十、一難去ってまた一難
「
刀の刃は柔らかな円を描いており、切り口の操作をしやすくなっている。頭部はしっかりと固定され、左耳の後ろから、後頭部まで、大きな円を描くように刀を入れる。
使い捨てで利用されるその刀の切れ味は鋭く、さっくりと表皮から筋膜まで容易く切ることができる。
「鉗子」
花精が必要とするたびに、鉗子を差し出す。一本の線で円を描くように切ったため、半円上の切り口の下部分は繋がっており、そこからめくるようにして固定する。
「骨鋸」
前回は使わなかったが、今回は頭の中の脳を守る頭蓋骨を取り除かなければならないので、そのための骨鋸を使用する。
顕になった頭蓋骨へ、桐のようにキリキリと四点の穴を慎重に作り、そこから指を使い四角形状に割った骨を取り除く。
最後に脳を守る砦となったのは、硬膜のみだ。ここへ到達するまで、花精は躊躇も、迷いも無かった。
「…フゥ、拡大鏡」
一息つき、拡大鏡を頭にとりつける。ここからがこの術式の佳境だ。
花精は身を屈め、患部に顔を近づける。刀をもち、慎重に刃を入れてゆく。
「あった」
花精がそう声を漏らすと、蝴蝶のほうに、使っていなかった方の手をくい、と差し出す。
「
蝴蝶は柔らかな素材で出来た管の先を花精に手渡す。
慎重に、慎重に、余計な部分を傷つけないように管の先を操る。花精の額にじわりと滲んだ汗を、蝴蝶は拭き取る。
「ここだ、吸い取ってくれ」
花精の合図に、蝴蝶は
そうすると、排液管には少し固まった赤黒い血が、ずるずると吸い込まれてゆく。
「よしっ、取れたぞ」
花精の明るい言葉に、蝴蝶は安堵して肩の力を抜くと「まだ縫合が残っているぞ」と言われ、姿勢を正す。
使用した排液管はもとの浅い盆へ戻す。
「針と糸」
縫合するための糸と、鈎のように曲がった針を手渡し、次にそれを掴むための
迅速かつ正確な縫合は、術式に立ち会う経験の少ない蝴蝶にさえ、この人は術式においては上級の医官なのだろうと思わせた。
(これを神業というんだろう)
見惚れるような刀捌きと、縫合の技術。
それに、蝴蝶は神業という単語を当てはめて納得する。
硬膜を丁寧に綴じ、頭蓋骨は骨を縫合するための縫合糸を使い、縫う。
表皮も縫い合わせて、刃先の丸い剪刀で余分な糸を、ぱちりと切った。
「術式、終了。」
安堵の息と共に、伝えられた終了の言葉に今度こそ、肩の力を抜く蝴蝶。
「花精様、術式は成功ですか…?」
術式中、目立った危機も無く、順調に進んだ故に成功だろうとは確信していた蝴蝶だが、どうしても花精の口からその言葉を聞きたかった。
「いや、この病人が目を覚まさない限り、成功とは言えない」
てっきり自信たっぷりないつもの顔で「成功だ」と言ってくれるものだとばかり思っていた蝴蝶は、小さく「そうですね」と返すと、眠り続ける柳のような女を見つめた。
「目を覚ましても予後には様々な問題が待ち構えているからな…」
花精がすっかり疲れ切って、施術台の端に両腕で体重を預けながら話す。蝴蝶はその話を聞きながら包帯を手に取り、女の頭に巻いてゆく。
「例えば縫合不全というものが術後に問題となる」
ちょうど包帯を巻いていた蝴蝶は、縫合されている患部へ目を落とす。
「原因は様々だが、そのひとつに栄養状態が悪い事が挙げられる。縫合された部分が繋がるための力が足りないからだ」
蝴蝶の包帯を巻く手がぴくりと反応する。が、すぐにまた手は動き出す。
「私は栄養管理はからっきしなんだ、しばらくは術式の予定も無いし、この病人の栄養管理は蝴蝶に任せるよ」
花精は手のひらで自身の頭を抑えて、大袈裟に分からないという態度をとってみせる。
「つまり、私は…その、給仕の仕事をしてもよろしいという事ですか」
包帯を巻き終えた蝴蝶はゆっくりと言葉を紡いだ。
「術前術後の栄養管理は、病人の予後に大きく影響する。寧ろ、蝴蝶のように栄養管理に深い知識が無ければ、務まらないだろう?」
けろりと言ってのける花精の様子に、蝴蝶の脳裏に一つの疑問が浮かぶ。
「では何故一度給仕の仕事から解雇したのですか」
恨みがましさをはらんだ視線を、花精へぶつける。
「ああでもしないと助手になってくれそうに無かったからな」
蝴蝶の視線に乗せられた思いを察した花精は、にやりと笑ってそう言うと、施術室からさっさと退散してしまった。
「偉い人ってどうして自分勝手なんだろうね」
綺麗に包帯が巻かれ眠る友人に話しかける。返事が返って来ないのは分かっているが、花精の勝手さを誰かに言ってしまいたかった。
「忙しくなるなあ」
給仕の仕事に、たまにとはいえ花精の術式の助手。
これから容易に想像できる多忙さにため息をつくが、蝴蝶の口元は柔らかかった。
柳のような女の開頭術式を終えてから、一日と少しが経った。昼餉の準備を終えたので、蝴蝶は女の様子を見に、昼餉を持って病室を訪れた。
以前として眠り続ける友人は当然だが、まともな食事を摂れていない。なので常食を
(意識が無くても十分な栄養素を与えられる画期的な方法があればいいのだけれど)
花精の故郷ならあったりはしないだろうか、と考えるが、そのような手段があるのならば、とっくに教えて貰ってるはずだという結論に至る。
術式が終わった直後は希望に満ち溢れていたというのに、今の蝴蝶の思考を占拠するのは、悪い方向への考えばかり。眠っている女を見て、このまま目を覚まさないのではないかと考えてしまい、頭を振って否定する。
とにかく手を動かさなければ余計な事を考えてしまうと、蝴蝶は皿の中の水飴を匙で混ぜる。蝴蝶の手作りなので、出来がきちんとしたものか些か不安だったので、花精に滋養強壮にも良いといわれる高級薬品、蜂蜜を強請ってみたところ、あっさりと快諾してもらった。
届くのは数日後だというが、それを待たずとも目覚めて欲しい気持ちが強い。
「目を覚まし……ん…?」
ぴくり、
柳のような女の、指先が動く。
「………。……。」
ぱちぱちと女のまつ毛が踊る。唇はうっすらと開かれ、何かを訴えているようだ。
「目を覚ましたの!?」
蝴蝶が病床に横たわる女の顔を覗くと、虚ろな瞳が現実を探して、だんだんと現れる。
「花精様、花精様!」
慌てて病室から飛び出て、敷地内の茣蓙の上でいつもの様に庶民の病人相手に診察をしているはずの花精を探す。
病室から出てすぐの廊下からでも見える茣蓙の上の診察場で、病人に舌を出させて咽頭を見る花精は蝴蝶の呼びかけに気づき、ちらりと見る。
「目、目覚めました、あの子が!」
その言葉に表情を明るくさせたのは花精だけではない。この
花精は膏薬を取りに言っていた园丁に「発熱、鼻炎、全身倦怠感だ」とだけ告げ、病人の診察を交代するなり、飛ぶようにして病室に入る。
続いて蝴蝶も病室へ入ると、病床の上で柳のような女は上半身を起こしていた。
花精は腕で女の背中をささえるようにして傍に寄り、蝴蝶は花精のすぐ隣で腰を下げ視線を低くして傍に寄る。
「気が付きましたか、自分の名前はわかりますか?」
花精の問いに、柳のような女は言葉を詰まらせる。
「う、……ぁ、わ、分かりません……思い出せないです……」
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