八、正体


 安堵した母親は泣いて礼を言った。今日中に子供を家に返すことは出来ないので、病室に泊まらせることになり、母親も今夜は傍についているという。

 すうすうと眠る子供の傍で眠る母親の姿を確認した後、蝴蝶フーティエは病室から出ると入口の傍の壁にもたれ掛かるようにして、花精ファジンが待ち構えていた。


「よくやってくれた」


 端麗な顔立ちは月明かりで一層映え、口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

 突然の治療の立ち会いを労ってくれているのだろう、それにしてはいつものような、丁寧な口調でも、柔らかな微笑みでもない。


「あの、一つ質問してもよろしいですか」


 病室の戸を後ろ手で閉め、蝴蝶は断りを入れると花精は「言ってみろ」と許す。


「何故、あの治療の立ち会いは私だったのですか?」


 あの母親と子供が現れてから、花精の判断は遅くなかった。一体花精の頭の中でどういう公式が成り立てば、いつも傍にいる园丁ヤンディンではなく自分が選ばれる事になるのだろうか、と蝴蝶はずっと尋ねたかった。


「あの場で一番綺麗なのはお前だったからな」


 尋ねられて初めてゆっくり考えたかというように、空を見ながら、手を口元にあてがい、花精はそう言った。

 考えながら言ったせいか、蝴蝶が物凄い、それは鳩が豆鉄砲を食らったようでいて、目の前の人物を正気か疑うような、とにかくそんな物凄い表情をしていて、私があの場で誰よりも綺麗という事は世界の理ではあるが、花精こいつはあの重要な役割を見目で選んだというのか、と明らかな軽蔑をはらんだ視線が、花精を突き刺している事に気がつくのは数秒後だった。


「!?すまん、綺麗というのは衛生面に理解があって、清潔という意味でだな」


 蝴蝶の誰も見た事が無いであろう顔に、花精も驚きのあまり慌てて訂正の言葉を並べるその態度が、余計に蝴蝶の心情を悪化させてしまっている。


「手の洗浄や衣服など、一度見せてもらったからな、それでだ」


 わたわたと弁解する花精の言葉に、蝴蝶は疑い半分納得半分の顔になる。

 蝴蝶の徹底した衛生管理を知っていた。花精はだからこそ、彼女を選んだというわけだ。


「ならば园丁様でもよろしかったのでは」


 衛生管理への理解で選ばれたという事は、きちんと衛生管理が出来る者であれば、はず。

 それでも尚、花精に常に付き従い、花精を理解しているであろう鍼の名医を選ばなかったのは、何故なのか。


「あー、あいつは駄目なんだよ」


 花精はくすりと笑ったあと、続けた。


「血を見たら卒倒するんだ」


 蝴蝶は嘘だろ、という言葉を舌に乗せて、なんとか既のところで飲み込んだ。花精よりも背が高く、歳もとっているであろう、あの屈強な男が血を見たら卒倒するなんて、とても想像できない。

 しかしあの現場に立って思い出してみれば、確かに血が苦手な者には相当の苦行である事は分かる。


「麻酔も、脈拍と血圧バイタルサインを確認するための鍼も、あれほど上手にうてる腕利きは他には居ないんだけどな…」


 园丁が施術台に共に立てたら、どれほどいい事だろうか、という考えは花精も同じのようだった。


「そこでだ」


 蝴蝶の質問を答えたところで、突然花精から話題を切り出す。なんとなく嫌な予感がする。


「これからはお前に術式の助手を」

「丁重にお断りさせて頂きます」


 花精が身体をくるり、と蝴蝶の方へ向けたというのに、蝴蝶は頭を下げて花精が言い切る前に、断りの言葉で遮った。

 あまりの速さに花精も「た、の……もうと…」と言うはずであった言葉を、抜け殻のように口から漏らす。


「私は病人へ膳を提供する事が適任であると自負しています。先程、私がお手伝いした所花精様の手を煩わせる事も多く、私ではとても適任とは言えません、どうか他をあたってください」


 花精が何かを言う前に、それらしい理由をまくし立てる。


「分かった、給仕をしながら私の助手をーー」


 花精の中では譲歩しているつもりなのだろう、したり顔で提案するが、蝴蝶の瞳は冷たいものになっていく。


「私の身体がもつわけがありません」


 生命の瀬戸際を歩くようなやり取りでどっと疲れたというのに、さらに給仕の仕事までしたら、本当に過労で死んでしまう。


「これから術式は予約制にする!日程を立てればお前が給仕の仕事をしない日があっても」


「病人達に一日絶食させるというなら、いいですね」


 棘のありすぎる拒否に、花精は白い歯を覗かせて「うぐぐ」と声をあげる。


「給料は弾ませてやるぞ」


「お金の問題ではありません」


 取り付く島のない蝴蝶。とうとう言葉を失う花精。


「なぁ、お前…最初と雰囲気違くないか?」


 ついに蝴蝶を説得するための提案すら思いつかなくなってしまった花精は、苦し紛れに尋ねる。

 蝴蝶はそこでようやく、自分が素で話してしまっていた事に気がつく。いつもならば愛されるため、このような冷たい言い回しはしないのだが、つい、花精につられていた。


「花精様もですよ」


 それは花精も同じであった、美しい天女の彫刻のような微笑みと、如何なる者に対しても柔らかい物腰。そう接していたせいで、人間味がどこか無かったかの御人が、今では少女に言い負かされて口を尖らせている。

 そして、また、蝴蝶は態度の変わった花精に、あの悪寒を感じて居ない事に気付く。そして、その既視感で伴う嫌悪の正体の端を掴む。


「そうか…分かった」


 ようやく、助手にだけは絶対なりたくない、という事を理解してもらえたかと花精を見れば、悪戯っ子のような笑みを浮かべており、蝴蝶は思わず一歩後ずさる。

 そして花精の男らしい大きな手のひらは、蝴蝶の肩をしっかりと掴む。

 と、同時に蝴蝶の全身に、虫が這うような、寒気が襲う。顔を見ればいつもの天女のような微笑みをたたえる花精。


提調チェジョとして命令します。明日から、貴女は私の助手になりなさい」


(わかったぞ、こいつの)


 貼り付けたような笑み、作られたように優しすぎる声色、計算され尽くした所作。

 そう、既視感の正体は、蝴蝶自身も常日頃から行っている。


(猫かぶり野郎だ)


 愛されるために猫を被る蝴蝶は、何の為か、花精が同じように猫を被っている事に無意識の内に気付き、拒絶ーー、所謂、同族嫌悪を示していた。


「明日からは助手として、鉗子と剪刀の違いから、みっっっちり教えてあげますからね、。」


 そう言って手を話すと、花精はにこやかな顔のまま踵を返し、執務室へと向かってしまう。

 取り残された蝴蝶はやられた、と乾いた笑いを零すことしか出来なかった。


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