二、ふたり



「だから、目に睫毛が入ったから、取ってもらおうと見てもらっただけで」


 いつ、如何なる時でも、色褪せる事の無い愛らしい面に、少しの呆れを乗せてそう言う蝴蝶フーティエ

 秤娘チォンニャン元牛ユェンニウがそれでもまだ肩を上げて怒っているのは、蝴蝶の隣の花精ファジンがまるで悪びれず、寧ろ邪魔が入ったというような態度をしているせい。


「そんな、花精様が私を選ぶなんて。ねぇ?花精様。」


 なんとか二人を宥めようと、蝴蝶は花精の方にも視線を振って問いかける。

 しかし、花精の方は「いや、まだ、そうなってないだけで、なあ」と曖昧な返事をするので、蝴蝶の拳が彼の脇腹に見えない所で刺さる。


「もうこの話はいいわよねっ!で、二人は何か用?」


 痛みのあまり机に突っ伏す花精など、視界の端にも映さずに秤娘と元牛の来訪の理由を、強引に尋ねた。

 そこで漸く、二人も何故蝴蝶を探していたかを思い出す。


「そうだ。ほら、元牛。」


 思い出しても、まごつく元牛を、秤娘が肘で小突く。

 そこで元牛も観念したように、一歩前へ、蝴蝶の方へ歩み寄る。

 そして、大きな深呼吸。

 元牛にしては珍しい、真剣な顔。

 少し変わった空気を察した花精も、机から顔を上げて、目を細めて出来事の行く末を見守る。


「あのっ、蝴蝶さあ、最近、元気、ないよね?」


 一体何をされるのだろうか、と緊張していた蝴蝶は、思ってもいなかった質問に、刹那自失をするが、すぐにはっと我にかえる。


「そ、そう?そう見えていたかしら」


 蝴蝶は手のひらを頬にあてがって、ここ最近の自分の言動をなんとか思い出そうとする。

 元牛に心配かけるような、否、何か完璧でない部分を見せてしまっていただろうか、と。


「だから、あの、蝴蝶。俺、蝴蝶は元気なのがいいからさあ。こんなの、あれ、あれだと思うけど。元気になって欲しいから、受け取って欲しい、なあって。」


 蝴蝶は懸命に元牛の言葉を理解しようとするが、不自然に途切れ途切れな言葉と、あまりにも足りない語彙力のせいでちんぷんかんぷんだったが、目の前に美しい布を差し出されたので、取り敢えずはこれを受け取ればいいのかと手を伸ばす。


 受け取ったまま暫く静止していると、頭の何個も上から、輝くような瞳で痛いほど視線を送るものだから、蝴蝶はその布をゆっくりと開いていく。


「───綺麗。」


 その布の中には、深い色合いに、光沢が映える木製の簪が包まれていた。

 簪の先には、蝶のような飾りがあしらわれ、純朴さと豪奢さの塩梅が美しい。


「こんな高そうなの、どうしたの?」


 蝴蝶は珍しそうにその簪を色々な角度で見つめながら、元牛にそう尋ねた。


「蝴蝶に、あげる」


 どうやら気に入って貰えた様子を見届けるなり、先程までの緊張は解れたのか、途端蝴蝶にでれでれと顔を緩めながらそう言う。


「ありがとう。また今度、使うわね。」


 蝴蝶はただでさえ花も恥じらうような愛らしさを持つというのに、笑顔を浮かべてしまう。

 彼女の笑顔に心を奪われた元牛は、単語にもならないうめき声でなんとか返事をした。

 元牛の返答を不思議に思いつつ、簪を布にまた包み直すと、襟袖の中へ大事にしまう。


「秤娘は用事無いの?」


 若干元牛の大きな影に隠れかけていた秤娘を、蝴蝶は覗き込む。


「元牛一人じゃ渡すのに時間がかかって、この後の仕事に支障を来たしそうでしょ。そうならないための、付き添いよ」


 秤娘は、蝴蝶の反応をしっかりと見届けた後、何故か勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、そう答える。

 用事の済んだ二人は、礼をして執務室を去る。


 嵐のように過ぎ去った二人を見送ると、執務室には静けさだけが残った。


「随分と、好かれているんだな。元牛に。」


 その静寂を先に破ったのは、花精。探りを入れるように、尋ねる。

 しかし、花精の気など知らずに、蝴蝶は当然のように、こう答えた。


「ええ、当然ですけれど。どうかされました?」


 恵民署ヘミンソに居る人物全員から愛されている自信がある蝴蝶は、当然すぎる質問に対して、疑問にまで至る。

 問いかける方が莫迦らしかった、というように、花精は口から笑いとため息が漏れる。


「大変な女を好きになってしまったものだな。」


 そう独りごちる花精は、誰に向かっての言葉なのか。先程の医学生なのか、それとも。


「秤娘と元牛、仲が良いですよね。」


 蝴蝶はぽつりと、そう言った。彼女の言葉をきっかけに、二人の今までを思い出す。

 確かに蝴蝶の言った通り、秤娘と元牛は一緒に居る事が多い。

 秤娘は冷たい態度ながらも、面倒見のいい性格故か、頼りになる彼女に元牛が依存してしまっているかは定かではないが、とにかく二人で居る姿をよく見かける。

 花精は、頭の中で相関図を浮かべる。

 元牛は蝴蝶の事を慕っており、蝴蝶の慕う相手は不明。というよりも、食への仕事に恋をしているとした方が正しいか。

 そして、秤娘はいつも、元牛を気にかけ、共に行動する。


「元牛って、もしかしたら秤娘の事を慕っているのでしょうか。」


(いやいや、今お前が袖に直した簪は何だというのだ)


 蝴蝶の独り言に、そう文句を付けたくなる花精だが、恵民署の人物全員から事が基本デフォルトな彼女には、何を言っても無駄だろうと口を噤んだ。

 花精の考えは、むしろ逆だ。

 元牛は蝴蝶を慕っていることが丸わかりなのだから、秤娘の方が、元牛を。


 花精はさらに、秤娘という女の言動を記憶から引き出す。

 そのどれもに、秤娘が元牛を慕っていそうな所作はまるで、感じられなかった。

 寧ろ、花精が蝴蝶と話している時の、秤娘の恐ろしい目付き、蝴蝶が腹を刺された時の、動揺と心配。

 今回も、元牛に着いて来たというのは建前で、まるで贈物を貰った時の、蝴蝶の反応を伺いに着いてきたのでは無いか。


(まさか、な。)


 根拠も何も無い推測に、花精は自分で自分を嗤った。


「──花精様?」


 くだらぬ推測をしていると、机の向かい側で蝴蝶が不思議そうに、花精を覗き込んでいた。

 首を横に振って、先程までの思案をかき消す。


「───あぁ、すまん。では、手筈通りに、今日はお前に付きの者を一人つけるから、それで向かってくれ。」


「承知しました。」


 袖に顔を埋めて、深く礼をする蝴蝶。

 そしてそのまま、背を見せずに執務室を後にした。





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