怪しい炎〜完〜

二十二、怪しい炎⑪


「何を、しているのですか」


 少しばかり薄暗い、恵民署ヘミンソのすぐ側の路地にて後ろずさり、たじろぐのは花精ファジン。仮面のような笑顔が外れかけた所以は、輪郭も溶けるほど暗い向こうに、縛りつけられ、濡れた雲嵐ユンランの姿があるから。ただ水に濡れた様子ではない、独特な匂いからそれは、灯りをともすための油がかけられているのだろう、と理解できる。


「あんた、写萬シェワン春の君おうじだな?」


 ゆらり、ゆらりと怪しげに歩みよる男は、雲嵐の同僚だという捕盗庁の男。

 逃げなければまずい、と本能が訴えかけているというのに、花精は足が縫い付けられたかのように動けなくなる。


「何故、それを」


 逃げ出すことも、こんな事はやめるように諭すことも出来ず、花精は肯定ともとれる質問を返してしまう。


「ふっ、ふふふ、ふ、女房から、聞かされてたんだ、春の君が、お前が、この国にやってくるから、だから、写萬との交易が、盛んになるって、な」


 ゆっくりと近づく男の手には、柄が手に収まる大きさの包丁、牛刀が握られている。


「なのに、なんでだ、なんで!お前が、お前がもってきた、お前の国の、たべもので、お、俺の女房が!女房が!!お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいで」


 男の言葉は次第に、感情が多く乗るようになり、最後には言葉というよりも、叫び声に近いそれになっている。花精はその異常さに気圧され、ただただ立ち尽くしていた。


「この国も、俺の女房が死んでも知らんぷりだ!国は、儲けのために、お前の、お前の国のたべもので、俺の女房が死んでも、無視して、交易を続けようとする!だから、だからもっと、しっ、知ってもらおうと、思って、あちこち、燃やしてやったのに」


 事態は非常に勝手に、かつ急速に、悪い方向へ向かっている事が、肌で感じて分かる。


「あれだけ、あれだけ燃やしてやったのに、なんで、なんで誰も、知らないんだ、火事のことをっ!!!!!」


 最早、男の主張はすり変わってきている。愛する女房を亡くした悲しみを、存在を訴えていたはずが、自身の残虐な行為が世間に知られていないことへ、怒りの矛先を向けている。


「それは!」


 声を荒らげたのは花精ではない。雲嵐だ。


令監ヨンガム様は、この放火事件の犯人を捕盗庁の人間によるものだと


 雲嵐の語りかけに、男の意識が雲嵐へと変わってゆく。刹那、花精は雲嵐と目が合う。これはきっと、花精に逃げる機会を与えるがための語りかけだろうということが分かる。


「だから令監様は、捕盗庁の内部にも、外部にも、放火事件の情報に一切の箝口令を敷き、俺だけに調査を任せた!」


 果たしてそのような事が真実だろうと、虚実だろうと花精にも、男にもどうでもよい。花精はこの場から逃げ遂せる事が出来れば、男は──。


「そうか」


 先程まで感情を剥き出し、やや雲嵐の方へ注意を逸らしていた男が突然、冷静に一言だけ呟いた。そしてすぐに言の葉を紡ぐ。


「ならば、春の君が死ねば、令監様でさえも隠していられなくなるな!!!」


 怒号、衝撃、風、殺意、瞳。


 花精は全ての情報を、死を前にして受け取る事を脳が拒否していた。逃げるための足さえ出ない。

 人とは、自身の命の瀬戸際には何て、弱いのだろうか。死んでしまえば母に、に、园丁ヤンディンに、なんて謝ろうか。

 蝴蝶フーティエに、なんて言おうか。



「花精様ッ!!!!」



 脳を揺らす衝撃だけを理解する。


 やけに冷静に、これが刃を立てられる痛みなのだろうか、と考えていると、今一番声の聞きたかった人物の、自分を呼ぶ声と、鮮血が視界に飛ぶ。

 どさり、と地面に倒れる。

 何かにぶつかられた痛み以外に何も無いが、身体が重たい、何か暖かい。

 花精は不思議に思い、腰元を見ると、自身に抱きつくようにして倒れる、蝴蝶の姿が。


「蝴蝶…?」


 何故、彼女がここに?何故、自分に体当たりを?様々な疑問と、憶測と、自問自答が飛び交うが、視覚に入ってきた赤色の情報に全て消える。


「蝴蝶!」


 慌てて蝴蝶の肩を抱くと、気を失っているのだろうか。顔を苦痛に歪めたまま、返事が返ってこない。

 花精の医服はやけに赤い血が目立つ。否、目立たせるために着ているのだが、今だけはそれが腹立たしい。

 蝴蝶の右脇腹からとめどなく溢れる血液に、花精は自分が自分で無くなったかのように、冷静さを失う。


「危ない!」


 蝴蝶を抱きかかえたまま、傷口を手で強く抑えてなんとか止血しようとしていた花精に、今度こそ狙いを定めた男が、天に刺すほど大きく、牛刀を振りかぶる。雲嵐の声で漸く、危機から脱していない事を思い出すが、花精は蝴蝶を守るようにして覆い被さる事しか、出来なかった。


「花精様!」


 もう駄目だ、と雲嵐が縛られ、身体の自由が効かない自分を呪いながら、瞳を堅く閉じた時、花精の名を呼んで現れたのは园丁。

 园丁は怯むことなく、相手の動きを見て、先を予測し、牛刀を握っていた右手首を掴んで捻りあげ、牛刀を手放させ、転げ落ちた牛刀を遠くへ蹴る。

 そのまま、身体の重心が前へ行った男の背後に回り、男の肩の上から腕を回し、二の腕で男の咽喉を締め上げる。

 男は抵抗をする間もなく、腕をだらりと垂らし、意識を手放した。

 捕盗庁に務める雲嵐でも息を呑むような体術に、彼が医官だということを忘れさせる。


「ヤ、园丁、蝴蝶が」


 ぐったりとしたまま動かなくなってしまった蝴蝶の腹部を抑えたまま、美しい顔をくしゃくしゃに歪め、半泣きで花精は縋るようにして、园丁の名を呼ぶ。


「しっかりなさい!貴方の手は何のためにあるのです!」


 大きな瞳を潤ませて縋る花精に、园丁は大きな声で叱りつけた。


「人を、救うためでしょう!!」


 园丁の大きな手のひらが、血で汚れた、まだ薄い花精の手を掴み、花精の瞳をしっかりと視線で貫く。


「────あぁ、──あ、そうだ」


 园丁は最も苦手な、血の生ぬるい感触と匂いに、今度は自分が意識を飛ばしそうになるが、何とかこらえ、主人が冷静さを取り戻すのを待つ。



「蝴蝶を、救う。」





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