三十二、これが私の医療
場面は、静かな診察室。
庶民を主な対象として診察する
普段から使われていないせいで、部屋に置かれている机や椅子、薬棚、診察台は誰の影を覚えることも無く、寂しげだ。
大きさにして、大人が四、五人入っても窮屈に感じられないこの部屋は、ただ広いだけでなく、天井が高い事も、広さと寂しさを感じる理由だろう。
天井のむき出しになった木の骨組みは、誰にも手入れされていない。
辛うじて大掃除の時期に薬棚を上を拭くのが精一杯だ。
数少ない思い出を抱きしめた診察室は、落ち着きを取り戻し呼吸の深くなった、診察室に横たわる女と、その女を優しく慈しむように、前髪を撫ぜ、傍に座る女を静かに包んでいる。
「落ち着いた?」
自分の行った過ち、異常な錯乱、身柄を捕らえようとしている武官達。
恵民署に非日常を齎したというのに、変わらずに優しく微笑んでくれる彼女に、柳のような女の視界は、景色が浮くようにしてぼやける。
「ごめんなさい」
恵民署にとって、蝴蝶にとって、明らかな不穏分子であるはずの自分を、病人だからとはいえ、優しく受け入れてくれる事に喜びを感じ、同時に己を激しく恥じる。
手の甲で目尻から落ちる熱い雫を拭う。
「あなたは本当に元気になってもらうまで、恵民署の患者だもの。気にしないで。でも、ごめんなさいって言われちゃうと、何て返したらいいか困るわ」
優しい軽口を叩きながら、蝴蝶は柳のような女の前髪を指で梳く。
「────ありがとう。」
「えぇ、どういたしまして。」
慣れ親しんだ、感謝の心を伝える言葉と、その返答を終えたきり、診察には再び安寧の静寂が訪れる。
しかし、柳のような女はこの静寂に、身を委ねるのは少々気が咎めたようで、気まずそうに、天井と蝴蝶を交互に見た後、口を開いた。
「私に何も、聞かないの?」
女の問いは、自然なものであった。
これだけ恵民署の非日常をもたらしておきながら、幾つかの事情を知るであろう彼女を問い質し、真実を知る権利があると、女は思い及んだ。
「だって貴女、記憶が無いんでしょ?聞いたって──」
「なにを、今更」
まるで、逃げ道を与えるかのような言葉で、残酷なまでに優しい蝴蝶へ、優しさに甘える己への怒りをぶつけそうになる。
上体を起こし、激昴しそうになった女はなんとか、既のところで過ちに気づき、自分を制した。
そのまま呼吸を整えて、真っ直ぐに、愛らしい、原石を閉じ込めたような瞳を見つめた。
「私、全部思い出したんだよ」
それは、自分で自分の逃げ道を絶った、懺悔のような告白。
蝴蝶は先程、暗に「記憶喪失を言い訳に口を閉ざしてもいい」と示したのだが、その甘い誘いは女が自ら振り払った。
これ以上の罪を、犯さないために。
蝴蝶と、友達でいるために。
女の告白に蝴蝶はというと、特に驚いた様子を大袈裟に表現するわけでもなく「そっか」とだけ呟いた。
「それでも、何も、聞かないんだね」
女は、ずっとずっと、誰かと話をしたかった。
過ちを、罪を、洗いざらい告白したかった。
それは恐ろしいことでもあったが、もう、頭の中に廻る罪悪感から、解放されたかった。
赦されたいのではない。
彼女は糾弾を、批難を、叱責を。
罰を、求めていた。
「ちょっと、ここで待ってて。」
蝴蝶は、柳のような女にそう言うと、立ち上がり、診察室から出ていってしまった。
診察室には、自分の呼吸と、鼓動だけが静かに溶けていく。
頭の中を走るように駆け巡る記憶は、槍のように彼女の心を刺す。
思考をしたくない。息をしたくない。生きていたくない。
診察台の上、世界を恐れるようにして、女は膝を抱えた。
「外、凄い事になってたわ」
静寂を突然破ったのは、先程診察室を出ていった蝴蝶。
すぐ隣、施術室で行われている生命のやり取りを、他人事のようにそう言って、蝴蝶は盆を持っていた。
「
何をしているかまでは、男達の壁で見えなかった、とまで言うと、蝴蝶は出て行く前と同じように、柳のような女の隣へ座る。
盆の上には、一つの小皿と、お茶。
小皿の上には花の形を模した、狐色のお菓子。
「これは?」
柳のような女が、蝴蝶の話よりも、突然これを持ってきた行為が気になり、思わず持ってきたもののほうを尋ねてしまう。
「
薬菓。それは、小麦を蜂蜜で練って、油で揚げて作られるお菓子。
高級品である上質な白い小麦と、これまた高級品である蜂蜜で作られる薬菓は、王宮ではよく宴の時に出されていた。
柳のような女も、王宮に仕えていたとはいえ、宴の後、誰にも手をつけられずに残っていて、さらに自分が運良く居合わせた時にしか、食べられない代物であった。
「花精様が食べた事無いって言うから、花精様に作るっていうていで、あの人の懐のお金から上質な小麦を買って貰ったの。蜂蜜はたまたま余ってたから、それで。」
高級品であるはずの薬菓が、今ここに在る理由を聞くが、柳のような女はまだ手を伸ばせずにいた。
「──そう、私が作ったの。だから、王宮で出てたのに比べたら、たいしたことないかもしれないけど。」
自分と、自分の成すことに絶対の自信を持つ蝴蝶が、珍しく、汐らしくそう話す。
女の凝視に耐えられなくなったのか、蝴蝶のほうから「ほら、食べて」と催促がかかる。
人差し指と、親指で掴む。
しっとりとしていて、重さのあるお菓子。
端のほうを食んで、ほろりと崩れた欠片を口の中に放り込む。
舌の上で、冷えて固まっていた油がゆっくりと溶けて、舌全体に油脂味が広がる。
奥歯で噛むと、蜂蜜の上品な甘さが舌の奥を広がり、舌は締め付けるようにして悦ぶ。
乾いた口を潤すために、お茶を口に運ぶ。少し苦くて、甘い甘い薬菓とよく合う。
「私は、貴女を怒る人でも、罰する人でも無いの。」
薬菓を食べる柳のような女を満足そうに見届けた後、蝴蝶はそう、話し始めた。
「貴女の病を治療する事しか出来ないの。」
大きくて、零れそうな瞳は、まっすぐと柳のような女だけを映す。しかし、彼女は「それも食事だけで、だけど」と皮肉るように小さく呟いた。
「食べてもらって、少しでも元気を出してもらう。これが、私のできる医療。私という医女の、精一杯の出来ること。」
柳のような女の舌が、優しい甘さを覚える。口に入れた時の事、幸福感、余韻。
彼女は薬菓を食べている間、先程までの負の感情を忘れていた。
ただ、目の前の美味しいものを、頬張っていた。
なるほど、これが彼女の武器ならば、医療ならば。どんな軟膏よりも、どんな生薬よりも、どんな鍼よりも、効く薬と成った、と女は瞑目する。
「それで」
蝴蝶は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、上半身を診察台に預け、女との距離を詰めた。
「貴女の友達としては、私に何が出来る?」
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