十六、怪しい炎⑤
日はとっくに沈み、夕餉の時間。
本来ならば、蝴蝶は
「夕餉になります」
すっと頭を軽く下げて、男の横たわる病床のとなりの、小さな木の机に夕餉を置く。
男は変わった様子もなく、上体を起こす。
「今日の昼、頼まれた通りにご自宅へ伺ったのですが」
さっそく本題に入ろうと、蝴蝶が言葉を紡ぎ始めた刹那、男は馬鈴薯の入った
肌をちりちりと焼くような飛び散る飛沫と、すぐに響く、器が地面に叩きつけられ割れる音に、蝴蝶は呆然とする。
「こんなもの食えるか!!!!!」
部屋が破れそうな程の怒声をあげたのは、その男。顔を赤くさせ、ぎろりと睨むその姿は、鬼の形相と形容するに相応しい。
これまで生きていただけで愛でられてきた蝴蝶は、このような仕打ちを受けた事など滅多に無いので、理解が追いつこうともしない。
謝罪の言葉も、疑問の言葉も出せずに
「こんな異国の食べ物、しかも、これは、毒だろう!?こんなものを食わせてどうする気だ!!」
上がった息と共に紡がれる、怒気に満ちた言葉は聞き取ることが難しい。
毒?
蝴蝶はそんなものを献立に入れた覚えなどないし、自分が入れるはずもないと、頭の中が真っ白になる。
唯一、普段と違う食材を入れたとして思い当たるのは。
「何事ですか!」
そう声をあげて入ってきたのは、雲嵐の食事介助を変わってもらった、今夜当直当番の
「何か不手際がございましたら謝罪いたします、どうかまずは落ち着いてください」
男の腕を掴み、これ以上の乱暴が出来ないように制止をする。秤娘は言葉では下手に出ているが、その眼は敵意に満ちてしまっている。
「人の飯に毒を盛っておいて、それでも医女か!」
秤娘の仲裁も虚しく、掴まれた手は勢いよく引き抜かれ、その勢いのまま空へ大きく振りかぶる。
「──ッ!」
秤娘は蝴蝶を庇うようにして、体に力を入れて構える。──が、想像していた鈍痛が彼女らを襲うことはなく、男の拳はやっと体が動いた元牛が、すんでのところで受け止めた。
「これっ、これ、これで死んだんだ!!死んでない!死んだんだぞ!?嘘だ、俺の妻と子供が」
何かの糸が切れたかのように、暴れ出す男。体格のいい元牛でも庇いきれそうにないため、完全に放心状態となってしまった蝴蝶を、秤娘は遠くへ離す。
騒ぎを聞きつけて花精、
元牛と花精が押さえつけ、园丁が麻酔の鍼を刺すまで、暴走は止まらなかった。
──────────
「あなたが落ち込むことはないわ」
あれから蝴蝶は当直室に連れてゆかれ、秤娘が面倒を見ていた。何事にも無関心そうな秤娘は、珍しく長椅子で蝴蝶の隣へ座り、腕を揉んでいる。
「他の病人は同じ物を食べて何ともなかったようだし」
秤娘の言う通り、毒が入っていると言われた献立は、他の病人も口にして暫く経っているが、何の異変も報告されていない。
「───わ」
俯いたまま、蝴蝶はぼそりと呟く。傍にいる秤娘でさえも、近くまで寄って耳を傾ける。
「悔しいわ」
その声は少し震えている。
「安心して食べられる安全な献立、必要最低限の事も出来ていなかったのよ、私は」
声の震えの正体は、自身への怒り。
「そんなの絶対に許せない。何が毒だったのかハッキリさせてやる」
先程までの呆然としていた姿はどこへやら、力強い瞳は、燃えているかと思うほどの情熱が宿っている。
「それにね、私が食事において知らない事がまだあったなんて!無知はなによりの恥よ、許せないわ」
蝴蝶は秤娘の方へ向いて話すが、それはきっと自分自身に言い聞かせている意味合いのほうが強い。
ようやくいつもの調子になった蝴蝶を見て、秤娘は安堵の笑みをこぼす。
「それもそうだけど。あなた、ああいう時の対処法も学びなさい」
強く意気込んでいる蝴蝶に、秤娘はいつものように少し冷たい態度で、しかしどこか暖かい雰囲気を纏って話す。
ああいう時、つまりそれは病人が何かのきっかけで逆上、暴れた時のこと。
「私と元牛がすぐに駆けつけてなかったら、今頃どうなってたか」
じとりと見る秤娘の視線に、蝴蝶はなるほどと納得すると、にこりと可愛らしい笑みを浮かべて、
「そうね!ありがとう、秤娘!」
と、礼を言った。
秤娘はそうじゃない、と言いたげに頭を抱えるが、世界中の人類に愛されていると思っている蝴蝶は、あのような事が二度と起きるわけがない、と信じきってしまっている。
「はぁ。感謝されついでにもう一つ言っておくけど」
秤娘の目がじっと蝴蝶をとらえる。少し空気が変わった事に気づいた蝴蝶は「なに?」と言うものの捕えられた視線を外す事が出来ない。
「あの場で一番にあなたを助けたのはこの私。使えない木偶の坊の元牛でも、顔だけ
何故か念を押すように強く言われ、蝴蝶は首を傾げながらも、全て事実なのでなにも否定しない。
「私を呼びましたか?」
二人の背後から、妖精の羽音のように美しく、妖しい声がする。
ばっ、と後ろを振り返れば予想通りすぎる男、花精がいつもの柔らかな、蝴蝶に悪寒を与える笑みを浮かべ、园丁を後ろに連れて立っていた。
「呼んではいませんが、お伺いしたい事はあります」
蝴蝶も負けじと天から与えられた武器である微笑みを浮かべ、そう返す。秤娘は舌打ちでもしてしまいそうな程に、あからさまな嫌悪を示して立ち上がる。
「では私はこれで」
花精と园丁のあいだをするりと抜け、秤娘は当直室から出ていってしまった。
「──てっきり、恐怖で泣いているかと」
嫌な悪寒を与える雰囲気は消え、いつもの素の状態で花精は蝴蝶の隣へと座る。园丁は後ろで立って静かに控えている。
言葉には少し棘が含まれているように感じるが、花精なりに蝴蝶を心配している事は分かる。
「この恵民署では泣いたからといって、助かる生命が増えるわけではありませんので」
つん、とした態度で答えると、花精にはそれが強がりだと受け取られたようで、眉を下げて顔を覗き込まれてしまう。
「なんだ、泣くこと全てが悪い事ではないぞ?それが糧になる事も多いしな。あのような恐ろしい事があったのだから、年頃の女のように泣いても誰も文句は」
懸命にぺらぺらと言葉を並べる花精に(こいつは私に泣いて欲しかったのか)なんて思いながら、このまま相手の調子に乗せられると進まないと、話を切る。
「わかりました。それよりも聞きたい事があるのですが」
花精は納得のいっていない様子ではあったが、聞きたい事があるという言葉に「なんだ?言ってみろ」と答える。
花精の許しを得たので、どこから尋ねようかと頭の中を一度整理する。そして、言葉を舌の上に乗せる前に大きく深呼吸をした。
「花精様はこの国の方ではございませんよね?」
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