三十五、ひとときの安息
「血が無いから、血を分け与えて助けるとは。理にかなってはいるが、よもやそんな事が出来るとは。たいした医官だ。」
医官達の仮眠室の、
先程まで、尊大な態度が目立つ男だったが、花精の医官としての矜恃に心を打たれたのか、まるで人が変わったかのように、優しい声色で眠る花精を褒め讃える。
「神業、としか言いようがない」
羽飾りの男の、独り言のようなそれを、ただ黙って聞くのは、
ただの医官にしては体格のよすぎる、屈強な背中は、ただ羽飾りの男の言葉を受けるのみで、何も語らなかった。
「医女の、
部屋の外から、雪解け水の流れる川を想像させる、美しく透き通った声が響く。羽飾りの男は「入れ」と短く声を返した。
ゆっくりと入ってきた蝴蝶は、羽飾りの男の前で、袖に顔を埋めて、恭しく礼をする。
「約束通り、女官
「律儀で結構。だが、無理に引き渡されても、また逃げられては困るからな。猶予はやるぞ。」
やはり、言葉の節々に尊大な態度がちらついてはいるが、数刻前では想像出来なかった程に、酌量を与える余裕を見せる。
しかし、蝴蝶はそれを断る。
「いえ。彼女の容態、精神状態は共に安定しており、また、義禁府へ連行されることも、彼女自身が望んでいます。」
蝴蝶の言葉を聞いた羽飾りの男は、体重を預けていた壁から背中を離す。
「あの状態を、そう易々と落ち着かせる事が出来るとは思わないが。──まぁ、そろそろ義禁府に戻るとするよ。」
白い医服に身を包む者たちが見慣れる
歓迎されている、とは言えない雰囲気に多少の気まずさを感じていたのか、羽飾りの男も二度目は何も言わず、蝴蝶に連れられるまま、春柳のもとへと向かう。
「ご迷惑を、──おかけしました。」
診察室で、羽飾りの男を出迎えたのは、先程の錯乱した様子など、微塵も無くした春柳の姿。
春柳は、袖に顔を埋めて、少し言葉が詰まってしまったが、なんとか言い切って、礼をする。
恵民署の中の義禁府の武官達、という異物を一刻も早く排除するための方便ではなく、本当にあの状態から治してしまったのだ、と羽飾りの男はまた、蝴蝶という医女にも感心した。
「そこの医女、どういう方法で治してみせた?お前も妙な治療法を使うのか?」
豹変ぶりに、羽飾りの男は思わず蝴蝶に話しかけた。蝴蝶もまた、先程の恭しい態度を崩さずに、袖に顔を埋めながら答える。
「私は花精様のように、特別な医術は持ち合わせておりません。ただ、
蝴蝶の正直な申し上げに、羽飾りの男は謙遜、もしくは特別な医術の秘匿だと推理したが、彼女の顔色を伺うと、その言葉が真実のように思える。
「はっ、菓子一つでか。やはり妙ではないか。女官、行くぞ。」
謙遜にしろ、秘匿にしろ、真実にしろ。これ以上の言及をしても、出てくるものはないのだから、と羽飾りの男は春柳を呼び、後ろに従えて恵民署の厚い木の門まで歩いた。
暇をして散り散りになっていた部下たちを、一喝で呼び戻すと、くるりと門を背にする。
「世話になったな、益の奴は担いで帰る。」
蝴蝶にそう話していた羽飾りの男は、言葉の途中で、視線を蝴蝶の向こう側へやる。
蝴蝶は背中を見せないように後ずさると、交代して羽飾りの男の前に立ったのは、园丁。
「──事情により、恵民署の
蝴蝶達だけに見送りをさせるのは気が引けたのか、园丁は花精が倒れてから付きっきりで傍に居たところ、花精の代わりに羽飾りの男の見送りにやって来た。
「よい、よい。生命を賭して救う、医官として最大の礼儀を払ってもらった。」
羽飾りの男は上機嫌で、返事をする。が、园丁は黙ったまま、じっと、視線に何かの思惑を乗せて訴えている。
二人の視線が暫くの間絡み合い、少しの緊張が走る。しかし、その空気は、羽飾りの男の鼻で笑う声によって、解された。
「はっ、そう睨まずとも分かっている。」
その言葉にとりあえずの納得はしたのか、园丁は「ありがとうございます」とだけ短く言うと、すぐに視線を外してしまった。
「そうそう、私の名前は
羽飾りの男、もとい張瑛は部下たちを引き連れて、恵民署を後にした。
─────────
「目覚められ、ましたか」
静かな部屋。少し埃臭い仮眠室を、小さな窓から夕焼けが照らす。
長いまつ毛が、何度かまたたく。
眠り姫のように美しい寝顔は、碧の瞳を覗かせても、その美しさに色を刺してよりいっそう増す。
そんな彼の目覚めに、目敏く気が付き、戸惑い、詰まりながらも、声をかけたのは、屈強な体つきの男。
「──园丁。」
目覚めてすぐ、目の前で哀しげで、心配を孕んだ視線を送る男に、花精は名を呼ぶ。
「よかった。目覚められなければ、どうしようかと。」
普段、花精の後ろで静かに控えている事の多い园丁ではあるが、前を歩くその花精が倒れてしまうと、簡単に表情を崩す。
「そうか。それは、その、気持ちは。お前自身の、本心か?」
血を失ったせいか、寝起きのせいか。まだ自身の意識を包む微睡みの揺りかごに身を委ねながら、子供が親の愛情を求めるかのように、切なげな声を紡ぐ。
しかし、园丁が返す事の出来たものは、沈黙のみ。
何十年もの長い付き合いの中で、本当の家族へ向けた愛情以上に、花精は园丁へ親愛を寄せるようになった。
それ故に、幼い頃から何度も、花精はその親愛の見返り、もしくは親愛の確認をすることがあった。
だが、园丁が花精の望みに応えることは一度も無かった。
返ってくる答えの分かりきった問いに、花精は桃色の唇から吐息を漏らす。
「私がこんなにも、お前に心を開き、寄せているというのに。お前はずっと、従者のままであろうとするんだな。」
言葉に、温度などない。しかし、花精が紡いだ言葉は、凍てつくほどに冷たいものだった。
自分の思い通りにならない人間や事柄を、拒絶するかのような、哀れな冷たさ。
「私が貴方様を心配するのは、この国へ忠を捧げているからです。それ以上でも、それ以下でも──ないですとも」
园丁の瞳は揺らぐ。明らかな、虚言。
目の前の、幼いまま大きくなった王子へ抱く感情を隠すための。
碧眼の双眸を、長いまつ毛の中に隠してしまうと、
「お前なんか、嫌いだ」
吐き捨てるように、そう言った。
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