」
困った困った、といった風にして腕を組んで首を捻ってみせる花精。
それも仕方ない、今日王宮へ訪れたのは花精の故郷、
実際に花精の治療法を目にしたならば、彼らは园丁のように卒倒してしまうかもしれない。
「とにかく体力を消耗したには違いありません。甘いものが食べたいですね…そうだ、
まるで、子供が良いことを思いついた、と口走る時のような笑顔を浮かべながら、花精はぞろぞろと出てきた医官の先頭を歩く一人を捕まえ、薬菓でもこの後一緒に食べながら、これからの医療について語り、お茶でもしないか、と提案した。
が、医官達は口を揃えて「今はとても胃に何かを入れる気分になれない」と返事をしたため、花精はその端正な顔を少し、歪めた。
「それなら仕方ありませんね、おじさんでも誘いましょうか」
言葉を言い切るよりも先に、くるりと踵を返して园丁を後ろに連れながら、歩き出す花精の背中に医官達はひそひそと、あまり良くない類の会話をぶつけながら花精から離れる。
园丁は彼らが花精に対して、妖怪にでもぶつけるかのような感情を持っている事に気づく。
上司はそれに気づいているのか、と顔色を伺うが、いつものように只只、美しい顔がそこにあるのみだった。
「この国の者達は皆、道徳を重んじる、心の綺麗な方ばかりですね」
花精は表情に哀しさを少し乗せた後、すぐに慈しむような優しい表情へと変える。
「花精様も、道は違えど、命を救う姿勢が強いのは確かですし、その、だからといって、花精様の心が綺麗ではないわけでは、」
园丁は昔から、あまり綺麗事や世辞を口にする事が、苦手だった。
それは今でも変わらない。
が、彼が今、口にしている言葉は花精を煽てるための世辞でも、慰めるための綺麗事でも無い。
彼が、花精の事を想い、気づけば口にしていた事だ。
本心だ。本心であるが故に、上手い区切りを見つけないまま発した、下手くそな言葉。
园丁の珍しいその姿に、花精は長い睫毛で囲まれた豪奢な目を、ゆったりと細める。
「──どうやら、今の言葉は良くなかったみたいだ。私は子供のように、どうしようもない事を言ってお前を困らせたようだ。」
まるで、自分の失言を責めるようにして微笑む、花精。园丁はすぐにでも、違う、と切り出して本心を告げようとするが、それを拒むようにして先を歩く花精には、適わなかった。
──────────
「というわけで、ただいま!
橙色の日差しが、刺すように痛くなってきたこの季節。
それですら、この男を飾る装飾の一つとして成り立ってしまう美しさに、名を呼ばれた蝴蝶は、それはもうあからさまに、寄せられた眉間の皺に不機嫌という文字が書かれてるのではないかと思わせるほど、顔を歪ませた。
蝴蝶にそんな顔をされるのは慣れたかのように、男はなんでもない様子で、蝴蝶の
手には夕餉の膳を持って。
「王宮へのお勤め、ご苦労さまです。花精様。」
いつものように、恭しく頭を下げる事は出来ないが、横腹の傷が痛まない程度に、軽く頭を下げる。
「えっと、夕餉を持って来て頂き、ありがとうございます。」
頭を下げ、袖に顔を埋めたまま、
そして花精の何かしらの言葉と、退室をそのままの体勢で待つ。待つ。が、花精からの言葉も、花精が立ち上がる様子もなく、ちら、と頭を上げて覗いて見れば、何も言わずに微笑みをたたえたまま、蝴蝶を見続けている。
「あの、花精様?」
終始笑顔なのも恐ろしいが、何も言わずに佇まれる事も恐ろしい。
蝴蝶は耐えきれずに、彼の名前をもう一度呼ぶ。
「──はっ、私としたことが、王宮での務めに疲れ、少し居眠りをしていたようだ、悪い悪い」
水面から顔を上げたかのように、はっと息を吸う花精の姿を見れば、嘘でない事は分かる。
が、うたた寝でさえも、そのような繕った笑みを絶やさないとは、最早彼なりの高い意識の賜物だと思える。
「そうそう、今夜の夕餉の前に、傷口を見せなさい、包帯と
先程の意識を失ったままの微笑みとはうってかわり、医官の顔に切り替わる。
しかし、蝴蝶は躊躇から己の腕を抱いた。
「花精様、お言葉ですが、私も嫁入り前の娘ですので、あまり、殿方に肌を晒すのは」
彼は一切の下心も無く、彼ほどの医官がそういった邪念を抱かない事を、蝴蝶は知っている。
知っているが、しかし、それとこれとは別の問題というように、蝴蝶は拒絶を示す。
「ンム、そうだな、それは、あまりよくない。包帯と綿紗の交換は他の医女に任せても、縫合部の経過観察は私しか出来ない」
花精の瞳には、診察台に寝転がれば、それはもう男女、老若男女、身分など全て等しく、病人としてしか映らなくなる。
否、状況によっては性別年齢を考慮する必要もあるが、それはあくまで情報に過ぎない。
それ故に、花精はよく、たいていの女性が肌を晒す事に恥じる事を、失念する時が多々あった。
今まで診察したなかには、貴方が私を嫁にしてくださるなら、どうぞ好きに診て下さい、と言う婦人までいた。
花精は何度かやってきた自分の失念を思い出し、またやってしまったな、と心の中で独りごちた。
「すまない、では他の医女に交代しよう。縫合部については、まあ、私の方で考えておく」
花精は立ち上がり、蝴蝶の病室を後にしようと、踵を返す。
しかし、足を前に出し進もうとすると、後ろ髪引かれる、否、袖を引かれた。
「いえ、私が、つまらない事を申しました。花精様の医療行為を疑うなどと──」
恥じらうような、観念したような、秘密がばれることを恐れるような、そんな複雑な顔を表情に混ぜながら、蝴蝶は花精を引き止めていた。
「蝴蝶、これは命に関わる事でも無い。そんなに無理をせずとも」
「いえ、大丈夫です。」
花精の蝴蝶を気遣う言葉を、蝴蝶が遮る。
そして、大きな黒曜石のような瞳はじっと花精を見つめた。
「嫁入り前だから、というのは、まあ、事実ではありますが、言い訳としては私の本心ではありません」
花精は首を傾げ、蝴蝶の言葉の先を待つ。
「私が肌をあまり見せたく無い訳は、別にありまして。この際ですから、花精様に診て頂きたく思います」
蝴蝶はまたも、恭しく頭を垂れ、袖に顔を埋めたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます