十四、怪しい炎③
唐突の熱傷の急患が訪れてから一夜明け、朝餉の時刻。いつものように給仕の手伝いをする
「朝餉になります」
身体の大部分の皮膚を植え替えた雲嵐は、なんとか昨晩目を覚ましたものの、気道が熱でやられてしまい、口に出来るのは液体状のものばかりだ。重湯に
雲嵐は愛らしいが過ぎる蝴蝶に少し頬を染めながら、食事の介助をしてもらっていた。
熱傷が染みるだろうが、意識があるならばなんとか飲んで貰わないと困る。そこで蝴蝶が匙を持って、口元へあーん、としてやると、雲嵐はついつい雛鳥のように口を開け、デレデレして飲み込んでしまうのだ。
雲嵐への朝餉の提供を終え、食器を台所へ持っていく途中、雲嵐とは別室にて、療養中の捕盗庁の同僚という男の部屋の前を通りかかった。
「余計な事をしたな…っ!」
押し殺すような声が、言葉としてはっきり聞こえたわけではなく、まるで痛みに耐えているように聞こえてしまったので、蝴蝶は部屋の中へと入る。
「どうかしましたか?」
蝴蝶が声をかけて入ると、男は病床の上で膝を抱え埋めていた顔をはっと上げる。
「ああ、ありがとうございます」
汗をじわりと滲ませた男は、蝴蝶の心配する様子に礼を言う。植皮に使用した皮のあった所が痛むのか、熱傷が痛いのかと尋ねてみるが、曖昧な返事が返ってくる。
患部が痛むのなら痛むと素直に打ち明けるものなので、そうではないのならばと安堵はするが、先程のうめき声は何だったのか、と気になってもしまう。
「最近、放火事件が相次いでいる事を知っていますか?」
蝴蝶が不思議そうにしていることを察して気まずかったのか、男の方からそう尋ねた。
「いえ、都ではあまり聞きませんがそんな事件が?」
「その事件が起こるのは決まって都の外れなので、知らなくても仕方ないですね──それで、その事件を追っていたのが同僚の雲嵐なんですよ」
男は同僚でもあり、昔馴染みでもある雲嵐を想って目を細める。
「昨日、雲嵐は犯人がちょうど火を起こしている現場に出くわしたそうで。彼は犯人が誰か知っているんですよ。──なので、一刻も早い回復と復帰をしてもらわないと」
男は唯一犯人を知る同僚があのような仕打ちを受けた事への悔しさなのか、震える拳を片手で抑える。
しかし、それは余りにも長く続く。男の拳の震えは悔しさ以外の感情が宿ったように強くなり、男はと言うと、押し黙ってその拳を抑えつける事しかしていない。先程からのおかしな様子に何かあるはずだと、蝴蝶が男の顔を覗き込むと、また、ぱっと表情を明るくする。
「そうだ、ずっと頼みたかった事があるのですが」
まるで先程の震えが無かったかのように、手はぴたりと動きが止まる。
「家で待つ女房と子供に、この手紙を届けて欲しいんですよ」
断るとも承知したとも言う前に、男は蝴蝶へ手紙と家の地図を
「というわけで、外出許可が欲しいです」
場所は変わって、花精の執務室。本日は診察はせずに溜めに溜めた書類仕事をしているようで、生薬の仕入れや、提供する食事に使われる食材の仕入れ、膏薬のもととなる油の仕入れなど、そういった内容のものに仕入れても良いという許可印を押しているようだった。
そんな仕事をこなす花精の前に立つ蝴蝶。外出許可願を申し出ているのは蝴蝶自身ではなく。
「だめだ」
花精は書類から顔も上げずに、そう言った。蝴蝶の隣には柳のような女が居るというのに、それは彼の限りなく素に近い態度だ。
蝴蝶が恵民署の外へ出るのはただ報告さえすれば、許可など要らない。しかし、柳のような女のように、恵民署に入院している病人には、担当医官の、すなわち花精の許可が無ければ無闇に外に出ることができない。
先程、昼餉が終わったあとに、蝴蝶が女のもとへ尋ね、入院病人の家族の元へ行くように頼まれた話を、つい、ぽろっと漏らしてしまったら、女が自分も行きたいと言い出してしまったのだ。
「何故ですか、花精様」
あまりにも外に出たい、と強請る友人のためにも、蝴蝶は何とか粘ってみせる。具体的にどう粘るかといえば、天が作りたもうし極上の、この、顔でだ。
目をいつもより輝かせ、自分の愛らしさを最大限に引き出せる角度で、腰を下げて、執務をしている机の淵にちょこんと指の先を揃えて、何故か合わせようとしない視線の先に入る。
こうして自分に落ちない生き物は見たことが無い、という自信を心の内に隠し、徹しきる蝴蝶に返ってきた反応とは、目の前でゆらりと現れた手は中指と親指で輪を作ったもので───。
「あだっ!?」
親指に抑えられていた中指の力が弾けるようにして、蝴蝶の額を直撃する。
「そんな素振り、私以外の男にすればもっと痛い目をみるぞ、というお仕置きだ」
涙目で額を抑えながら睨む蝴蝶を、花精はじとりと見下ろす。
(昨日添い寝を頼んだ男にするとはこいつよっぽどの莫迦か計算か)
呆れついでに花精はそんな事を考えるが、花精の痛い目を見る、という言葉を全く理解していない様子の蝴蝶に、よっぽどの莫迦だと確信を抱く。
「それに、彼女は脳の病だ。無闇に刺激を与えれば残っている内出血が他を圧迫し、生命に関わるかもしれない。許可など出来るか」
すっと、男としての花精から、医官としての花精へと顔を変える。蝴蝶は至極真っ当な意見に何も言えなくなってしまう。
「私、もう、ずっと床の上で…気晴らしがしたいんです」
恵民署へ彼女が来てから、ひと月は経とうとしている今まで、ずっと床に縛り続けてきた。それは彼女の身体の薬になりこそすれ、心の毒にもなっていたようだ。
柳のような女の訴えに、花精は瞳を閉じ腕を組んで悩む。
「…分かった。医学生を一人共につけ、走るなど頭を揺らすような行動には気をつけるように、という条件つきだが」
柳のような女の心情に譲歩した花精に、蝴蝶と女はわっと手を合わせて喜ぶ。二人して礼を言うと、女は出かけるため、着替えに病室へと向かった。
「あの子、距離感覚も平衡感覚も正常に戻っているんですよ」
嬉しそうに病室へ向かう女の背中を見送ると、仕事の再開をした花精へぽつりとそう言った。
「頭の中に血などもう無くて、後はあの子の心の問題じゃないかなって、思うんです」
蝴蝶の推測に、花精は何も言わない。
「術式を終えてから毎日同じ夢を見るそうです。以前言っていた、男の人が出てくる夢。術式の前はぼんやりとしか見えなかったのに、術式を受けてからは顔や声まではっきり分かると」
今まで治療といえば、鍼が申し訳程度の外科的治療で、他は生薬や膏薬、食事が支配した治療を見て育っているため、未だに花精のような治療はしなくても良いならそれに越したことはないと、蝴蝶は考えている。
「もしかしたら、その夢の人が記憶を取り戻せない原因かもしれませんし、ある日ふと、夢の中で夢の人のように思い出すかもしれませんし」
そうなれば、頭を開ける事はしなくてもいいのではないかと、暗に伝える。
「そうだな──が、私は仕事で忙しいんだ、お前も早く出かける準備をしてこい」
花精もわざわざ
「外出許可、本当にありがとうございます花精様」
執務室を出る直前、頭を下げる。蝴蝶の浮かべた笑みはどこかいたずらっ子のように無邪気で愛らしく、そこに計算された何かは存在しない。
花精はわかったわかったと言いながら、書類と睨めっこしている素振りをするが、目の端でしっかりと見ている。
誰も居なくなった執務室、花精は「莫迦だな」と独りごちてからさらに言葉を続ける。
「私にはその計算されてない姿が一番効くというのにな」
ふっと鼻で笑うと、花精は今度こそ書類と睨めっこを始めた。
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