二十四、手を
─────────
何をしていたか、思い出せない。漠然と、自身への認識はあるが、それはあまりにも希薄で、今にも無に飲み込まれて消えてしまいそうだ。
身体が浮いていても、疑問すら湧いてこない。
無の中を漂っていても、この中が母の
ほどけた長い黒髪がゆらぐ。
いつも髪を結っている、朱の髪結布はどこに行ったのだろう。あれはとても大切なものなのに。
あれを探そうと、手を伸ばそうとすると、鉛を繋がれたように重く、動かない事に気がつく。
あの髪結布を探して、手を出さないといけないのに。
母がくれた唯一の髪結布。
顔も見たことない母だけれど、あれを探しに行けば、会えるような気がするのに。
「寂しかったの?」
誰かの声だ。自分が発したものではない。
母の顔を見たことが無いから、寂しかったのだろうか。
もう一度考えてみると、答えは一つ。
「寂しくはなかったけど」
けど。その言葉はそこから続かなかった。
「何故?」
声はまた、問いかける。
何故って?何故って、それは、もちろん。
「皆が居るから。皆が愛してくれるから。」
この言葉に、声からの返事は無かったが、自問自答をした。
皆って?
やっと、思い出す。何をしていたのか。
寂しくない。それは、お
それに
使えないけど、
ここは、
恵民署に帰らないと。帰るために、この手を動かさないと。
─────────
「──」
「────蝶」
「
蝴蝶が、長い、長いまつ毛をぱちぱちと羽ばたかせると、それに気づいた数人が、口々に蝴蝶の名前を呼ぶ。
いつの間に寝たんだろう、と蝴蝶は眠る前の記憶をなんとか探しながら、意識を掴もうと藻掻く。
手が暖かくて、重たい。
「気がついたか!」
一番に蝴蝶の視界を占領したのは寝起き早々、
何故こうもこの人は焦っているだろうか、と身をよじろうとすると、左腹部に痛みが走る。
「こら、まだ動いてはいけません」
痛みに顔を歪ませると、眉をひそめて諭すようにして言われてしまう。
そこでやっと、蝴蝶は眠る前の事を思い出す。
襲われていた彼を助けようと、無我夢中で飛び込んだのだった。
その彼が、目立つ外傷も無く、こうして無事に居てくれている。
「
彼の名を呼ぶ。
蝴蝶の声には、周囲が明らかにただならぬ情が乗っていると察せる程に、優しいものであったが、蝴蝶本人はそれに気づいてなどいない。
「ありがとう、蝴蝶、私を助けてくれて」
花精はその声と想いに答えるようにして、こうして目を開いた彼女に、直接伝える事が出来て良かった、と声を絞り出し握る手にも力を込めた。
そこでやっと、蝴蝶は手の温かさと重さの正体に気づく。
そして、もうぼんやりとしか思い出せないが、不思議な夢の事を想う。
あの時、手を伸ばせていたら、どうなっていたか。
目を覚ます事は、無かったかもしれない。
「私も、助けられました。この、握ってくれていた手が、私を」
大勢が、蝴蝶の帰りを待ってこの場に居合わせている事など忘れているかのように、花精と蝴蝶は互いだけを映し語り合う。
「蝴蝶!忘れてんじゃないの?」
二人のいい雰囲気にわざと割って入るのは、秤娘。
蝴蝶の左の手をずっと握っていた医女だ。
「私も貴女の手をずっと握ってたんだからね」
何事においても冷めた態度の目立つ彼女が、少し目を釣り上げて詰め寄る姿が珍しくて、蝴蝶は思わず耐えらないといったように、笑いだしてしまった。
牡丹でさえも、蝴蝶の前ではその花弁を閉じてしまうような愛らしい笑みに、秤娘はじっと見ていることしかできない。
「ありがとう、秤娘。」
貴女って、そんな子どものような事を言う時もあるのね、なんて余計な言葉は飲み込んで、礼だけを述べる。
「お、俺もずっと見守ってたよ、蝴蝶!」
秤娘の隣から顔を出してきたのは元牛。
それを皮切りに私も、と柳のような女も身を乗り出し、俺も、私も、と口々が蝴蝶の目覚めを喜び、祝った。
もう一度蝴蝶は皆に礼を言うと、あまり病人に疲れさせるのはよくないと园丁が気を遣い、病室から全員を追い出してしまった。
一気に静けさを取り戻した病室で、蝴蝶は傷に障らないよう注意をはらいながら、ゆっくりと寝返りをうつ。
「本当に、あなたを
蝴蝶の病室から執務室へと戻るなり、园丁は花精に詰め寄るようにして問う。
花精もあまりの気迫に気圧されてしまい、頷くことで精一杯だ。
「はぁ。一部の者たちには喋るな、と書いた札を首から下げさせるべきですかね」
园丁は頭を抱えながら、有名な逸話を口にする。
それはとある王が家臣たちに、口は災いの元として行った悪政だ。
もちろん、园丁はほんの例え話に過ぎないつもりで話しているが、出来ることならそうしたいと思うのも事実。
何故なら、一部の商人に知られてしまうほどに、情報の徹底がされていないから、花精の生命が狙われてしまった。
「この件については、王宮に戻った際にまた話しましょう。確か、予定では明日でしたよね」
この二人の今の様子だけを見て、花精が上司で园丁が部下だと言い当てる者は居ないだろう。
园丁の、まるで明日の
明日王宮へ訪れる話題を出されるなり、まごついた様子になる花精もまた、彼の息子のように見えてしまう。
「その件なんだがな、うん、ホラ、蝴蝶の状態が心配だからせめて一日延ばす事は──」
花精は口にしながらも無茶を言っている自覚があるのか、はたまた园丁からの厳しい視線に耐えかねたのか、言葉の尻がどんどん小さくなっていき、言い切る前に消えてしまった。
「花精様。最近何かと言えば蝴蝶、蝴蝶。たかが一人の医女に固執されては困るのですが。貴方、まさか」
园丁は言葉を続けながら、花精の方へと歩み寄る。
だんだんと近くなる园丁の顔を見ていると、花精は自分の思惑を全て見透かされている気がして、顔を紅潮させてゆく。
「帰省の時も、あの蝴蝶を連れて行こうだなんて、思っていませんよね?」
花精は思ってもなかった言葉に「へ」と間抜けな声を漏らす。
が、花精の脳内情報伝達はこれほどまでに無い速さで回転する。
そして、花精に満開の笑顔が咲き誇る。
「そうか!それは名案だ!园丁、よく言った!」
ここで余計な事まで言ってしまった、と気づいた园丁だがもう遅い。
彼の思ってもいなかった事まで口走って、恐れていたことを現実にしたのは他でもない、自分になってしまった。
「うんうん、あいつも経口栄養には限界を感じていたものな!よし!明日は王宮に行って直接おじさんに交渉しよう!」
先程まで行きたくない、とごねていたはずが、途端に上機嫌で乗り気になり、明日王宮へ行くための準備をいそいそとする花精に、背中を向け、執務室を出ていく园丁の表情からは、生気の灯火が今にも消えそうになっていた。
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