秤娘という女

薬屋

一、夏


『生薬の部門で首席を取ったのは貴女よね?』


 これぐらい暑い夏の日の事だった。

 科挙テストの結果発表が終わって、医女としての資格を得られたあの日。

 それと同時に、私の憧れと出会った日でもある。


『どんな顔か見ようと思って来たのに──落ちた子達よりも暗い雰囲気ね』


 呆れたように言うが、彼女の顔は眩しくて見えない。


 その時の私は、全てがどうでもよかった。

 愛想も無く、容姿が良いわけでもなく、器用なわけでもない。

 女官にも、下女にも、妓生キーセンにも、嫁にも向いていない私は、ただ物覚えがいいというだけで、医女になるように薦められた。

 なんとなく、言われるがまま受けた科挙の結果発表で、私の持っていない全てを持っている彼女に出会った。

 あの日から、私は。私の、心は───。




『貴女、前髪上げてるほうが似合うわよ。顔がよく見えて、良い。』




──────────


 暑い。

 目を開けると、覚醒よりも早く耳に響く蝉の鳴き声と、肌を蒸す熱気。

 蹴ってどこかへいってしまった掛布団を探して、薄い敷布団の上に敷いて、一緒に三つ折りにしてしまい、部屋の隅っこの方へやる。

 乱れた寝間着の襟元を正しながら、長い前髪で暗くなった先を歩く。

 箪笥から適当なチョゴリを探して、袖を通す。結局、医服に着替えるのだから、何を着ていっても変わらない。

 着替えを終えて、鏡の前に座る。

 長い前髪を、かきあげて、他の髪と一緒に三つ編みの中へ巻き込んでしまう。


『貴女、前髪上げてるほうが似合うわよ』


 懐かしい夢を見たと、思い出す。

 それと同時に、自分の愚かしさに鼻で笑う。

 きっともう、彼女は覚えてなどいないだろうに、そう言われたあの日から、前髪を上げて暮らしていることに。


「おはよう、秤娘チォンニャン


 母の優しい朝の挨拶に「おはよう」とだけ返す。そして、簡素な朝餉を口に運んだ。


「お仕事は、どう?」


 沈葉キムチを噛む規則的な音と、蝉の鳴き声と、控えめな母の声。

 秤娘は、口の中のものを全て飲み込んで、口を開けた。


「ふつう。」


 わざわざ口の中のものを飲み込むまで待たせたというのに、出てきた言葉は味気ない一言。

 母は「そう」とだけ言うと、視線を朝餉に落とした。

 母よりも早く朝餉を食べ終えた秤娘は、椀を持って外の台所に向かうために、家の戸を開ける。


「いってきます」


 愛想は無いものの、思いやりが無い娘ではないことを分かっている母は、笑顔で彼女を「いってらっしゃい」と見送る。

 秤娘は飾り気の無い靴を履いて、外の台所へ椀を片付けるとそのまま、恵民署ヘミンソへと向かった。




「秤娘!おはよお。」


 秤娘が歩いていると、後ろから肩を叩いて話しかけたのは、使えない元牛ユェンニウ

 相変わらず図体の大きな彼は、彼女の頭の何個も上から、緩みきった笑顔を向ける。


「おはよう。今日は寝坊しなかったのね。」


 それに対して、秤娘は笑みの一つも零さない。さらに、憎まれ口の歓待サービス付きだ。

 しかし、あまりにも鈍すぎる元牛は、秤娘の憎まれ口を憎まれ口と理解すら出来ない。ただ嬉しそうに「そうなんだよぉ!えっへん。」なんて誇らしげですらある。

 いつものように、元牛への呆れた溜息をついていると、恵民署の大きな看板が見える。


 大きく構える門に、分厚い木の扉。敷地をぐるっと塀が囲み、堂々とした恵民署の看板はところどころ老朽化している。

 さあ、門をくぐろう、という時に元牛は立ち止まる。

 秤娘が彼の方へ振り返ると、なにやら珍しく神妙な面持ちをしている。


「最近、蝴蝶フーティエ元気無いよね」


 元牛の問いかけに、秤娘は何も答えず、彼から視線を外す。

 最近。それは、数週間前まで恵民署で入院していた、女官が居なくなった頃よりのこと。

 どうやら元気を無くしたのは蝴蝶だけでなく、あの美しき提調チェジョまでも様子がおかしく、あれ以来、珍妙な医術を行う事が無くなった。

 蝴蝶の心の傷を想った秤娘は、軽々しく言葉を発する気にはなれなかった。


「だから、蝴蝶を元気づけようと思って。これ。」


 元牛は、元牛なりに蝴蝶を元気づけようとしていたらしい。彼の大きくて厚い手のひらの中には、薄黄緑色の手巾ハンカチがあった。

 西の異国、写萬シェワン王国との貿易が盛んになってから、間王国に入ってくるなり最近の流行ブームとなっているものの一つが、手巾だ。

 色とりどりに染められ、多種多様な施しをされるそれは、上流階級の女性たちや、妓生の間で愛されている。

 控えめな刺繍が品の良さを引き出すその手巾は、なかなかの逸品だということが伺える。


「蝴蝶、喜んでくれるかなぁ」


 いつも呑気な彼だが、今回ばかりは男としての矜恃プライド故か、心做しか不安げな表情を浮かべる。


「嫌な顔はしないわよ。」


 蝴蝶という女は、例え好みでない色の手巾だとしても、ぼろ雑巾だったとしても、贈り物として貰えば、嫌な顔一つ見せず、まるで小さい頃から手に入れる事を夢見ていたかのような、そんな喜びを見せて受け取る事を、秤娘は知っている。

 秤娘は、どういう反応をすれば喜ばれるかを知り、またそれを演じる蝴蝶が嫌いだった。


「だから、安心して渡しなさい。」


 秤娘は、含めたような笑みと共に、恵民署の門を先にくぐり抜けた。



「蝴蝶は何処にいるんですか?」


 恵民署についてから、敷地内をぐるりと回っても彼女の姿を見つける事が出来なかった二人は、彼女の養父である羊然ヤオレンにそう尋ねた。

 秤娘は別段蝴蝶に用があったわけではないが、元牛一人ではとろすぎるて、仕事に入る時間を押してまで探し続けるだろうと危惧して、彼の蝴蝶を探す手伝いをしている、という体。


「あの子ならさっき、提調様に執務室へ呼ばれていたよ」


 羊然の言葉に、二人は考え込む。


「提調様と話しているなら、後にしたほうがいいかなぁ」


「少し話すくらいどうってことないわよ。」


 怖気付く元牛を引っ張って、秤娘は提調の執務室まで向かい、勢いのままに戸を開ける。


「失礼します、ここに蝴蝶が───」



 勢いよく入った秤娘と、元牛の身体は時が止まったかのように、動かなくなる。


花精ファジン様、痛いですっ、」


「こら、しっかり私の方を見ろ」


 執務室の中では、いつものように椅子に座る花精と、そのすぐ側に立つ蝴蝶。

 ただそれだけならば問題無いが、花精様は涙目の蝴蝶の顎を掴み、至近距離で彼女の顔を自身に近づけようとしている。

 そのまま放っておけば、その、美しい唇と、唇が、出会ってしまいそうだ。



「何をしているのですかッ!?」

「なにしてるの!?」


 秤娘と元牛の悲鳴にも似た叫びが、恵民署中に響いた。





────────────


 新章開幕です!この章ではまさかの、秤娘が話の中心になります。

 花精と蝴蝶の仲も、進展する!?かも、しれません。

 引き続き、恵民署の蝶と花を応援よろしくお願いします!



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