七、私の太陽



「ちょっと脅しすぎたかな」


 紗莉シャリーの部屋を後にした秤娘チォンニャンは、ぽつりと呟いた。

 正しく飲めば建康になれる、だが過剰摂取すれば赤子はどうなるか分からない。だからこそ、恵民署ヘミンソの信用できる医官医女じぶんたちを信頼して、他の生薬は飲まないようにしろ。

 要約すればそのような内容を、秤娘は紗莉に物凄い圧で、こんこんと説教したのだ。

 部屋を出る際に、すっかり怯えきって小動物のようになってしまった紗莉を思い出した胡蝶フーティエは、やりすぎたわねぇ、なんて呆れながら相槌をうつ。

 秤娘は秤娘なりに、紗莉の意識の高さを肯定しながらの指導を心がけてはいたが。


「こらーっ、ちゃんとするのよっ!」


 そんな事を話ながら、食事の確認をするために、この家の台所へ二人が向かっている最中、可愛らしい女の子の叫び声が響いた。


「あー、今日はこんなもんでいーだろ、あちーしさぁ」


 その声は庭から届いた。

 庭では、だるそうに頭を垂れた园司ヤンスーと、見知らぬ女の子が木刀を持って、稽古をしていた。


紗紅シャホン様、また剣のお稽古を?」


 誰だろうか、と秤娘が二人をぼうっと見ていると、蝴蝶がとびきりの笑顔で、女の子に声をかけた。


「あっ!蝴蝶────」


 紗紅と呼ばれた女の子も、蝴蝶の声に振り返る。

 履物が無く、园司と紗紅の方へ行けない蝴蝶に近寄ろうと、足を一歩前に出した時、見知らぬ女が居ることに気が付き、身体を硬直させてしまった。


「ご挨拶が遅れました。蝴蝶と同じく、恵民署の医女、秤娘でございます。」


 感情がそのまま態度に出てしまう、幼い少女へ、秤娘は袖を埋めて頭を下げながら、挨拶をする。

 しかし、秤娘が自己紹介をしても、紗紅は初めての人物に人見知りをしているのか、じろじろと視線を送るだけで、気まずそうにしている。


「ほら、お嬢っ、おめーも挨拶だよ、挨拶!」


 そんな紗紅を見かねた园司が、腰を落として視線を下げ、紗紅の背中をぱんぱんと叩く。

 そこで漸く、紗紅は重たそうに口を開いた。


「紗家の長女、紅です。」


 挨拶はぎこちなく、動きも言葉も固い。


「───何故、両班のお嬢様が剣の稽古を?」


 何か話さなければいけないと、秤娘は感じた。

 ぎこちない挨拶の空気を変えようと、秤娘は、先程ちらりと視線に入った、紗紅の皮がめくれた手のひらを思い出して、訊ねてみた。


「つよいと、いいからなのよ。」


 何が良いのか?何故強さを求めるのか?他にするべき勉学は?両親は知っているのか?強くなってどうするのか?

 図りの頭の中では、次々と疑問がうまれる。が、どれもこの気まずい状況を打破できるような、画期的な質問ではなかった。

 そもそも、状況を変えようと訪ねた質問の内容が、まず間違えていたのだと、今さら気がつく。


「紗莉ちゃん、秤娘に人見知りしてるのねぇ」


 明るい声で、警戒心をほどく笑顔で。

 廊下の床へ手をついて、蝴蝶は腰を落として、紗紅と視線を交わす。


「───べつになのよ。」


 図星なのか、紗紅は少し恥ずかしそうに、口を尖らせる。


「普段からこれぐらい、大人しいお嬢だったらいいのにな」


 园司の、従者とは思えない口ぶりに、紗紅が声を荒らげる。

 愛らしく笑う蝴蝶、恥ずかしそうにしながらも怒る紗紅、からかうようにけらけらと笑う园司。


 蝴蝶の言葉ひとつで、雰囲気が一変し、柔らかいものとなった。


 夏の暑さに、太陽の日差しに、まぶしさに、秤娘の視界はくらりと歪む。




『人見知りしてたら、恵民署ここではやっていけないわよ!ほら、こっち!』




 陽炎の中に、思い出を見た。


 秤娘にとって、夏とは出会いの季節。

 まさに唯一無二の太陽を、見つけた暑い日。

 今でも、太陽である彼女に手を引かれた感覚を忘れていない。


「なにぼーっとしてるの?」


 はっと顔をあげる。

 蝴蝶の声で、秤娘は思い出から帰ってくる。


「───ふと、思い出しただけ。」


 秤娘にとって、夏とは出会いの季節。

 こうして夏がくるたびに、出会った時の感情が蘇ってくる。


「なにを?」


 まさに唯一無二の太陽が、自分を見つけてくれた暑い日。

 あの日から、暑い夏の事を嫌わなくなった。


「私が貴女に出会った時のこと。」





 今でも、太陽である彼女は健在だ。






「それしにても意外よねぇ。秤娘が四年前だっけ?その事を覚えてるなんて」


 蝴蝶はくすくすと笑いながら、けれど嬉しそうに眉を下げる。

 一度も忘れた事などない、なんて言葉、秤娘は舌の上にも乗せずに、ただ頭の中で浮かべては処理をする。


「蝴蝶の方こそ覚えていたの?」


 园司と紗紅は、秤娘が思い出に意識を飛ばしているうちに、どこかへ行ってしまったようだ。

 寄り道をしてしまったが、目的どおりに台所へと向かいながら、言葉のやりとりをする。

 冷静クールに、無表情ポーカーフェイスに訊ねたように装った秤娘だが、内心穏やかではなかった。

 覚えていれば、今日一日の秤娘の機嫌はとても良いものになるだろうが、覚えてなければ、自身の心を深く抉るような、そんな、諸刃の剣のような質問だった。

 蝴蝶が答えるまで、一秒経つごとに、心臓が締め付けられるように、強く強く鼓動をうつ。



「覚えてたに決まってるじゃないっ」



 蝴蝶の明るい笑顔。眩しい、美しさ。


「そう。」


 あまりにも、自分に都合が良すぎる返答に、秤娘は短い言葉しか、発する事が出来なかった。

 彼女のたった一言に、一喜一憂してしまうこの現象を、秤娘はとっくに名前をつけていた。


「初めて会った時、秤娘は前髪で顔が見えなくて、暗い印象があって。───そういえば、いつの間にか前髪をあげるようになったのね」


 昔、貴女に前髪を上げた方が良いと言われたから。なんて、秤娘という女は言わない。

 きっと、その場しのぎの会話に過ぎないそれを、覚えているわけがない。

 そう分かっていながらも、言われたことを忘れられずに、あの日から前髪を上げているなんてこと、知られたらどう思われるだろうか。

 そんなふうに、色々な感情を胸の内でかき混ぜる。


「やっぱり、私の目に狂いは無かったわ。秤娘は前髪を上げている方がかわいいわよ!」



 刹那、時が止まった。

 夏の暑さが、吹き飛んだ。


 瞬間、優しい風が時間を運んだ。

 夏の暑さよりも、熱い何かが込み上げた。



 あんな、他愛も無い会話を覚えていたなんて。

 ただただ、秤娘は床を見つめた。


 初めて出会った時は、ただの憧れだった。


 秤娘は、改めて蝴蝶を完璧だと評価する。

 愛らしく、毒気もなく、何を言われると喜ぶか把握しており、些細なやり取りでさえも記憶している。

 あまりにも、完璧すぎる。

 そんな彼女への憧れは、当たり前のように恋へと変わっていた。







「─────ほんと、ずるい。」




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