二十、怪しい炎⑨
思考を整理しようにも、うまく纏まらない。具体的な目標、あの男が毒だといったものの正体を掴むといったことは決まっているのに、一向に辿り着く気配が感じられないせいか。
しかし、妻が西の国、つまり
あの男については、毒だけではない、なにかが蝴蝶の中ではずっと引っかかっていた。それが何とは言えないのだが。
「蝴蝶殿?」
考え込むあまり、粥を掬った匙を止める蝴蝶の顔を覗き込むのは
名を呼ばれ、我に返った蝴蝶は「ああ、すみません」と言って匙を雲嵐の口へ運ぶ。
捕盗庁から帰り、夕餉の準備から仕事に戻った蝴蝶は現在、雲嵐の夕餉の食事を提供している。未だ雲嵐から食事をする際に、介助が必要だという申し出があるので、そうしている。
外はぼんやりと暗くなっており、昼間の暑さの余韻が残る。そろそろ
「あの、ん、もぐもぐ、私はいつまで、んぐもぐ、ここに居る、あーん、もぐ、必要が?」
話そうとする雲嵐の口元へ、悪戯心で匙を持っていけば普通に食べてしまうので、それが可笑しく、つい何回もしてしまう。
「退院についてですか。それは主治医の
話しながらも粥を食べさせ続け、最後の一口を口にした雲嵐は、蝴蝶の言葉に肩を落とす。
「そうですか」
少しだけ重たい空気が流れたまま、雲嵐は本日の夕餉を全て完食し、もう一度口を開いた。
「そういえば、私に皮膚をくれたという方は、どんな方なのですか?」
その問いに、蝴蝶は驚いて、膳を片付ける手が止まってしまう。ここへ入院して数日になるが、誰の皮膚を貰ったかなんて、とっくに
蝴蝶はよかれと思って、彼の同僚、あの男の名を告げる。
「──ッ!?」
雲嵐は驚きのあまり大声をあげようとしたのか、焼けてやっと治ったばかりの喉では掠れた空気が漏れるだけで、すぐに咳き込んでしまう。蝴蝶は何をそこまで驚いているのか分からないが、すぐ背に回ってさする。
「何故、あの男が?私を助ける義理などあるはずが──。」
雲嵐が驚いた理由に、蝴蝶は驚く。捕盗庁では人の命を助ける事に理由がいるのだろうか、と思ったからだ。
「同僚の方であれば、それが普通ではないのでしょうか」
蝴蝶は雲嵐の背中をさすり続けながら、なかば諭すようにそう尋ねた。
「違う、そういう意味では───すみません、一人にして頂けますか」
彼は思考を整理しているのか、だんだんと咳も落ち着きを取り戻していき、そう願う。丁度夕餉も全て食べ終えた所なので、なにもなければ退室する予定であった蝴蝶はそのまま、雲嵐の言うままに病室から出ていく。
「おや、蝴蝶」
雲嵐の病室を出てすぐ、天使の囁きのような美しい声で蝴蝶の名を呼ぶのは、恵民署の
蝴蝶は半日外に出かけて顔を合わせなかっただけで、久しさを覚えながら頭を下げる。
「
花精の期待した問いかけに、蝴蝶は顔を上げることが出来ないまま、首を横に振って「いいえ」と言葉でも答える。
「私も今、植物学者に尋ねているところで。はあ、余った馬鈴薯はどうしましょうか」
憂いを帯び、その白い手を頬に添えため息をつく姿は実に妖艶で、今が人の多い昼間の時間帯であれば女の急患が増えたであろう。
しかし、蝴蝶に花精の魔力が通じるわけなく、ただ花精の言葉に心底同意する。また次の日も献立に出そうと思っていた余りの馬鈴薯は、日の当たらない蔵の中で眠ったままだ。
「私が
この恵民署の提調であるのだから、別段給仕の責任者でも無くなった蝴蝶の許可を取らずとも良いのに、きっと処理という名目で腹を満たす事に多少の罪悪感があるのだろう。その証拠に花精のそう尋ねる瞳は輝いている。
子供のような顔もするんだな、と蝴蝶が思った刹那。そう遠くない場所で大きな物音がする。
呑気な会話をしていた二人と园丁は、物音の方へ一斉に顔を向ける。「まさか
「このあたりのはずですけど」
三人は注意深く周囲を見渡し、あるいは病室の中に直接顔を覗かせて確認したが、異常は見つからなかった。残るは雲嵐の同僚である、あの男の病室の前。まさか容態が急変するような病人ではないが、念のために確認しておくに越したことはない。
「おっと」
花精が男の病室の戸を開けると、丁度男も、この病室を出ようとしているところであった。
「このような時間に、どこへ?」
庶民たちの診察も受付を終了し、夕餉を終えたような時刻。男は外に何の用があるのだろうかと、花精が尋ねると、少し動揺した様子で「外の空気を吸いたくて」とだけ言うと、花精と戸の隙間を縫うようにして、出ていってしまった。
「ふむ、中は何の異常もありませんね」
そうして、方角にして、台所がある場所へ伸びる廊下を歩いていく彼の背中を見ながら、花精は言う。
結局物音の正体は分からず終いであったが、病人に何の異常も無いなら、特に気にすることは無い。
「まぁ、ここは恵民署ですからね。病に連れてゆかれ成仏しきれない死者の」
「蝴蝶」
音の正体が掴めないせいで、なんとなく気持ちの悪い空気を変えようとして話し始めた蝴蝶を、花精は珍しく怒気の篭った声で遮る。蝴蝶がはっと花精の顔を見れば怒気というよりも、焦りや恐怖も乗った表情を浮かべていた。
「そういう話題は人を選ぶので、やめなさい」
なるほど。
諌めるようにして話す花精の強く握られた拳を見て、蝴蝶は心の中でほくそ笑む。
(さては、この手の話が得意では無いのね)
顔立ちは良く、権力も申し分なく、さらに手に職のついた高い技術を持ち合わせた、非の打ちようがない、という言葉が足を生やして歩いているような彼の弱点を見つけた蝴蝶は、しっかりと記憶に刻む。
「は、話を変えますけど、コホン、あの、余った馬鈴薯ですが、今夜持ち帰っても良いですか?」
あまりにも苦しすぎる話題変換に、蝴蝶は慌てて袖で口元を抑える。园丁も花精からそっと顔を背け、蝴蝶と同じように袖で口元を抑えている。花精はそんな二人の顔を何度も交互に見渡した後、口を尖らせてしまった。
「いいです、いいですよ、好きに思えばいいじゃないですか!馬鈴薯は持って帰りますから、じゃあ私はこれで上がりますね」
捨て台詞のようにまくし立て、退勤を宣言すると蝴蝶の隣をさっと通り、肩を震わせる园丁を連れて食物庫の方へ歩いて行く。
「お疲れ様です、花精様」
そう言って見送りながら頭を下げる蝴蝶の口元は、にやにやと歪んでいた。
「ふう、結構余ってるな。芽が出始めたものもちらほらある」
小さな籠に馬鈴薯を数個入れ、抱える花精はそう独りごちながら、緑の小さな芽がぷつぷつと顔を覗かせる馬鈴薯を見る。
「まあ、芽は取れば大丈夫だな」
何個かは食物庫に残しておいて歩きだそうとした花精に、园丁は「私が持ちます」と言って籠をなかば奪い取るようにして持つ。
その際に、ぽとりとひとつの馬鈴薯が落ちる。
しかし、日が沈み暗い環境では花精も、园丁も、馬鈴薯が落ちたことに気づかない。
「どう調理してもらおうか」
蝴蝶には
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます