四、記憶喪失
「自分が誰だか分からない?」
柳のような女は困ったように、花精と
欄干の下から蝴蝶に声をかけた女は、どうやら自分自身が誰か、仕事は何なのか、家はどこなのか、それらがまるきり分からなくなってしまい、途方に暮れていたところを、親切な人に
(無茶なことを…)
恵民署は庶民のための医療機関とはいえ、治せるものには限界がある。むしろ、限界しか無いとここに務める者は、皆が皆そう感じている。
柳のような女の話を聞き、心の中で独りごちる蝴蝶もまた、そう感じる者のうちのひとりだ。
「ふむ…髪を触らせて頂いてもよろしいですか?」
花精が丁寧な断りを入れ、女から返事が返ってくると、だらりと流れる髪先の、少し上を優しく掴み、上に上げて地肌を確認する。
それを前、横、と少しずつずらしていく。
「これは」
声を漏らす花精の肩越しに、蝴蝶もなんだと背伸びをして覗く。
よく目を凝らして見れば、柳のような女の左こめかみより少し奥の周辺、髪がぱりぱりと、何かが乾いた拍子にくっついたように固まっていた。
黒髪なので分かりにくかったが、それは。
「怪我をしていますね」
血が乾燥し、固まったものだった。
「頭に痛みはありませんか?」
血の状態と傷の具合から見て、相当古くはないが、最近というわけでもなさそうだ。柳のような女は「触れば痛いですけどねぇ」と言うだけで、他の手がかりを話してくれるわけもく。
「手足のしびれはありませんか?」
花精の問いに、柳のような女は、自身の腕を上げて手の甲をちらちらと見るが、力が入らずに腕が落ちる、といった様子やとくに不快感を示す様子も、ない。「わからないです」とだけ返ってくる。
「蝴蝶、筆を二つ持ってきてください」
自身の背中側に立つ蝴蝶へ、振り返るわけでもなく頼んだ花精は、そのまま柳のような女へ幾つかの問いかけをする。
何をするつもりだろうか、と思いながらも言われたとおりに、診察室の机の上を物色する。
「よくこけたりしますか?」
柳のような女は続く花精の問いに、首を傾げ「わからないです」とだけ答える。
そこで蝴蝶が花精にそっと、二本の筆を差し出した。花精は礼を言うと、筆を一本ずつ両手に持ってみせ、持ち手の先と先をぴたりとくっつけて見せる。
「このようにやって頂けますか?」
そう言って、柳のような女に筆を手渡す。女も先程見たように、持ち手の先と先をくっつける。
「あれ、おかしいですね」
柳のような女は確かにくっつけようとしたが、先はくっつくどころか入れ違うばかりだ。
「けっこうですよ、ありがとうございます」
花精はにこりと笑い、不満足そうな女から筆を受け取る。
「先に、外の頭の傷を治しましょうか。蝴蝶、軟膏を」
傷薬、目を洗浄する薬、喉の腫れに塗る薬、よく使われるものは薬庫に行かなくても、部屋に常備してあるため、棚の丁度目線に入るところに置かれていた。
蝴蝶からその軟膏を受け取った花精は、柳のような女に「触りますね」と言うと傷のある方とは反対側の顎を少し持ち、片方の手で器用に髪を上げながら塗る。
「次に、貴女が鍼麻酔にかかる体質かどうか試験をしたいと思います」
さらりと言って立ち上がる花精に、柳のような女も蝴蝶もおいてけぼりにされる。
「鍼麻酔、ですか」
記憶を失っていない蝴蝶でも、その鍼麻酔という言葉には未だ慣れておらず、麻酔にかかる体質か調べたところで何をするつもりだろうか、と疑問に思うが、答えなど一つしか無い。
「ええ。おっと、ゆっくり立ち上がって下さいね」
柳のような女は立ち上がった花精についていこうと、診察室の椅子から腰を上げるが、平衡感覚を失い花精の腕に助けられる。
「貴女の記憶が安定しない病には、いくつかの原因が考えられます。精神的に辛い出来事があったとか、もしくは」
花精の足は施術室の方へゆっくりと向かいながら、鍼麻酔の試験を行う理由について説明していた。
「頭の中で血が固まり、それが記憶の邪魔をしているーーーーーとか。」
蝴蝶の一つしかない答えに信ぴょう性が出てくる。まさかとは思うが、喉だけでなく今度は頭を開け、その血を取ろうとでも言うつもりなのだろうか。
「もし、頭の中の血が原因であれば、痛みを伴う治療をしなければなりませんので、鍼麻酔が効くかどうかを予め確かめておきます」
蝴蝶の憶測は事実となった。そんな、玩具ではあるまいに、人の体を簡単に切って、貼ってなど出来るはずが無い。
「ではこの施術室にゆっくり、横になってください」
花精は施術台に横になる柳のような女を支えながら、ゆっくりと寝かせる。
「蝴蝶、园丁は…」
いつもならば花精について離れない园丁が居ない理由は、昨夜の当直の疲れを癒すために、仮眠室で仮眠をとっているためだ。
数刻前、蝴蝶が器具の勉強にやる気になったあたりで、花精が仮眠を取るように园丁に提案した。最初は上司である花精より先に眠れない、と断っていたが、花精が交代で自分も眠るからとなんとか押し切って、眠らせたのだった。
仮眠には十分な時間が過ぎ、柳のような女の来訪で、花精は眠る機会が無くなったのだが。
蝴蝶が「では仮眠室を少し見て参ります」と言ったあと頭をさげ、扉を背に花精から下がる。花精の姿が見えなくなったところで、くるりと扉の方へ向き、開けようと手をかけると。
だだだだ、と豪胆な足音が聞こえてくる。音からして男のものに違いないだろう。
蝴蝶がすっと扉を開くと。
「すまない、寝すぎた…!」
慌てて用意したせいだろうか、襟元は乱れ、普段から被っている帽子からは何本も毛が飛び出し、だらしない姿のまま、肩で息をする园丁の姿があった。
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