二十三、蝶を救え
「今すぐ私の術式道具を全て、煮沸消毒しなさい!」
飛ぶようにして、
「花精様、花精様、どうされたのですか、蝴蝶が、」
花精に抱きかかえられたまま、ぴくりともしない蝴蝶を心配して駆け寄ったのは、彼女と歳の近い医女、
「あぁ、なんてこと、蝴蝶、しっかりして、蝴蝶」
いつもは蝴蝶に冷たく、また何事にも冷めた態度を崩さない彼女が酷く取り乱して、蝴蝶を呼びかける。
花精は突然の変化に多少は驚くが、これは蝴蝶を渡す人物を探す手間が省けた、とそのまま蝴蝶の身体を秤娘へゆっくりと渡した。
「すまないが秤娘、そのまま蝴蝶を施術台へ。私は着替えてくるので!」
秤娘の了承など聞いている暇も無い、といったように花精は長い、長い髪を揺らし、颯爽と姿を消してしまう。
秤娘は鉛のように重い蝴蝶の身体を何とか支え、
なんとか
蝴蝶の様子を見ていたかったが、不衛生なままで施術室にいつまでも居るわけにもいかず、秤娘や羊然達が施術室の前をうろうろと歩き回っていると、術式の際に着用する、全身を覆うような白衣に身を包んだ花精がやって来る。
「蝴蝶をどうか」「花精様」「花精様お願いします」
彼らは口々に思いを乗せる。花精はただ一度だけ頷くと足早に施術室へ入り、戸を閉めた。
「蝴蝶」
初めて、施術台の隣が空いている事に寂しさを覚える。
初めて、憎らしい言葉が返ってこない事に寂しさを覚える。
初めて、不安を。
初めて、自失を。
初めて、君を。
渦巻く感情の吐露をしている暇など無い。
蝴蝶の腹部に巻かれた、园丁の服を破って作った救急用の包帯を、剥がしてゆく。
乾いた血がぺりぺり、と音をたてる。負傷部分と簡易包帯は、軽く癒着を起こしている。
慎重に剥がしきると、花精は一つだけ言葉を漏らした。
「神業を成す手、か」
花精は自分の手で、縫合糸と
自身の国に居た時もそう言われ、また园丁にも、あのおじさんにも、神業という言葉で絶賛された。
この手でその賞賛を、何度でも浴びてやろう。
「──終わりました」
施術台に二人が入ってから、花精だけが出てきたのはそう遅くない。否、皆が予測していた時間より早すぎた。
帽子と
「無事、術式は成功。後は蝴蝶の意識回復を待つだけです」
花精の言葉に、施術室前で今か今かと待ちわびていた者達はわっ、と声をあげて喜ぶ。それだけでなく、庭の茣蓙の上の診察場で仕事をしていた医官、医女、医学生、患者全員が蝴蝶の無事に手を叩いて喜ぶ。
「よかった!」「流石花精様だ!」「早いもんで俺ァもうだめかと」「本当によかった」「間王国一の美人を喪う所だった!」「蝴蝶ちゃん、心配だ」
それはもう、文字通り、皆が皆、喜んだ。
花精も同じように顔を綻ばせると、やっと捕盗庁に男の身柄を届けに行って、帰ってきた园丁を呼びつけるなり、蝴蝶を個室の病室へ運ぶように言う。
「花精様は本当に神業をやってのける」
誰かが、そう、口にした。
花精はその言葉に、ふっ、と笑い、
「当然ですよ」
そう言って蝴蝶を抱えた园丁と共に、病室へと入った。
ふわりと優しく、傷に響かないよう蝴蝶を
そして病床へ椅子を寄せるなり、花精はそこに座り、蝴蝶の小さくて、酷使されて少しだけ硬くなった手を大きな両手で包み込んだ。
「私も、祈りましょう」
园丁は主人のその姿に何を思ったのか、すぐに退室しようとしていたのをやめ、花精の傍でただ控える。
「园丁、ありがとう」
この声色は恵民署の
「何度お前に助けられただろうか」
伏せられる長いまつ毛の奥では、昔を描いているのだろうか。
「貴方のお力になれているようで、よかったです」
花精が园丁に対等な心を寄せているというのに、园丁は少しだけ、わざと、壁を作っている。
「助けてくれるのは、お前がおじさんの家臣だからか?」
花精は蝴蝶の手を握りしめたまま、园丁に問いかける。しかし、园丁から返事が返ってくることは無い。
やはりな、というように花精はため息をつくと、次の言葉を紡ぎ出す。
「お前は怒るかもしれないが、どうやら私は蝴蝶を──」
花精が全てを言い切る前に、病室の戸が開かれる。
二人してそちらを見ると、そこには秤娘の姿があった。
「私も、蝴蝶が目覚めるまで、傍に居てもよろしいでしょうか」
秤娘は恭しく頭を下げる。
花精も驚いた表情を緩めて「良いですよ」と言うと、花精が握っている方とは反対側の蝴蝶の手を握った。
「あの、私も、良いですか。」
少しだけ、自信が無さそうに現れたのは、柳のような女。
蝴蝶と外へ出て以来、満足したのかちゃんと病室で安静にしていたはずが、蝴蝶の危機を聞きつけて病室までやってきたようだ。
「もちろん、良いですよ」
すると柳のような女の顔はぱっと明るくなり、秤娘の隣で蝴蝶の目が覚めるのを待つ。
これを皮切りに、我も我もと色々な形で蝴蝶を慕う人間が、病室に入ってくる。
養父である羊然はもちろん、姉のような立場である甲紫、彼女に恩のある医女や、彼女へ下心をずっと持っていた医官まで。
「蝴蝶、こんなところにいたの」
遅れてやってきたのは元牛。
秤娘がどこに行っていたのかと聞くと、蝴蝶に一緒に花精を探すように言われ、恵民署を出てから今の今まで事件を知らずに外を歩き回り、疲れたので帰ってきたのだそう。
病室に溢れかえる人になんの騒ぎだと聞いて、やっと蝴蝶の危機を知り、人を押しのけて花精の隣で蝴蝶の顔を覗く。
そして涙を溜めながら、自分もここで蝴蝶が目覚めるまで、てこでも動かないと言った。
(多くの者に愛されているな)
花精は一気に賑やかになってしまった蝴蝶の病室で、誰にも見られないように口元を緩ませ、そして心の中で語りかけた。
(これだけの者達が、皆、お前の目覚めを待ちわびているんだぞ)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます