三十六、殺すための命


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 いよいよ、間王国にも本格的な夏が訪れようとしている。

 花を散らして禿げた木々も、青々とした肉厚な葉をつけて、光をいっぱいに浴びる。


 記憶喪失だった女が、この恵民署から居なくなってから、六日が経過した。

 少しの寂しさを紛らわせるように、黒髪を朱い髪結い布で一つにまとめた、この世に二人と居ない愛らしい美少女、蝴蝶は腕や背中を伸ばす運動をする。


「うん、問題ないわね。」


 先日、花精に抜糸というものを行われた。

 傷口は綺麗に塞がり、ある程度の運動の負荷にも、耐えられるようになった。

 花精は、何度も蝴蝶に、新しく増えた傷の事を謝罪した。

 それに反して蝴蝶は、その傷を、誇らしくさえ思うようになった。決して不名誉な傷ではない。誰かを守ろうとした傷だと。

 そんな考えに至れるようになったのは、他でもない、花精のおかげだったりするのだが、蝴蝶はわざと言わないでおいた。

 地位も権力も申し分無い美丈夫に、貸しを作っておくことにした。


「蝴蝶、ちょっといいか」


 筋肉を伸ばす軽い運動ストレッチをしていた蝴蝶を、後ろから呼びつけたのは、彼女の養父である、羊然ヤオレン

 羊然は蝴蝶の傷の心配と、治りの確認をすることが、毎朝の日課となりかけていたため、蝴蝶は今日もそうだろうと思って、声のした方へ振り返る。


「お養父とう様、傷はもうすっかり大丈夫よ?」


 仕事に戻るのは本日からだが、体を動かせるようになっていたのは別段、今日からというわけでもない。

 とっくに元気になった体を心配する必要は無い、と呆れ半分、嬉しさ半分にそう言う。


「そうか。うん、それは良い事だ。まあ、今日の朝は、別件でな。花精様が、執務室にてお前を呼んでるよ。」


 いつもなら、何でもない用事でさえも、後ろに园丁を従え、本人がわざわざ伝えにくるというのに。

 蝴蝶は少し不思議に思いながら、羊然に返事をしてすぐ執務室へ向かった。


「医女の蝴蝶です。」


 執務室の扉の前で、声をかけると「どうぞ」と声が返ってくる。

 この、まるで、天女が戯れに出す愛らしい声のように美しい声と、慈愛を全面に出したかのような言葉遣い。

 声の主は、园丁や蝴蝶だけの執務室ならば、その全てをはらったような、意地悪な声色と態度であるのに、わざわざ表向きに取り繕って居るということは、執務室の中に他の誰かが居る事を察せる。

 蝴蝶は、誰だろうかと頭の中で推理をしながらも、礼節を欠かさず、袖に顔を埋めて執務室に入る。


「顔を上げなさい。傷の調子はどうですか?」


 声色、言葉遣い、笑み、手の仕草、吐息、もしかすると、鼓動でさえも。

 その全てが完璧なまでに美しく、また、計算され尽くしたものだった。

 蝴蝶は顔を上げて、本題に入るための世間話に答えるため、口を開く。


「おかげさまで、快調にてございます。」


 顔を上げた時に、簡素な執務室にぽつんと置かれた机の前に座る花精、その後ろに控える园丁までは分かったが、花精と机を挟み向かって立つ、両班ヤンバンのような出で立ちの男が誰なのか、皆目見当もつかなかった。


「そうか。それは、よかった。今日、ここに来てもらったのは、この方が伝えたい事があるみたいで。」


 愛らしすぎる、という点を覗いては、ただの医女と変わらない自分へ、特別な用事とは何だろうか、と蝴蝶は考える。

 また求婚でもされるのだろうか、と蝴蝶は今までの数多い、幾人ものから受けた求婚と、上手な断り方を思い出していると、男は蝴蝶の前に立つ。


「私だ。義禁府の、張瑛だ。」


 遠くからでも見てわかる朱の官服ではなく、上質な絹の、落ち着いた紫の私服。帽子には、あの派手な羽飾りも付いていない。しかし、少し人を見下したような態度と、その顔は確かに見覚えがあった。


「話は別に、そこの提調だけでも構わなかったんだがな。あの女官は、お前の方がよく診ていたらしいじゃないか。」


 あの女官、とは記憶喪失だった春柳の事だろう。

 義禁府という物騒な部署に連れて行かれてから、どういう処遇になったのか気にはなっていた。





「益と、女官は死んだ。」





「────は、」



 勿体ぶることも、躊躇う事もなく告げられた情報、言葉に、蝴蝶は声を漏らす。

 花精も、大きな瞳をさらに大きく開いて、動揺を顕にする。

 园丁だけは、瞑目し、悲痛な表情を噛み殺していた。


「拷問にかけられ、死んでしまった。」


 花精と蝴蝶の動揺を置いてけぼりに、残酷な事の顛末を淡々と伝える張瑛。


「何故、そのような事をっ」


 はじめに、声を荒らげたのは、蝴蝶。

 張瑛もまた、そうなるであろうことを予測していたかのように、冷静に彼女の怒りを受け入れる。


「あの二人は、陛下への忠を忘れ、宮殿から抜け出した、立派な反逆者だからだ。」


 義禁府とは、その部署を宮廷内に構える、この国の王に最も近しい秩序維持機関。

 都の東西南北に部署を構え、民間人の秩序を守る捕盗庁とはまた、扱う罪人が異なる。

 王に最も近いからこそ、王の意思に反する反逆者を主に扱い、時には反逆者を拷問にかけることも、そのまま罰することもある。


「今、宮廷では少々不穏な空気が漂っている。成長なされた世子セジャ様に政権の交代を企む一部の者達が、影で暗躍している。」


 通常時ならば、ただ宮廷から逃げ出した女官と、連れ出した男を拷問にまでかけるなど、やりすぎた行為だと批判を浴びる。

 しかし、宮廷内の複雑な事情が、そうはさせず、余計に警戒心を煽ることとなってしまった。


機会タイミングが悪かったとしか言いようがない。」


 張瑛の瞳の奥には、こうなった結果への疑問と、怒りが確かに見え隠れしている。しかし、それを全て押し殺して、諦めたように言い捨てた姿に、誰もそれ以上言葉を発する事が出来なかった。


「それなら、あなた達は、あなた達が殺すために、あの男を治療させたのですか!?」


 この女を除いては。


「花精様は!命を賭して、殺すための命を救ったのですか!?」


「蝴蝶、やめなさい」


 花精が、努めて冷静に、声をかける。

 今こうして、目の前の武官を糾弾したところで、手から取りこぼした命は二度と戻らないことなど、利口な医女は理解している。

 理解しているが、叫ばずにはいられなかった。


「いいえ、花精様、こんなのおかしいです!だって、これじゃあ、あまりにも、誰も救われないっ!」


「蝴蝶ッ!!」


 怒りのままに、感情のままに言葉をぶつける彼女の名を、花精は声を荒らげて呼ぶ。

 緊急時に声を張る事こそあれ、それでも、これ程に怒気の篭った声を聞いた事が無かった蝴蝶は、肩を跳ねさせて声を止めた。

 そして、花精の方へ、大きな瞳から今にも大粒の宝石がこぼれそうに潤んだ視線を投げた。


「やめなさい。とても、見ていられない。」


 しかし、花精からの返事は酷く冷たいものだった。

 景色が滲むせいで、花精の表情は上手く伺えない。


「この場にお前を呼んだのは、私の見誤りだったようだ。出ていきなさい。」


 いつものように、物腰柔らかい印象を与えるための敬語ではない。

 幼子に、この世の道理を諭すかのような、厳しさを孕んでいた。


「──いや、俺もこの医女と一緒だ。」


 そう言って、割って入ったのは張瑛。


「俺は、最初こそ益のやつを捕らえる時に殺したら、義禁府で見せしめにする事が出来ない、って理由であんたらの元へ連れてきた。」


 張瑛の独白は、続く。


「だが、あんたの、医療への姿勢に惚れたんだ。あれ程までに全力で、命懸けで救おうとする姿に心を、強く。」


 張瑛は、まっすぐと花精を見つめる。


「俺は自分を恥じた。だから、あいつらには救って貰った分、生きた罪滅ぼしをさせようと思った。」


 そして次に、园丁の方へ視線を移す。


「そう思ったのに、約束を守れず、すまなかった。分かってる、と豪語して帰って、約束を果たすためにもあの二人の処分に反対したらこの有様だ。」


 ひらりと服の裾を摘んで、広げる。

 官服を着ていない、という事は、張瑛は春柳と益の処遇に反対したせいで、義禁府の官服を着れなくなってしまったのだろう。

 最後に、蝴蝶へ視線を移した。


「あんたが怒る感情は何一つ間違っていない。──ただ、その感情のままに動くと、俺みたいになるってだけだ」


 蝴蝶を視線にとらえた張瑛は、心を痛めただろう。

 おかしいことをおかしいと叫ぶ行為が、封じられる現実に絶望する、その表情に。

 

「申し訳ありません。席を、外します。」


 蝴蝶は顔を全て覆うようにして、袖に埋める。そして、三人に深く礼をして、背中を見せずに退室した。

 疑問や怒りを衝動のままにぶつける、馬鹿正直な真っ直ぐさを持ち合わせながらも、礼節を欠かさず重んじる行為のちぐはぐさが、より一層痛ましく思わせた。


「蝴蝶には、早かったようですね。」


 静かになった執務室で、最初に声を発したのは花精。


「いや、こういった経験も成長に繋がるもんだ。」


 独り言のような花精の言葉に、返事をしたのは張瑛。园丁は自身に発言の許可が出ない限り、何も話すつもりは無いのだろう。


「しかし、私達にも思う事がないわけではありません。」


 花精は静かに言葉を続ける。



「我々は、なんて───傲慢なのでしょうね。」



 長いまつ毛は伏せられる。形の整った眉は悲しげにひそめられ、世を憂うかのようなそのかんばせは、美しさを際立たせた。


「同じ人間同士が、人間の罪を裁量し、罰を下す。そして、生死すら我が物にしようとしてしまうのですから。」


 瞑目した瞼の裏では、何を描いているのか。


「益様は、本来ならばあなた達の弓矢によって死ぬ運命にあった。それを、傲慢にも私は生の方へ運命を変えた。」


 まるで時が止められたかのような、静けさと、声。


「そして、生を与えられた益様を、傲慢にも罪人として殺してしまった。」


 語る花精の美しさに、誰も言葉を挟めない。






「いつから私達は、自分を神であるかのように錯覚していたのでしょうね。」






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