三十三、春柳
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私は、それなりに恵まれた生まれだと思う。
両班ほどまで贅沢な暮らしは出来ないが、毎日それなりに腹が膨れ、奴婢のような扱いも無い。
良人という身分が、私にはとても肌に合っていた。
そして、私が大人になりきる前に、王宮に務める事が決まった。
基本的に、この国において女という性別は、政略結婚の道具でしかない。
両班ならば政略結婚のために、蝶よ花よと育てかわいがるが、低くも高くもない身分である良人にとっては、結婚の道具にも使えない女は、少し家事の出来る飯食らいという認識しかない。
だから、少しでも金になるように、良人の娘は殆ど王宮で女官として務めることになる。
それは、私の家も例外ではなく、気がつけばお務めの日を迎えていた。
最初の数日は私も泣いたけれど、相部屋の子達もみんな私と同じ境遇で、夜な夜な泣いていても意味が無い、という事を幼ながらに悟った。
王宮に務めてから数年。王宮での生活にも慣れて、広い王宮の地図も頭の中に入って、ある程度の不自由が無くなった頃。
それは人目につかないような場所に、ぽつんと立っていた。
重そうに頭を垂れ、風のされるがままに、身を揺らす。
近くに同類もおらず、ただただ、何年もの月日を、何回もの季節を立ち尽くして、やり過ごす。
とても悲しそうで、儚くて、恐ろしい木だった。
それから程なくして、私は木の剪定をする仕事にあたる。
偶然にも、義禁府の近くを担当することになった。そこで私は、手に収まる小さな鋏を持ち、あの柳のところまで行ってしまった。
以前と同じように、ただ私だけが、この柳に何かを思い耽って終わるのかと思うと、背後から声が聞こえた。
「この木も、切ってしまうのか?」
はっ、と振り返ると、面識などない男の人だった。
ただ、服装と、大きな体躯から、義禁府の人である事は分かったので、慌てて頭を垂れて、袖に顔を埋める。
「すみません。ただ、見ていました。」
人の気配など無かったので、油断していた。
剪定のお仕事をさぼり、ぼうっとしていたなどということが
「そうか。なら、いい。俺はこの柳が好きなんだ。」
そう言って、男の人は、嬉しそうに柳を見上げた。
これが、私と
それから何度か、私は隙を見ては柳を見に、足繁く通った。否、柳など口実になった。
それはきっと、益様も同じで、私も益様も言い出しこそしなかったが、柳を見るという名目で、逢引をしていた。
互いに、互いの身分を深く理解しておきながら、許されざる気持ちだとわかっていながら、止める事は出来なかった。
二人で逃げ出そう、と言い出したのは、益様からだった。
とうとう、あの柳の前で、私を抱きしめて下さって、そう、言ってくれた。
当然私は最初こそ否定したものの、十数年前の女官逃走事件の話を切り出されて、私は益様の手を取った。
肌寒い明朝、陽も昇らぬうちに握りあった、その手の温もりは今でも覚えている。
その日から、満足な生活を送れたわけではないけれど、それすらも幸福に思える日々が続いた。
穀物を湯でふやかして、表面積を増やした主食だけの飯でも、益様と共に囲む食卓ならば、腹よりも胸がいっぱいになった。
ある日。私は、月のものが来ていない事に気がついた。
私達はとても嬉しくて、益様との子が授かれたことがとても嬉しくて、その日は少し奮発して、米を買って食べた事を、よく覚えている。
それからは、私が何をするにしても、益様は私の身体を気遣い、私と、お腹の子をそれはもう、大切に、大切にしてくださった。
夢のような日々の終わりは、突然やって来た。
私の股を濡らす、赤。無情な、赤。
朝起きると、布団が赤色に染まっている。何が起きているか分からなかった。
赤ちゃんの行方を、残酷な方へ導くような赤色に、私の思考は絡まり、何も、考えられず、何も、何も、何も。
意識を手放して、どこかへ逃げてしまいたいのに、下腹部の重たい痛みが、皮肉にも現実へ引き戻してくる。
否定したい、否定したいけれど、私達の子に限って、そんなことは、そう、否定したいのに、認めてしまった頭は、私の瞳から涙を零させる。
益様が楽しみにしていた。とても大切にしていた。
それすらも、満足にやり遂げる事の出来なかった私は、悲しみよりも、恐怖が大きくなってしまって。
子を流す母など、要らないのではないか。
幻滅されて、捨てられてしまうのではないか。
突然、赤ちゃんよりも、己の身だけを心配する思考に、支配される。
そんな醜さを、自覚することなんて、この時の私にはできない。
気がつけば、汚した布団を持って、家を出ていた。
なんとか、この血だけは綺麗にしてから、それから考えよう。
少しずつ話を振ってみて、こんな私でも許してくれそうなら、全て打ち明けてしまおう。
そう思っていたはずなのに、気がつけば、高い崖の上に立っていた。
下を覗けば、目眩がしそうなほどに高く、わずかに川が流れているのが、確認できる。
一歩前へ踏み出そうとした足が、いつまでも出なかった。
自分でも、自分の行いが分からなかった。
もう、自分の中で整合性が保たれていない。
また泣き出してしまいそうになった時、血を失ったせいか、足元がふらついてしまった。
頭が重くなって、そのまま、崖の外へ、身体ごと、投げ出されてしまった。
内臓が浮くような、気持ちの悪い感触と、顔の皮膚を刺すように通り抜ける風と。
腕が鉛のように重く、頭を守るための腕も出せない。
いやだ。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ。
死ぬのは怖い。死ぬのは、怖い。
一瞬にして視界を占領する水面に、私は最期に喉の奥から、渇いた悲鳴をあげた。
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