花の精

一、恵民署


 恵民署ヘミンソとは、民のための医療機関である。王宮をぐるりと囲むようにして存在する都に四つ、東西南北に別れて存在している。

 恵民署とは、医官と医女を育てるための機関である。必要とあらば王宮に医官医女といった人材を派遣したり、活人署ファリンソにも人材を派遣したりする。そのためどうしても都に位置しなくてはならなく、庶民のためとはいえ都に住む庶民にしか、王の慈悲である恵民署の技術の手は届かない。


 この国に四つしか存在しない恵民署のうち、西に存在するここは朝から大変慌ただしかった。


 理由は患者への対応ではなく、一週間程前、突然この西の恵民署の長が変わるという連絡をされた。

 今日はその日だった。

 前の長だった人物は、残念ながら位を一つ繰り下げられてしまい、前日までずっと愚痴をこぼしていた。

 横暴といっても過言ではない突然の事、ましてや長を変えるなんて事をやってのけるのは、とても貴い血族のお方だからだそうだ。

 医女達の間では王の遠い親戚だとか、異国の王子だとか、もうそのまま王族だとかあらぬ噂が広がっていた。


「忙しい、忙しい」


 その新しい長を迎え入れる準備で忙しい中、少女…蝴蝶フーティエはこの時を待っていたかと言わんばかりの笑顔で恵民署を駆ける。


「この籠は南の倉庫でいいのよね?」


 鳥が囀るような美しい声、天上のお方がたたえるような朗らかで優しい微笑み。大きな瞳、長いまつ毛、かわいらしい桃色の唇、歩く姿は蝶が舞うように美しい。誰もがその姿を拝めば、一度は感嘆の息を漏らすだろう。


 それは誰よりも、蝴蝶自身が自覚していた。


 自分はかわいい。美しい。愛らしい、守りたくなる。小さい頃から気づけば、恵民署で育った蝴蝶だったが誰からもそう言われ、物心つく頃には自分は恵まれた人間なのだと納得していた。

 それはただの自信過剰だけで終わらせないのが、蝴蝶という少女で、そう思われるように所作、言葉遣い、身嗜みを徹底的に磨きあげた。


 生薬がいっぱいに入った籠を、胸に抱えて恵民署の敷地内にある南の倉庫にぱたぱたと向かう。

 恵民署に客人など訪れる事は滅多に無く、いや、蝴蝶がこの恵民署で暮らしている限り一度も無かったため、一応存在していた応接間は半ば倉庫のように扱われていた。そのためこの元応接間を応接間に戻してやる作業と、恵民署の長の執務室の整理、患者の診察治療を全て行わなければならなく、とても慌ただしかった。


 どう考えても、応接間と執務室の件は一週間前から取りかかれたものだが、長が現実を受け止めきれず、今日の朝まで一切の片付けを許さなかった。

 こんなことがあるはずがない、嘘だと執務室の大きな机の脚にしがみつく長を諦めろ、と引き剥がしたのは、本当に先程の事で今やっと、応接間と執務室の整理が行われた。


 執務室は重要な書類も多いらしく、蝴蝶のようなただの給仕は、物置と化した応接間の片付けしか出来なかった。

 自己愛ナルシスト傾向が強く、自尊心プライドの高い蝴蝶がそれでも、上機嫌で片付けを行っていたのは他の医女同様、新しくやってくる長に浮かれていたからだ。

 真贋の程は目で見なければ分からないが、噂によれば若く眉目秀麗だそう。権力も申し分無く、見目も麗しいときて喜ばぬ女が居るわけなく。


 居た。


秤娘チォンニャン、楽しく無さそうね」


 南の倉庫からまた応接間へ向かう途中、いつもと様子が変わらない医女の名前を呼んだ。


「ええ、誰がこの恵民署の提調チェジョ(恵民署で一番上の役職)になろうと、私がやることは変わらないから」


 秤娘は蝴蝶と年は変わらないはずなのに、落ち着いている。悪くいえば常に冷めており、彼女に打ち解けている医女は居らず、一人で居ることが多い。常に誰からも愛され、囲まれ、明るい蝴蝶(の本人談)とは対照的な少女だ。

 そんな少女にも気を配り話しかける、という自分が大好きな蝴蝶は、そうね、なんて愛想だけの返事をする。

 そんな蝴蝶を秤娘はじとりと睨むなり、さっさと薬庫に向かってしまった。


(思っても無いことを言うだけにわざわざ話しかけてくれなくてもいい)


 蝴蝶の言動をただの取り繕った愛想だと気づいている秤娘は、心の中でそう悪態をついた。誰もが貴女の愛らしさに騙されるわけじゃないんだぞ、とも付け加えておく。

 そんな秤娘の気持ちもつゆ知らず、蝴蝶は小さな声で「なによ」と言って口を尖らせながら、応接間に向かった。


 常に愛されなければいけないので、蝴蝶は人の悪口も陰口も言った事が無い。無いだけで、苦手な人や嫌いな人が居ない訳では無い。

 先程会話をした秤娘は蝴蝶にとって苦手、むしろ嫌いに近い部類の少女だった。

 蝴蝶にとって周りの男は微笑むだけで落ち、女は誰からも愛されている立場だということを暗に分からせると、同じように愛してくれる。それを本当の幸せと呼ぶのかは分からないが、気持ちが良いので蝴蝶は幸せと呼んでいる。

 このように、蝴蝶は周りの人間など、扱うに容易いものであるはずなのに、秤娘だけは違った。

 一人で居るところに声をかけてあげても、老若男女問わず愛されている姿を見せつけ、こうするんだぞと手本を示しても、微笑んでも、手を触れても、上目遣いで見つめても。

 秤娘は冷たい態度のままだった。

 変わった子だな、という認識から苦手という認識に変わるまで、遅く無かった。が、苦手な相手にも話しかける自分に酔いしれる蝴蝶は、秤娘と関わるのを辞めなかった。


「秤娘にまた声をかけてくれたのかい?あの子も早く打ち解けられたらいいのにねぇ」


 二人の様子を遠巻きで見ていた医学訓導せんせいは、大きく出た腹を抱えながらそう言った。


「蝴蝶は偉いねぇ、誰にも優しくて」


 ほら、気持ちがいい。


 そう言わんばかりの笑みを口角に描いて、謙虚の言葉を口にする。こう言われたいがために、蝴蝶は秤娘に話しかけているに過ぎない。

 きっと秤娘が見ていたら、舌打ちでもしたくなっただろう。



 秤娘によって損ねられた機嫌を簡単に直した単純な蝴蝶は、また舞うような足取りで応接間と倉庫を往復した。



花精ファジン様がいらっしゃったようだぞ!」



 若い医学生の声が聞こえたのは、午の刻12じごろの事だった。

 なんとか、応接間も執務室も片付いた後で全員が胸をなで下ろす。


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