十九、怪しい炎⑧
「もしそうだとしたら、あの門番さんに言った事を訂正しないと、私の命が危ないわね」
この捕盗庁には、事件について知られたくない人物が居る。もしその理由から、口を閉ざさなければいけないとしたら、蝴蝶がこの捕盗庁へ訪れたはじめ、門番に尋ねた内容を訂正しなければ、あの
聞き込みをするにも、まずは早いうちに門番に訂正をし、そこからついでに聞けばよい、と蝴蝶は歩く足を早めた。
「あの、門番さん」
蝴蝶が最初訪れたように、同じ位置に立っていた門番を、今度は捕盗庁の敷地内から呼びかける。対に立つもう一人の門番は、何故こいつにばかり話しかけるのだと恨めしそうに見ている。
「どうした?」
話しかけられた門番はどこか得意げに胸を張って、不安そうな蝴蝶の方へ近寄る。すると蝴蝶は、袖から覗く白い指をちょい、ちょい、としてもう少し自分の方へ寄るように促す。
なんだなんだ、と門番は不審そうにするが、顔を赤らめ満更でも無さそうどころか、在らぬ期待まで抱いているに違いない。
それを知ってか知らずか、蝴蝶は両の手のひらを口元で囲うように隠し、背伸びをして門番の耳元へ近づこうとする。
最早こうなっては、門番の取り繕いなど無に等しく、口元はだらしなく緩み、少しでも彼女に近づこうと膝がゆるやかに曲げられている。
「あの、先程、ここに務める方が火事に遭って
門番は期待していたような話とはかけ離れていた話題を持ち出され、呆気ない顔をしながらも何度か頷く。
「あれ、私の勘違いで──
あの部屋でそんなことがあったのか、と察した門番は、ふと蝴蝶を見やれば、大きな瞳から今にも、鍾乳石から垂れ落ちる長年の時が生み出した奇跡の一粒程に美しい涙が溢れそうだ。
「令監様は今回はお許し下さったんですけど、この失敗を恵民署の
蝴蝶の演技はまだまだ続き、門番もその哀しそうな、哀しそうな姿に本気で心を痛め、何か力にはなれないかと、おろおろしている。
「そなたの上司はそれ程までに厳しいお方なのだな」
なんとか慰めようと、とりあえず蝴蝶に共感するところから始める門番にたいして、上手くいっている事を確信した蝴蝶はその言葉へ乗る。
「えぇ、それはもう、本当に本当に恐ろしい方で」
「そんなにもか!た、例えば?」
「──言葉にするのもはばかられます、あんなことや、こんなことを」
「なんと!あんなことやこんなことまで!?」
門番が一体どんな想像をしてしまったのか、蝴蝶は知ることなど出来ないが、彼の預かり知らぬ所で勝手な
「それで、この事についてお話したのは貴方様だけですので、どうか、私がお話した事は誰にも言わないで下さいますか?」
大きな瞳を潤ませ、懸命に門番をうつすその姿に不信感など抱くわけもなく、門番は自身の胸を叩いて「任せろ、そなたは俺が守ってやる」と息巻く。
うまくいったようでよかったと、門番の見えぬ所で胸を撫で下ろす。
「それと、もう一つ尋ねたい事があるのですが」
名前も知らぬこの美しい少女が、唯一頼れる存在だとすっかり思い込んだめでたい門番は、今ならば多少の金ぐらいすっと出してしまいそうな勢いで、蝴蝶の願いを叶えようと、快く「言ってみなさい」と言う。
蝴蝶は、あの男の名前を出す。どうこの男の話題に繋げようか悩んだものだが、すっかり盲信的になってしまった門番は怪しむ様子を微塵も見せずに、蝴蝶が一番聞きたいあの男について話し始める。
「あぁ、確かにあの人には奥さんが居たよ」
含みのある言い方に、「居た?」と復唱してみる。
「半年前ぐらいに、交易でそこそこに儲けていた中級商人の娘さんと祝言を挙げるわ、子供も身ごもったわでトントン拍子のように上手くいってたんだが」
これまでの話し方と、門番の表情を見れば、だいたいどのような事があったのかは想像がつく。
「ある日突然死んでしまったんだ、お腹の子供諸共な」
男を憐れむように、しんみりと言う。
どうやら女房と子供が居た事は嘘では無かったようだが。
「それからだな、あの人が壊れていったのは」
壊れた。その言葉は的確で、蝴蝶にも直ぐに思い当たる事があった。
もう死んでしまった女房と子供が疑いもせず本当に、家に居ると未だに思っている。
「まるで、人が入れ替わったかのようになってしまうんだ。奥さんと子供はもう居ないって理解しているあの人と、それを受け入れず現実を見ようとしないあの人が、入れ替わり立ち替わり喋る様を見た時は驚いた」
蝴蝶は自身が感じた以上に、あの男の心に刻まれた傷は深いものなのだと理解する。
「奥さんは亡くなるわ、あの人はああなるわで、呪われてるんじゃないかって捕盗庁では噂になったよ」
門番の男は口ではそう語るものの、その目は噂を信じていないと語っている。
「誰かに恨まれるような人では無いんだが」
ぽつりと、独りごちるように漏らされた言葉は、きっと蝴蝶へ向けられたものではないのだろう。
「もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
門番の彼が感傷的になっている所を、図々しくも自分の聞きたい事ばかり聞き出そうとして申し訳ないとは思うが、蝴蝶にとって世間話をしに来たのでは無いのだから致し方ない。門番も、しんみりとして悪いといったふうに声を半音上げて、暗い雰囲気を飛ばそうとする。
「そのお方は食べられない物などございましたか?食べると身体が拒否反応を示すだとか、単純に好き嫌いで食べられないなど」
さすがにこの質問には、蝴蝶に盲信的になってしまった門番とはいえ首を捻るが、まさか好き嫌いを尋ねるだけの質問に悪意を感じるわけもなく。
「うーん、あー、ん、思いつかないな。あの人は何でも食べてた気がする。俺が知らないだけかもしれないが」
記憶の引き出しを色々と漁っている証拠に、あー、とか声を漏らしていたが、どうやら引き出しに入れようと思えるほど、印象的な情報は無かったようで。
大衆の多くは食べられるが、特定の人だけ食べられないものがこの世には存在する。それを食物への
この拒否反応については、庶民はもちろん、教養の高い両班でさえも認知度が低く、食中毒、または原因不明の突然死、として扱われることが多い。そのため、あの男は
しかし、拒否反応についてどころか、好き嫌いさえ無いと言われてしまい、また毒への手がかりが一つ消え、心の内で落胆する。そも、馬鈴薯という食べ物自体、植物学者が生育しているのみで、市場には出回っていないのだから、馬鈴薯に対して男が拒否反応を示すかどうかなど、知る筈も無い事に気づいたのはたった今。
「あの、では、門番さんは馬鈴薯という植物をご存知ですか?」
駄目元承知で聞いてみる。もしも知っていたならお慰みだ。
「いや、知らないな」
やはり、とまた落胆するがそれを顔には出さず「ありがとうございます」と言って礼をする。
そろそろ話を適当に切り上げ、恵民署に帰ろうかと思うと、門番のごつごつと、たくさんの豆が固まった手のひらが蝴蝶の両肩をしっかりと掴んだ。
「門番さんではない、俺の名前は──」
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