三、贈物


 次の日の朝。

 相変わらず暑さは遠慮を知らず、空と地をじりじりと焼く。

 夏の暑さと同様に、秤娘チォンニャンもまた、毎朝変わらない起床時間、布団の片付け、朝餉、母との会話、椀の片付け、そして出勤。

 何も変わらない、少し退屈で、けれどそれ以上の幸せはない日々だと確かに思いながら、恵民署ヘミンソまでの道を歩いていた。

 秤娘の家は、都の真光ヂェンガンから少し離れた場所にあり、西の都に位置する恵民署へ向かおうとすると、必然的に静かな道のりが段々と賑やかになっていくものである。

 秤娘が歩いている現在も、都の喧噪がゆっくりと、歩幅に合わせて近づいてくる。

 そして、いつものように、都の端の道を歩いて、何にも目を奪われず、一直線に恵民署へ向かおうと思うが。


蝴蝶フーティエを元気づけたくて』


 昨日の、元牛ユェンニウの顔が浮かぶ。

 彼女を元気づけるために、彼はたいそうな簪を贈っていた。

 いつもならば、恵民署へ向かう道中で寄り道する事などない秤娘だが、ぴたりと足が止まる。





「蝴蝶」「蝴蝶」


 時は進み、場所は変わって、恵民署。

 敷地内にて、とある美しすぎる医女の名を同時に呼ぶ、秤娘と花精ファジン

 左右違う方向から呼ばれるものだから、蝴蝶はどちらにも目配せして、困ったように眉を下げる。


「えっと──。」


 先にどちらから対応しようか、と迷った蝴蝶は、先に目上の立場である、花精に決め、身体を少しだけそちらへ捻ると、秤娘は一気に距離を詰めてもう一度蝴蝶の名を呼ぶ。

 それに気がついた花精も、負けじと蝴蝶へ距離を詰め、蝴蝶を二人で取り囲んでしまった。


「二人とも、何か用──。」


「これ、あなたに。」


 蝴蝶が言い切るよりも先に、秤娘が差し出したのは紫色の巾着。


「こほん、私も蝴蝶へ、少しばかりの気持ちを。」


 蝴蝶の顔色が、わあっと花が開くように明るくなったのを見た花精も慌てて、朱色の正円の箱を差し出す。

 一気に二人から囲まれただけでなく、贈物までされてしまい、何が何だか分からなくなってしまう蝴蝶。

 贈物程度、蝴蝶ほどの容姿であれば、数え切れぬ程貰ってきたのだが、二人から同時は流石に無く──蝴蝶への贈物は待機列ができる為──また、贈物を贈る人物メンツが秤娘と花精、というのも蝴蝶を混乱させた。

 取り敢えず、蝴蝶は先に差し出してきた秤娘の方から受け取ることにし、もう片方の手で花精からの贈物も受け取る。

 全ての完璧をもってよしとする蝴蝶は、貰う時も混乱した態度など取れずに、最高の笑顔で礼と共に受け取る。

 その姿に、花精は少しだけ顔を綻ばせるが、秤娘の方は眉間に皺を寄せてしまっている。


「秤娘がくれた、これはなあに?」


 手に持って、巾着の中に四角の固い物が入っている事が分かる。

 そう尋ね、片手に花精からの箱を持ちながら器用に巾着を開けると、中から出てきたのは、白い固形物。


「石鹸。ジャンとか味噌とか、薬品とか、そういう頑固汚れも一瞬で落とせる代物よ。」


 今までずっと、恵民署の予算で買える安石鹸で服を洗っていた蝴蝶には、かなりの嬉しい物だったらしく、先程のように己へ完璧を求める笑顔などではなく、心の底からの笑顔を秤娘に向けた。


「本当っ?すごい!嬉しいわ!ありがとう、秤娘!」


 笑顔で礼を言った後に、花精から貰った方の、正円の箱も開ける。

 それは木製だが、つるつるとした手触りで、何か特別な技術を施された逸品だと分かる。

 中を開けると、朱色の箱よりも鮮やかな、紅が入っていた。


「わあ、綺麗な紅──。」


 くすみひとつない鮮やかな紅を、物珍しそうに見つめる蝴蝶。

 紅とは、両班ヤンバンの娘や、妓生キーセンの間でこそよく使われるものの、恵民署で産まれた蝴蝶には縁もゆかりも無い代物だった。


「唇に塗ったり、目元に塗ったり、頬に刺したり、爪に塗っても良いそうですよ」


 この紅を売った店の主の誘い文句であろうそれを、花精は並べる。

 女ならば誰しもが、一度は憧れる化粧道具。


「ありがとうございます、花精様!」


 秤娘の時とは、また違った笑顔でそう言うと、袖に顔を埋めて礼をする。

 そして蝴蝶は、貰ったどちらも、胸の襟の中に隠した。


「いいのですよ、ふふん。」


 これらは全て執務室での出来事なので、花精の態度は人の目を気にした、温和なものだが、機嫌が良いあまり鼻をならす。


「では、昨日の報告を執務室で聞きましょうか。园司ヤンスーを待たせてますので、手短に。」


 そう言って花精はくるりと踵を返すと、蝴蝶を連れて執務室の中まで、姿を消してしまった。

 秤娘は聞き慣れない名前にほんの少しだけ疑問を浮かべたが、自分には関係の無い事だと、考えることをやめる。

 それよりも、彼女の頭の中を支配したのは、蝴蝶の笑顔。

 秤娘もまた、機嫌が良いあまり鼻を鳴らしてしまった。


──────────


「なんだ、お主。珍しく機嫌が良いな。」


 機嫌の良い秤娘を、まるで今の季節に雪でも降ったかのように驚き、怪訝な表情で彼女を見るのは魚運ユーユン

 秤娘が薬庫に入ってすぐ、既に作業中の魚運は手を止めてそう言った。

 自分だって機嫌のいい時ぐらいある、と文句の一つでも言いたいが、魚運と会話がしたい訳ではないので、短く「手を動かして下さい」とだけ冷たく返す。

 先程まで顔を綻ばせていた少女は何処へやら、自分の発言で一瞬にしていつもの冷たい秤娘へ戻ってしまったため、幻覚だったのではとさえ魚運は自身を疑った。


「今日の薬庫の仕事は──もう、それの検品で終わり?」


 秤娘は、本日の業務内容が書かれた項目表チェックリストを確認するなり、今日の仕事の少なさに驚く。

 それの検品とは、現在魚運が作業している、今朝届いた生薬の検品だ。

 基本的に、恵民署での治療と、薬庫での調剤は分業されている。

 分業する理由としては、恵民署での治療は診察や処方、施術、入院中の病人の看護と、病人が居なくなるまで仕事が終わらないわけで、調剤を分業しなければ、恵民署という機関が成り立たない。

 そして、秤娘は若くして、ここの恵民署の薬庫で行う業務の責任者を任されている。

 いつもならば、治療に当たっている医官達から、秤娘へ軟膏が底見えしているだとか、処方する頻度が多い生薬の調剤など、依頼した内容を項目表に纏め、そこそこの仕事量があるはずなのだが。


「では、それが終わったら、診察にまわりましょうか」


 分業された仕事が早く終わったからといって、帰ったりできるわけではない。

 今日はこれだけで楽ができる、と高を括っていた魚運は、秤娘の言葉を聞いて大袈裟に落胆してみせる。

 そして、魚運の隣に立ち、生薬の検品をさっさと終わらせてしまった。



「あぁ、提調チェジョ様に診てもらえるなんて、幸運だぁねぇ」


 腰の曲がった婆は、診察を終えた魚運に皺だらけの手を擦り合わせ、うわ言のように何度も呟く。

 この恵民署の本当の提調は、本日執務室に入ったきり姿を見せていないが、花精は自ら診察する事が多すぎるために、花精の事をただの医官だと思っている病人が少なからず居る。

 しかし、魚運もなんとなく否定する気にもなれず、何十年もの常連である婆にいつもの生薬を処方して帰す。


「魚運様、まだ診察出来たんですね」


 婆を見送った魚運へ、そう棘のある言葉を贈るのは医女の美雨メイユイだ。

 提調であった頃は実際に病人を相手にした事は無く、提調でなくなってからも、薬庫にての簡単な作業ばかりをしていて、長らく診察はご無沙汰だった。

 こんなにも若い医女に揶揄われてしまうほどに落ちぶれたのか、と魚運はため息をつく。


「こうして、病人と相対するのも悪くないですよ?」


 自分がわざわざ診察しなければいけなくなった原因の根城である、診察室をじっと見つめる魚運の視界に、美雨が割って入る。

 美雨の言葉に対して、魚運は何も言えなかった。


「魚運様。予想より早く無くなった下剤の調薬をするために、私は薬庫へ戻ります。魚運様はそのまま診察をお願いします。」


 舌の上に乗せる言葉を悩んでいると、二人の後ろから秤娘が遠慮無しに話しかける。


「あ、ああ。」


 ただ業務連絡を淡々と伝えた秤娘は、そのまま茣蓙の上の診察場から、薬庫へ戻ろうと踵を返そうとすると、視界の端に、執務室から出てくる蝴蝶の姿をとらえた。

 秤娘は足を止めて、蝴蝶を目で追う。

 蝴蝶は執務室に居るであろう花精と、园丁に頭を下げると、恵民署の出入口である門まで歩いていく。

 恵民署からの外出があまり多い方ではない蝴蝶の、動向をそのまま見守っていると、恵民署の門の外で待っていた、身なりの良い男に挨拶をする。

 男、というよりも、幼さがまだ抜けていない少年。

 蝴蝶や、秤娘よりも幼い年齢だろう少年は、誰かの面影を感じるものの、その少年に見覚えは無い。

 秤娘は目を細めて様子を注意深く伺うが、二人は少し談笑した後、恵民署の外へ消えてしまった。

 最後まで見届けた秤娘は、胸の内にかかるどす黒い霧をなだめるように、胸を強く押さえる。

 そして彼女もまた、薬庫の中へと消えてしまった。






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