七、術式開始
「お子さんの喉を切って開き、直接異物を取り出します」
「喉なんて切ったら死んでしまうじゃない!」
母親の反応は当然で、病の治療といえば生薬、鍼灸が主流である。病の原因となるそれを物理的に取り除く治療法など、未だかつて聞いた事が無いものであった。
「大きな血脈を傷つけないよう、慎重に行います」
花精程の顔の綺麗な御人であれば、微笑むだけで全人類を黙らせる事が出来そうだと思っていたが、あれほど怒らせるなんて、何を言ったのだろうかと、遠目で見ながら施術室の中に入る。
「なら絶対にうちの子を助けるんだろうね!」
医療の現場だけではなく、何事においても絶対というものは存在しない。とくに、医療の現場は完璧にしていたとしても、命の神に翻弄されるようにして、救えた命を手のひらから零してしまう事もある。
「最善は尽くします」
花精はそう、狡い言葉を返すことしか出来なかった。
「助けるも言えない医官にうちの子が助けられるはずがない!」
口論が続く中、煮沸を終えた薬箪笥の中に入っていた金属を、施術室に運ぶ秤娘の姿を、花精は横目で確認する。
「しかし私以外に救える医官は居ません」
確かに、鍼を刺しても、灸を据えても、生薬を飲んでも、誤嚥した異物が無くなるわけではない。すでにひっくり返し背中を叩いても出てこなかったのだから、いよいよ手段など限られている事は、母親も理解していた。理解していたが、我が子の喉を切られるという事に、おいそれと快諾など出来るはずがない。
「花精様!子供の顔が
施術室から慌てて出てきてそう伝えたのは
皮膚が青紫色に変色してしまう、明らかに異常な変化は、子供の死が近づいている事を意味していた。何らかの要因が、飲み込んだ銭の穴を塞いでしまったのだろう。
このままでは四半時もせずして、子供は絶命してしまう。
「時間がありません、お母さん、許可を!」
花精、园丁の真剣な表情に母親はごくりと唾を飲み込んだ。どう足掻いても死が待っているのならば、僅かな可能性にでも賭けるしかない。
「息子を…………お願いします…」
母親は声を絞り出した。
「蝴蝶以外は外へ!絶対に中へ入るな!」
柔らかな物腰の花精らしからぬきつい言葉使いで、他の者達に言いつける。花精は飛ぶようにして施術室に入ると、言いつけた通りの格好をした蝴蝶と、施術台でぐったりとした子供が横たわっているのを確認した。
花精も大慌てで着替え、素早く入念に手を洗浄する。その間蝴蝶には煮沸させた金属を
蝴蝶は何故自分が選ばれたのか分からないまま、言われた通りに並べる。
花精は蝴蝶の隣に並ぶようにして立つ。
「術式開始」
そう言うと、花精はすぐさま小さく妙な小刀を手に取り、子供の喉元につぷりと刃を立てた。
「ひっ」
予想もしていなかった出来事に、蝴蝶は思わず悲鳴を上げてしまう。
「ぼうっとするな!鉗子!」
蝴蝶が驚いている間に、花精は左手を差し出していたようで、左手をぶんぶんと振り蝴蝶を叱りつけた。
「か、かんし」
聞き覚えのない言葉だが恐らくこの盆に並ぶ金属のうちのどれかを指しているのだろう。が、如何せん勝手が分からない。
「鋏のようなものだ!」
花精はそう言いながら、园丁の刺したとある鍼を見る。それは浅く刺してあり、ぴくりぴくりと動いている。その僅かな動きから、血圧と脈拍を確認する。
蝴蝶はとりあえず目に入ったものを手渡す。
「これは剪刀だ!いや…うむ…鋏と言ったからな…その、持ち手が変わった方のやつだ」
どうやら、花精の望んだものとは別のものを手渡したらしく、語気が強くなるが、すぐに蝴蝶は初めてこの場に立つのだと思い出し、丁寧にどれかを説明する。
蝴蝶はようやく、お望みのものを手渡す事が出来たようで、さらにもう一つ同じものを要求される。
だんだんと血の匂いが強くなる。
「
蝴蝶は綺麗な綿紗をそのまま手渡すと、花精の左手がぴくりと止まる。また間違えたのかと蝴蝶は身構えるが、花精は黙って綿紗を奪い取った。少し苦い顔をしていたので、正解ではあるが不正解でもある、と察した。
(何故园丁様じゃないんだ…)
「
いつも花精にぴったりとくっついて離れないあの男ならば、花精の望むものが分かりそうなものなのに。この鍼も园丁が施したものだろうと見れば分かるため、尚更、この場に居ない事が不思議でならなかった。
「ここだ」
蝴蝶との噛み合わないやり取りがあったものの、花精の捌きは素早く正確なもので、子供の喉につっかえた異物のもとまで辿り着くのに、時間はかからなかった。
花精は今度は指で金属を指した。名前を言っても分からないことを学習したのだろう。
蝴蝶が指さされた鑷子を手渡すと、それで銭を掴み、別の浅い盆にコトリと落とした。
「ふぅ…………」
花精は大きく息を吐いて、天を仰いだ。その様子から子供の窒息死は免れただろう事を察する。
「縫合に移る。その……曲がった細いそれと、長い鋏のような、そう、それと、糸だ」
言われた通りのものを蝴蝶が全部一度に渡すと、ぎろりと睨まれた。花精も蝴蝶のように目元しか見えて居ないとはいえ、霞まない美人に睨まれると言葉にできない凄みがある。
蝴蝶は長い鋏をしばらく持つように言われ、奇妙に曲がった針と糸を繋ぎ、鋏を受け取った。
それからは蝴蝶もじっと魅入ってしまうほどの素早さと正確さで、開かれた組織が綴じられてゆく。
そつなくこなして居るように見えるが、花精の額からはじわりと汗が滲んでいた。それは額をつたい、いずれは目に入り視界を邪魔するのではないかと考えた蝴蝶は清潔な手ぬぐいを取り出して、汗を拭いた。
「気がきくな」
蝴蝶を見はしないが、そう言った。
(あれ、あの悪寒が無い)
そこでふと、花精と関わる度に感じていた、謎の既視感と共にくる不快感を感じていない事に、蝴蝶は気がついた。
「鋏を。切れそうなやつだ」
蝴蝶が首を傾げていると、また左手を差し出される。言われた通りよく切れそうな鋏を手渡すと初めて、納得した顔を向けられた。初手で正解した事に蝴蝶は嬉しくなってしまった。
そんな蝴蝶の様子をよそ目に、花精は糸をくるりとくぐらせ、結び、ぱちりと切る。
綴じては結び切り、を繰り返す。
「ーーーーーー術式終了」
最後の糸を切ると、花精は手をだらりと下げて力抜けたようにそう言った。蝴蝶も緊張の糸が切られたようにくたくたと、座り込んでしまった。
「おい、まだ休むな。患部を清潔な包帯で巻け。」
明らかな疲労を乗せた視線を蝴蝶に向けながら、愛想のまったく無い言葉をなげかける。
蝴蝶はまだ働かせるのか、と文句を言いそうになるが、なんとか身体を起こし、施術室内の棚を漁り包帯を探した。
花精は施術室から出ていく。
「手術は無事、終わりました」
白い医官の服に返り血を点々と散らしたその姿は恐ろしいが、花精はとても柔らかい笑顔を描いていた。
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