二十一、怪しい炎⑩
「あの、あいつもこの
朝餉の時間。いまだ
あいつとはもちろん、雲嵐の同僚の男のことである。昨夜、その男に雲嵐は皮膚を貰ったのだと教えて以来、様子が変だったが、どうやら一晩で何か心境の変化があったようだ。
蝴蝶は雲嵐に、なにも疑うことなく、あの男の部屋を教える。雲嵐が礼を言うのを聞き届けてから、蝴蝶は膳を片付けて病室をあとにする。
一人病室の
「お前も苦しんでるんだな。──次は俺がお前を助ける番だ」
雲嵐の決意を聞く人間は、居ない。
「蝴蝶、蝴蝶!」
膳を下げに台所を訪れた蝴蝶は、慌てた
「甲紫ねえね、どうしたの?」
ふっくらとした指で蝴蝶の腕を揉む様子から、彼女は相当に焦っているようで。
「牛刀が一本、無くなったんだよ、あんた知らない?」
甲紫の言葉に蝴蝶は、えっ、と声をあげてしまう。蝴蝶の記憶が正しければ、昨夜の夕餉を作り終えて調理器具を片し、点検した際にはあったはずで、無くなる理由に検討などつくはずがない。
今朝の朝餉は片付け後、点検を途中で抜けて配膳に回ってしまった。
「知るわけないわよ、隙間に落ちてたりしなかった?」
蝴蝶は慌てて割烹着に着替えながら、甲紫に尋ねるが、台所内はあらかた探し回った後だと言う。
誰かが外へ持ち出す理由も、何かのきっかけでたまたま外へ出てしまう理屈も、分からない。蝴蝶が恵民署に居た間、一度も聞いた事ない事件に、台所にて調理を担当した医女も、蝴蝶も何が最善策か分からない。
とにかく情報収集をする。全員から、牛刀を見た最後の記憶を尋ねてゆく。牛刀は掌に収まりやすく、刃に癖が無く、刀身も大き過ぎず、小さ過ぎず。肉や葉野菜など、用途をそれぞれ決めてよく使うため使用頻度が高く、情報が多すぎる。
しかし結局、その牛刀の目撃情報は、夕餉終了後の点検が最新であった。
「探しまくるしかないわね」
それから、蝴蝶達は台所を必死に探し回った。滅多に使用しない銀食器棚の裏や、せっかく漬けた
時刻にして、一刻半ほど探していただろうか。それ程までに探し続けても見つからない、一本の牛刀を憎らしく思いながら、全員が床に腰を落としていた。
「紛失物届けを出すしかないわね」
もうここまで探したのだから、と全員が諦めの
だいたいの紛失物はそれで終わりだが、牛刀は前述の通り、とても使い勝手の良い代物であるため、すぐに代わりのものを用意してもらえるよう、掛け合わなければならない。
雅やかたる提調に紛失物届けを出した挙句、すぐに代わりのものを用意して欲しい、などと言えるのは蝴蝶ぐらいしか居ないだろう、と誰もが口にせずとも心のうちに抱えていた。蝴蝶もそれを察して、自分から言い出し、立ち上がり、台所を後にしたのだ。
──────────
場所は変わり、建物の隙間からの光しか差し込まない路地。恵民署からそう遠くない場所に、二人の男の姿が在った。
「お前が俺を助けるために、皮膚をくれたって聞いて、一晩中考えたんだ。」
一人は雲嵐、もう一人はあの、男。
「本当はお前も苦しいんだよな、じゃなきゃ、俺を助けるなんてしないはずだ」
雲嵐はゆっくりと、親愛を込めて歩み寄る。男は何も言わない。
「連続放火犯であるお前の犯行を、直接見た俺を助けるなんて。」
男の後ろ手には台所から紛失したはずの牛刀が、隠すように握られている。
──────────
「へえ、お前でも無くしものはするんだな」
作り物の笑顔も、妙に柔らかすぎる敬語も取り払った、羨望の的であるはずの提調、
「なんとでも仰って下さい」
花精は何か言い返してくるかと思ってそう言ったが、素直に受け止める蝴蝶に驚く。自身の仕事に非常に高い誇りを持っている彼女は、物を無くすという初歩的失敗に、彼女なりの落ち込み方をしているようだ。
「まあ、まあ、そう落ち込むな、私の調子まで狂うだろう。次からは気をつければいい話だ」
許されるための計算ではなく、本気で落ち込んだしおらしさに、花精はやりにくさを感じながら、蝴蝶から紛失物届けを受け取る。
「それで、恥を上塗りの覚悟で、申し上げさせて頂くのですが」
いつもよりも深く、深く頭を下げて頼み込む蝴蝶に、こんなへりくだる事が出来る女だったのか、と執務室の机に頬杖をつきながら見やる。
「牛刀は、その。とても普段使いがしやすく、調理の際の要、と申しても誇張ではない包丁でして。その、すぐにでもご用意して欲しく──」
言葉を一文字発する事に頭を下げていく蝴蝶に、そのうち地面と額が仲良しするのではないかと、心配する。花精はもとより、そんな頼まれ方などせずとも、すぐに用意してやるつもりだった。なので、そう言おうと口を開いて、とある事を思いつく。そして、花精の表情は心配から、いたずらっ子のような笑顔に変わる。
「そうだな、では条件を出そう」
蝴蝶は頭を下げたまま、花精の顔を見ずとも、声色からこれはくだらない事を頼まれるな、と察した。
「
蝴蝶は食物庫に残りの馬鈴薯を取りに、向かっていた。恵民署の敷地内にあるが、少し人気の少ない所へ向かう為、庭の診察場から聞こえる賑やかな声は遠く、蝴蝶の独り言だけが、やけにはっきり聞こえる。
あの男が毒だと言って叫んだ馬鈴薯を、花精も好物とはいえ、よく懲りずに食べる事が出来るな、と呆れながら歩いていると、足先にこつん、と何かが当たる。
「馬鈴薯?」
それは、形は最早見慣れた馬鈴薯の輪郭をしているが、土色だった表面とはうって変わり、真緑に変色していた。
手に取って見てみると、どうやら日の当たっていなかった裏側は土色で、ちゃんと馬鈴薯だと言うことがわかる。
真緑に変色してしまった馬鈴薯を見ながら、花精が馬鈴薯は日に当てると、もっと足が早くなって食べられなくなる、と言っていた事を思い出し、納得する。
「これって」
蝴蝶の中で、考えがひとつに纏まる。
足が早い馬鈴薯は見目や、味の劣化の問題で食べられないのではなく、日を置くことで毒物を産生する、という意味で食べられないのだとしたら?
そして、柳のような女と
「見つけた、毒の正体!」
蝴蝶はそのまま、馬鈴薯を手に執務室へ走る。執務室の戸を開け、花精の名を呼ぶが、机上の書類と戦う彼の姿は無く。
こんな時に何処へ行ったのだろうか。恵民署内であれば、黄色い声のする方へ行けば、自ずと出会えるのだが、何故か、どこにもそんな声は聞こえない。
不思議に思いながら、恵民署の門の前をうろうろと歩いていると、蝴蝶に声をかける、一人の女の姿が。
「あの、花精様が馬鈴薯について、意見を聞きたいとのことで来たのですが、どちらにいらっしゃいますか?」
素朴な顔立ちをした女は、慣れない場所に萎縮していたというのに、丁度良い
「あの、聞きたいのですが、馬鈴薯がこのような状態になったら、食べられないというのは、つまり」
まくし立てるように話しかけ、言葉の最後は答え合わせをするために黙る。
「はぁ、あぁ、そうです、毒になるので。といっても健常な人は腹を下すぐらいですけど。身重の方は特に気をつけるようには、まぁ。」
なんとも歯切れの悪い回答ではあったが、本当にこの馬鈴薯には毒が、否、毒を産生する事が分かった。
とにかく花精を探さないと、と診察場でとりあえず
「园丁様!」
極楽の表情を浮かべる老婆を見て、よし、と小さく拳を作る园丁のもとへ駆け寄る。
「蝴蝶、そんなに慌ててどうしました」
园丁の後ろを順番待ちしている老人達も、どうしたどうしたと、愛らしい
「花精様を知りませんか?」
园丁はすぐに「執務室に居るはずでは」と言ったが、既に探した後だからこんなにも焦っているのだろう、と察して頭をかかえる。
「すみません、治療に専念、というか患者の方々に囲まれていて、というか」
なんとか歯に衣を着せたような物言いで言うが、要するに园丁は高齢の患者にとって腰痛、膝痛、肩こり、首こり、その他もろもろ、身体の調子を治してくれる神様、そういった
「花精様を探してるの?」
老人達に囲まれ、がっくりと項垂れる二人に話しかけたのは元牛。
「知ってるの!?」
蝴蝶はすぐさま、元牛にそっと手をあずけ、身を近づける。突然の至近距離に、元牛は鼻の下を伸ばして答える。
「ん、あ、あぁ、ほら、ずっと入院してる、皮膚をあげた人の方が、外に連れ出してたよ」
問題の渦中に存在するあの男が突然、話題の中に現れ、蝴蝶は言葉に出来ぬ不安感を覚える。
あの男の家には、大量の毒と成った馬鈴薯があった。あの男には身重の女房がおり、馬鈴薯の毒は身重の女性には特に気をつけなければいけない。
あの男の家には、馬鈴薯だけでなく、西の国の、否、花精の出身である
昨夜、花精と話している時、謎の物音がしたが、あの男が不審な様子を見せただけで、他に何も異常が無く、その後、台所の方向へ歩いていった。
もし、馬鈴薯によって、女房と子供が死んでいたら?馬鈴薯を輸出している国である、写萬国を恨んでいるとしたら?昨夜花精が、故郷から取り寄せた馬鈴薯を持ち帰って良いか、と尋ねてきた内容を、あの男が聞いていたとしたら?あの男が、台所に向かった後、牛刀を盗み出していたとしたら?
偶然が偶然を重ねて、必然だったかのように辻褄が合う。
「花精様の身が危ないわ!!!」
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