三十四、輸血


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「───ううん。貴女は私に、出来る限りの事をしてくれたわ。これ以上、貴女には何も望めない。」


 柳のような女は、ひとときの瞑目のあと、蝴蝶フーティエからの、自分には何が出来るか、という優しすぎる提案を、断った。

 全てを、思い出した。己の罪も、思い出した。

 それでも、柳のような女は、自分自身が楽になるためだけに、蝴蝶を利用しようとしたことを、恥じた。

 誰でもいいから、罪を糾弾して欲しい、罰して欲しい、他人を介した自慰行為のためだけに、これほどまでに、人を想いやる心を持つ彼女を利用するなんて。


「私はもう、王宮に戻るわ。義禁府ウィグムブが来てしまった以上、私の意思なんて関係無しに、連れていかれるんでしょうけど。それで、逆になんだけど。私が、貴女に、最後に出来ること。ないかな?」


 柳のような女は、固く決意した表情から、少し恥じらう乙女の表情へと変えた。


「じゃあ、あの時の約束。」


 愛らしく微笑む彼女は、袖から細い小指と親指を出す。


「貴女の名前、私まだ聞けてないから。」


 人の魅力というものは、顔の面だけでなく、心の内側までもが、その評価に入る。

 そのどちらもが完璧に磨きあげられた蝴蝶に、柳のような女の心胆は、強く脈打つ。


春柳チュンリゥ。」


 少しだけれど、長い時間を過ごしたような友人に、今更名前の自己紹介をするなどと、少しこそばゆさがあった。が、春柳の名を初めて聞いた蝴蝶は、無邪気に笑みをこぼす。


「春柳!あなたに似合った名前ね、うん、春柳、春柳───本当に、いい名前よ。」


 私の次にね、なんて野暮な言葉は付け足さない。

 ただ、彼女の名前がやっと知れた蝴蝶は、それまでの時間を取り戻すように、何度も彼女の名前を呼び続けた。



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花精ファジン様、仰ったとおり、羽軸を消毒して持ってきました。」


 場所は変わって、彼女達の居る診察室の隣、施術室の前。

 甲紫ジャズーは花精の言いつけどおり、昨夜の夕餉に使った鴨肉の、その鴨の羽の軸を、用意した。


「ありがとう、これで準備は整った。」


 花精は、例を言って羽軸を受け取ると、施術室の中に、再び一人で入ってしまった。


「呼吸数も多くなっている」


 施術室へ入り、まずイーの状態を確認する。

 血を失い、まずい事態が刻一刻と迫っている現状は、変わらない。

 花精は決意し、元牛ユェンニゥによって持ち込まれた、もう一つの病床ベッドへ、寝転んだ。

 益の横たわる施術台と、隣り合わせに置かれた病床。

 花精は、メスを使って己の腕に、切れ込みを入れる。義禁府の男たちや、医官たちの腕を切った時よりも、深く。

 そして素早く、先程甲紫に手渡された羽軸を、傷口に、差し込んだ。

 血が勢いよく羽軸から飛び出そうとしているのを止めながら、益の腕にも刀で切り込みを入れて、もう片方の羽軸の先を、差し込んだ。


「まさか私が、施術室の天井を見上げる日が来るとはな」


 花精は、施術室の天井を仰ぎ見ながら、自嘲するようにして、笑う。

 一点から、血が失われてゆく不思議な感覚に、意識が白濁とした靄に覆われてゆく。


 首を横に倒し、益の容態を伺う。

 先程は脈拍、呼吸共に早かったが、どうやら落ち着きを取り戻しているようだ。

 このあと、彼の傷を塞げば、無事術式は終わる。

 ようやく見えてきた終わりに、安堵からか、眠気が襲う。

 じゅうぶんに輸血したことを確認し、羽軸を抜いて、傷口を綿紗ガーゼで強く押して、止血する。


「縫うだけ、縫うだけだ」


 己に言い聞かせるようにして、花精は病床から、おぼつかない足取りでなんとか、立つ。

 視界が、霞む。それどころか、世界が、歪んで見える。

 力が入らないせいなのか、手が震えているせいなのか、それとも、その両者なのか。

 花精は、持針器を持とうとしてすぐに、かたりと落としてしまった。


「くそ、血が、ちょっと無くなった程度で」


 震える手を、もう片方の、震える手で支える。

 もはや、医学的な根拠など一蹴するような、根性だけで花精はもう一度、持針器を握りしめる。

 揺れる視界が、気まぐれに焦点を合わせる。その刹那を見つけ、霞んだ視界を泳ぐ。

 縫合針で、傷口を縫ってゆく。

 輸血する前に、全ての傷口から、鏃だけでも抜いておいた自身の判断を、自画自賛する。そのような繊細な作業、今はとても出来そうに無かった。

 いつもならば、縫合など、ひとときで終わってしまう。なんなら、目を瞑ってでも出来ただろう。


「目を、瞑って…?」


 簡単に出来る、という例え噺でしかないような、その思いつきを、花精は口にする。

 見えないものを、見ようとするから、時間をかけてしまうのだ。

 いっそのこと。


 まだ塞がらない傷口を前にして、花精は瞑目した。

 諦めなどではない、最後の希望を抱いた、抗い。

 思い出せ、いつものように。

 回っていた視界も、蓋をすれば、回っているかも分からない暗黒が広がるだけ。

 指が、覚えている。

 慎重に、ゆっくりと、ゆっくりと持針器の先を器用に動かし、傷口を塗っていく。

 いつものすばやさこそないが、正確さは全く失われていない。


 血を無くし、瀕死に至る男を救う。

 血を無くし、尚も男の命を救う。


 まさに、神業の他に言葉が見当たらない。



「よし、この調子で──」



──────────


「───出てきたッ!」


 施術室から、花精が漸く出てきた事を、一番に気が付き、声を上げたのは羽飾りの男。


「して、益はどうなった!?」


 いつもならば、表情の分かりにくい花精に、術式の成功を確認するのが見慣れたやり取りだったが、今回は、違う。花精の顔色が、わかり易すぎる。

 見える範囲は目の周辺だけだというのに、それでも、彼の様子は、異様に悪かった。

 花精の顔色があまりにも悪いため、羽飾りの男もあわてて、花精を問い詰めた。


「無事、術式は、成、功────」


 息も苦しそうに、なんとかそれだけ言うと、花精はふわりと、花のような香りをその場に残したまま、糸の切れた人形のように倒れた。






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 どうでもいいんですけれど、しあさって、誕生日なんです!!なので誕生日プレゼントに、恵民署の蝶と花についてコメントとか!!ください!ください!!

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