八、蝶の家
すっかり遅くなってしまったので、
当直の医官や医女、医学生はもう既に食べ終えてしまったらしく、夕餉を食べるための当直室の長机には、三人が余裕を持って座ることができた。
昨夜もそうであったが、どうやら花精は食事中の会話をとても楽しむ性格らしく、よく蝴蝶や园丁へ話を振った。
蝴蝶も园丁も振られれば答えるが、そこから会話を開く訳でもなく、蝴蝶と园丁だけで話すという事は無い。
そんな食事中の会話のひとつで、花精がふと蝴蝶に提案する。
「給仕の仕事では無くなったからな、今日は家に帰るのであれば送ってゆこう」
治安が行き届いた都、
「いえ、必要ありません」
しかし、蝴蝶は花精の優しい提案を、思案する様子すら無く断ってしまう。あまりにも早い返答に花精は深く考えてしまい、蝴蝶はそれなりの護身術を身につけているのかとか、ここから家はすごく近かったりするのかもしれないとか、色々仮説を立てた中、最後に出てきたものが蝴蝶を送ってそのまま狼になると思われているかもしれない、というものだった。
「大丈夫だ、蝴蝶。私はそういう事をきっちり弁えているつもりだし、出会って数日の恋文を交わさない男女がそういう事になるのは私も思わしくないと理解しているから…」
自分はしっかりとした貞操観念を持っているぞ、という事を真剣な顔で話していたのだが、蝴蝶は今にも口から「は?」という言葉が飛び出てきそうな表情をしていた。
ちらり、と园丁の方を見れば刹那目が合い、気まずそうに、目を飯の器に落とす。
「コホン、忘れてくれ」
花精が少し顔を赤らめて咳払いをし、前のめりになっていた姿勢を正す。
「花精様が一体何をお考えになっていたかは知りませんが」
蝴蝶の遠慮の無い言葉に花精はうっ、と持っている箸を強く握り顔を下げる。
花精は蝴蝶に考えていた内容をしっかり察せられた上で、そのように言われてると思い、非常に居た堪れない気持ちのまま黙って聞いているのだが、蝴蝶は残念ながら、花精の言葉の意味を本当に理解していない。
「私、帰る家がありませんので、必要ないんです」
さらりと言って、蝴蝶は箸から匙へ持ち替えて粥を食べる。その言葉には哀しさも、寂しさも、妬みも、一切の感情が、こもっていなかった。
蝴蝶の様子に、驚いている自分がおかしいのかとまた园丁を見やるが、园丁も驚いているようで、箸を持つ手が止まっている。
「それは…」
何故だ、と聞こうとして、踏み込んだ話題だと気づき、手前で足踏みをする。
聞いてしまってもいいものか、気を悪くさせたのではないか、と様子を伺う花精を、蝴蝶は不思議そうに見ている。
「何か深い理由があるのか?」
深い理由で話したくなければ「はい」で終わり、それほど話しても苦にならないものであれば話し出すための、簡単な入口にもなる言葉を選んだ。
「そんなこともありませんよ、簡単な話です」
神妙な面持ちで、慎重に聞き出そうとした花精に対して、蝴蝶は何故そこまで重苦しくなっているのかすら分からない、という顔をしている。
そして蝴蝶は、昨夜は敢えて出す話題でもないと、話さなかった恵民署で寝泊まりする理由について、話し始める。
「私はこの恵民署で産まれ、身寄りの無い母は私を産んですぐに亡くなりました」
どこがそんなこともないだ、と花精は言いたくなってしまうが、口を真一文字に閉じて聞く。
「そこで、私を取り上げた誰かが私を引き取る事になったのですが、未婚の医女二人に任せてしまっては結婚が出来なくなってしまう、とのことで医官の
ここで、蝴蝶が実の父のように慕う医官の名前が出てくる。
「けれど、羊然の妻は身篭っていた子を流してしまってすぐの事だったそうです」
誰から聞いたのだろうか、昔話のように語るが、重くないと言える内容だとはとても思えない。
「ですので、私を引き取れるような精神状態では無かったそうで、私は恵民署で育てられることになりました。こういうわけで私は家がありません…いえ、私の家はこの恵民署になったのです」
蝴蝶は羊然の妻を恨む様子も無く、仕方の無いことだとでも割り切っているのだろうか、平然としている。
「寂しくはないのか?」
境遇は違えど、同じように母から離れ、医療の現場にて幼くして勉強をしていた花精は、常に孤独との戦いであった。なので、蝴蝶の様子をどうも強がっているとしか思えなかった。
「いえ、恵民署の皆は心から私を愛してくれましたので」
おかげで少しばかり自尊心が高く、自己愛の強い性格にはなってしまったが。
「そうか…」
それだけを言うと、自身の夕餉の器に目を落とした花精は、何を思っているのだろうか。
ただ园丁だけが、寂しそうな瞳で見つめていた。
「そうだ」
少し、冷たい空気が流れた後で花精はぱっと顔を上げる。
「私の家に来ないか?」
いつもの人前でわざと見せる笑顔ではない、満面の笑みで、突拍子もない提案をする花精に、蝴蝶も园丁も一瞬言語を忘れる。
「私の家には沢山の医療書、未だ制作が追いついて居ない故、ここには無いが、貴重な医療器具、珍しい病の
即答で断ろうとしていたのに、二人が言葉を失っている間に、医術の道に進む人間ならば、簡単に知的好奇心に負けてしまうような餌をぶら下げる花精に、蝴蝶が危うく世話になると言いかけたところ。
「な!り!ま!せ!ん!」
強く否定したのは园丁だった。
「…とにかく、花精様はご自身の立場をよく理解した行動をお願いします」
二人をただの上司と部下だと思っていた蝴蝶は、部下である园丁が上司である花精を叱る様子に驚いたのもそうだが、仕事上の関係にしては親愛のこもったそれにも、驚いていた。
そんな様子の蝴蝶を見て、园丁は花精を冷静に諌める。
「しかし蝴蝶は私の助手でもあるしだな」
「なりません」
花精のすがりつくような声色と目配せに、常人ならば頬を赤らめ、二つ返事で快諾してしまうだろうに、园丁はというと目も合わせず、きっぱりと却下する。
「それに、考えても見てください。蝴蝶殿のように一顧傾城の美しき女性と、花精様のような仙姿玉質の麗しい男性が、同じ屋根の下で生活している事が、恵民署の者達に知られるとどうなるか」
园丁の言葉に口を尖らせて拗ねていた花精も、蝴蝶もゆっくりと思考し始める。
「私を愛する皆が嫉妬で花精様を殺してしまうわ」
「私を追いかける世の人達が衝撃のあまり倒れてしまう」
どんな事を考えたか簡単に分かってしまう二人の想像した未来に、园丁は呆れたように笑い「そういうことです」と言う。
「まぁ、医療についての語らいはこの恵民署でもできるからな」
自分の美しさが周りに強く影響することを自負している二人はすっぱりと諦め、切り替える。もはやその自己愛は賞賛に値する程だ。
帰宅する花精と园丁を見送り、蝴蝶は今夜も、恵民署の厚い木の扉を閉めた。
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